実録ザ・ヤクザ映画とアンチ・ヒーローの時代


「仁義なき戦い」

- 深作欣二 Kinji Hukasaku -
<「ヤクザ映画」を越えた傑作>
 「仁義なき戦い」は、「ヤクザ映画」の傑作と呼べるだけでなく、黒澤明以来、最も海外の映画に影響を与えた犯罪アクション映画の傑作と呼べる作品です。ジャンル分けにより「ヤクザ映画」とされているものの、この作品は犯罪アクションであり、青春映画であり、コメディー映画であり、戦後史のドキュメント映画でもある総合的な一大エンターテイメント作品になっています。
 映画ファンの中には「ヤクザ映画」というジャンル分けにより、先入観から観ていない人も多いかもしれません。(僕も実は1作目しか観ていません)北野武の「アウトレイジ」が究極のクール・ヤクザ映画の傑作とすれば、この映画はその対極に位置するホットで昭和なやくざ映画として十分に見ごたえがあると思います。
 是非一度ご覧になってみて下さい。

<実録・ヤクザ映画誕生>
 1960年代、斜陽の日本映画界で任侠映画は一時代を築いていました。義理人情に厚いヤクザを主人公とする任侠映画は、時代劇に飽きた大人の男性客に受け入れられただけでなく、学生運動に燃える若者たちの間でも反権力のヒーローとして高い指示を得ていました。しかし、ある種の様式美の世界だった任侠映画は、高倉健、鶴田浩二ら大物俳優の人気に支えられていてブームの終わりは見えていました。任侠映画は、新ジャンルだったとはいえ、明治時代に舞台を移した時代劇の亜流でした。そのうえ、すでに時代は、昭和の後半「戦後」となっていて「任侠」の世界もまた「任侠」から「ヤクザ」の世界に変っていました。その意味では、暴力と金と麻薬から成り立つ「戦後ヤクザ」の世界を映画化した映画はまだなかったといえます。そこで、戦後ヤクザの世界をリアルに再現した本物のヤクザ映画を撮ること。それが「仁義なき戦い」の重要なテーマとなっていました。
 映画の原作となったのは飯干晃一の小説ですが、それは実際に戦後の広島で起きたヤクザの抗争史を基に書かれた実録作品になっています。ちなみに、シリーズの2作目「広島死闘篇」は飯干の小説の続編が間に合わなかったため、脚本家の笠原和夫がオリジナルの脚本として仕上げていますが、それも笠原自身が綿密な取材を行って書き上げたものでした。当然、明確に実在の人物たちがモデルとしていましたが、名前はすべて変更されています。
<追記>
 笠原の脚本にはフランス映画の名作「我等の仲間」(ジュリアン・ジュビビエ監督作、ジャン・ギャバン主演)が大きな影響を与えているようです。青春時代の仲間たちが1人の女性によって崩壊するのが「我等の仲間」で、この映画は焼け跡に集まった若者たちが1人の組長によって、仲間割れしてしまいます。

<深作欣二>
 深作欣二は、1930年7月3日水戸市郊外の農家に5人兄弟の末っ子として生まれました。内気な性格だったため、家で本ばかり読む少年でしたが、小5の時、太平洋戦争が始まると典型的な軍国少年になったといいます。ところが、軍需工場が多かった水戸は何度も空襲に襲われ、その度に彼は気が狂いそうなほど恐ろしかったといいます。彼は勤労動員で日立製作所でゼロ戦の機関銃を作り続けますが、その工場も空襲で破壊されてしまいます。彼は艦砲射撃によって死んだ工員たちの死体処理をさせられ、それが忘れられない記憶となって心に傷を残すことになりました。
 終戦後、勉強する気になれなかった彼は、映画館に通う毎日を過ごします。中でも西部劇などの活劇映画には惹かれますが、戦後民主主義を代表する映画の数々にはうそ臭さを感じていたといいます。それでも彼は日大の芸術家に入学し、文芸科を卒業後、東映に入社します。(知り合いのコネで入社したとのこと)当初は、脚本家になりたかったのですが、脚本家の仕事がなかったことから、仕方なく助監督として働き始めました。
 1960年、東映に「ニュー東映」という新しい部門ができ、彼はそこでB級アクション映画を量産するチャンスを得ます。そして、1962年「誇り高き挑戦」でやった彼は監督として注目されることになりました。この作品で、彼はヤクザのヒーロー役のイメージが崩せずにいた鶴田浩二にあえてサングラスをかけさせ、目を見せないクールなイメージを作ることに成功します。当時、東映では藤純子を主役とした任侠映画路線が好調で、彼も任侠映画を撮ることになります。しかし、彼にはそうしたファンタジー映画のような様式美の世界に納得できずにいました。ところが、そのころ運命は大きく変わろうとしていました。東映のドル箱スターだった藤純子が歌舞伎俳優の尾上菊之助と結婚して芸能界を引退してしまったため、彼女中心の任侠映画はもう撮れなくなりつつありました。さらに鶴田浩二や高倉健を中心とするヤクザ映画もまた観客にあきられ、観客動員が減少傾向にありました。
 そこで深作はそれまで脇役としてヤクザ映画に出演し続けていた菅原文太を主演に抜擢し「現代やくざ・人斬り与太」(1972年)「人斬り与太・狂犬三兄弟」(1972年)をヒットさせます。
「もし人間に出会いという状況があるとすれば、『人斬り与太』こそが菅原文太と私の出会いだろう。組織に組みこまれず、それの欲望に忠実に生き、堅気を脅し、女を犯し、痛い目にあえば悲鳴をあげ、人間というより獣に近い生涯を生きたチンピラやくざ。文太も私もどんなにこの主人公の像を愛したことか」
 そして、この菅原文太を再び主役に迎え、彼の代表作であり、新たな時代のヤクザ映画が誕生することになります。

<深作欣二、京都へ>
 新しい映画を撮るためには、新しい監督が必要である。ということで、東映のプロデューサー日下部は、東京でB級アクション映画専門に監督をしていた若手の深作欣二を京都に呼び寄せます。彼の映画のスピーディーなカット割りに、それまでにはない新しさを感じての抜擢でした。
 とはいえ、彼は京都太秦撮影所ではまったくの新人で、普通なら先輩スタッフたちにいびられて当然の立場でした。しかし、彼の人間的な魅力がそれを回避させ、逆にみんなが彼のために必死で働くようになります。
 彼は「何か、ちょっと違うんだよな」といっては、何度も撮り直ししたり、用具や衣装をつくり直させたりして、作品をより完璧に仕上げてゆきました。
 「仁義なき戦い」のシリーズ全5作品には、ひとつだけ共通する映像があります。それは第一作のオープニング映像「原子爆弾のきのこ雲」から生まれた「原爆ドーム」の映像です。広島の荒廃した街が生んだヤクザたちのルーツには間違いなく「原子爆弾」が存在しているわけです。深作監督は、そのことに最後までこだわり続けたのでした。
「戦いが始まるとき、まず失われるのは若者の命である。そして、その死が、報われたためしがない・・・」
「仁義なき戦い 代理戦争」(第3作)より
 深作の反体制的な思想は、この映像だけでなく映画全体に影響を与えることになります。
<追記>
 深作監督のカット数の多さは有名でした。
 作さんの映画に限って、出来上がった後でプロデューサーが「もっと尺を短くしろ」と注文をつけることはない。むしろ短くなって出来上がってくる。カットが短くて、芝居をダブらせて撮るからだ。・・・編集でつないでみると実にスピーディーでリズムが出るし、尺も短く仕上がる。これはマキノ雅弘巨匠の影響だというのが私見である。(あと岡本喜八も)その代わり、編集は無茶苦茶たいへんだし、フィルムの量も膨大にかかる。細部にまでこだわり倒すから、リテイクも多い。
日下部五朗「シネマの極道」より

 深作に監督させる時は、プロデューサーは少なくとも二割は予算を隠しておけ、というのが業界の通説だった。こんな監督、映画界が斜陽になってい以降、他にいなかった。黒澤明と深作欣二だけだ。
日下部五朗「シネマの極道」より

<リアリズム「ヤクザ映画」>
 本物のヤクザの世界を実際の事件を基に描くという挑戦は、脚本だけでなく作品製作の現場全体に及んでいます。
<俳優>
 ヤクザをリアルに表現するには、従来のスターが従来の配役で従来の演技で演じるのでは不十分と深作は考えていました。そこで彼は有名、無名に関係なく、それまでの実績を無視した配役を行いました。そのうえ、この映画は実録ものであるだけに、主役は一人ではなく何人もの俳優がエピソードごとに主役となる群像映画となりました。そのため、この映画ではすべての俳優たちに光が当たる要素があり、ここから多くの個性的な俳優たちが登場することになりました。
 川谷拓三、志賀勝、岩尾正隆、片桐竜次、野口貴史、室田日出夫、小林稔侍、梅宮辰夫らは、後に「ピラニア軍団」という俳優チームを結成しますが、彼らはこのシリーズから俳優としての地位を確立することになりました。なかでも川谷拓三は、第3作の「代理戦争」では一躍クレジット上位の配役のより一気に注目の個性派俳優の仲間入りをしています。
 第2作の「広島死闘篇」で凶悪なヤクザ、大友を演じた千葉真一は、それまでテレビの人気ドラマ「キイハンター」でアイドルスターの地位を確立していながら、この映画ではそうした俳優イメージを壊しかねない役を演じることで俳優として大きな進歩を遂げることになりました。
<撮影>
 この映画の撮影は当時としては珍しく京都太秦の撮影所を出て、京都市内の様々な場所でゲリラ的に行われました。そのうえ、撮影の際はカメラを固定せずにあえて3人がかりでカメラを持ち上げての移動撮影を行いました。まだ移動撮影用のカメラはない時代で、当然映像はブレることになりましたが、それが逆に映像のリアルさを生み出すことにもなりました。さらにこの撮影では同時録音も行ったので、聞き取りにくいもののそれもまた観客に臨場感を与えることになりました。(カメラのモーター音を消すために暑い中、カメラマンは毛布をかぶっていたといます)
 クエンティン・タランティーノやジョン・ウーら海外の映画監督たちの多くはこうして撮られた路上での迫力ある映像に衝撃を受け、それを自分たちの映画に生かすことになります。
<衣装>
 この映画でヤクザたちが着ているスーツは、一着づつ手作りで、スーツの下に着ているドレスシャツも一着づつスーツに合わせてスーツ用の厚手の生地から作ったもので、1着45000円もしたといいます。(現在の価格にしたらその十倍?)なぜ、スーツ地を持ちいたのかといえば、ジャケットを脱いだ時にも、シルエットを保ち、高級感もあるからだったからのようです。
 この映画は予算が少ないためにブレブレのロケーション撮影を行ったと言われていた気がしますが、実はそうではなく、予算をかけるところにはちゃんとかけていたようです。
<ナレーションと字幕>
 この映画の特徴的な部分は他にもあります。それは事実に基づいた実録ものであることを、より際立たせるための映像処理です。この映画の中の各エピソードのクライマックスをストップモーションにして、ナレーションと字幕を入れ、「いつ、だれが殺された事件」かなどを明確に表示していることです。
 ちなみにこの映画のナレーションは、ヤクザ映画の悪役俳優でもあった小池朝雄が担当しています。(彼は2作目以降は俳優として出演しています)ちなみにちょうど同じ頃、「刑事コロンボ」の放送が始まり彼はコロンボの吹き替えを始めていて、この後は声優としても大活躍するようになります。

<群像映画の時代>
 この映画が公開された1973年前後の時期は、複数の登場人物を主役として描く「ヒーロー」不在の群像ドラマが数多く作られています。その先駆者であるロバート・アルトマンは、1970年に陸軍野戦病院を舞台にした群像ドラマである「マッシュ」を公開。そして、1975年にはその完成型ともいえる名作「ナッシュビル」を撮ります。その他にも、多くの群像映画がこの時期誕生しています。
フィリップ・カウフマンの「ミネソタ大強盗団」(1972年)、サム・ペキンパーの「ビリー・ザ・キッド 21才の生涯」(1973年)、ロバート・アルドリッチの「北国の帝王」(1973年)、ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィッティ」(1973年)、フランスではフランソワ・トリュフォーの「アメリカの夜」(1973年)・・・
 こうした作品に共通しているのは、それまでのハリウッド映画へのアンチテーゼを提案していたということです。それは、ニューシネマから始まった若手映画人のハリウッド再生の動きが生み出したスタイルだったといえます。そうした群像映画だけでなく当時のハリウッドでは、それまでにないアンチ・ヒーロー映画数多く撮られていました。1960年代が終わり、「シラケ世代」と呼ばれる1970年代の若者たちが登場するまでにも、映画界ではまだ反逆精神を反映した名作が数多く誕生していたのです。
リチャード・C・サラフィアンの「バニシング・ポイント」(1971年)
フランシス・F・コッポラの「ゴッドファーザー」(1972年)
リチャード・バックの原作を映画化した「かもめのジョナサン」(1973年)
ジョン・ミリアスの「デリンジャー」(1973年)
ボブ・フォッシーの「レニー・ブルース」(1974年)
シドニー・ルメットの「狼たちの午後」(1975年)
ミロシュ・フォアマンの「カッコーの巣の上で」(1975年)
 どの作品もアウトローたちを主役とするアンチ・ヒーロー映画の傑作ですが、その流れは1976年の「タクシー・ドライバー」(マーティン・スコセッシ)を最後に終わりをみせます。1976年と言えば「ロッキー」(ジョン・G・アビルドセン)の年でもあり、翌年には「スターウォーズ」が大ヒットを記録し、ハリウッドは次なる時代に突入することになりました。
 日本の映画界もその影響を受けないわけはありませんでした。コッポラの「ゴッドファーザー」がその他にも多くの実録もののギャング映画を生み出したように「仁義なき戦い」に影響を与えなかったはずはありません。この時期は日本で日本アートシアターギルド(ATG)が若手監督に多くの作品を発表させるチャンスを与えていました。そこから、大島渚、吉田喜重、黒木和雄、篠田正浩、実相寺昭雄、寺山修二などが登場。さらに日活ロマンポルノからは、藤田敏八、神代辰巳、若松孝二、村川透らが登場しました。

 1970年代は、戦前の英雄は過去ののものとなり、その後に登場した戦後の英雄たちもまた過去のものになった時代だったといえます。ビートルズは解散し、キング牧師もガンジーもチェ・ゲバラもこの世を去り、平和と平等のための革命も幻となりました。そんなヒーロー不在の時代でも、人々は自分たちのヒーローを求めるものです。だからこそ、英雄とは呼べない犯罪者や若者たちに光が当てられ「アンチ・ヒーローの時代」がやって来たのです。
 こうした背景があったからこそ、深作監督のこの歴史的名作が生まれたとも考えるべきでしょう。

「仁義なき戦い」 1973年
(監)深作欣二
(企)俊藤浩滋、日下部玉朗
(原)飯干晃一
(脚)笠原和夫
(撮)吉田貞次
(音)津島利章
(出)菅原文太、松方弘樹、田中邦衛、渡瀬恒彦、伊吹五郎、金子信雄、川地民夫、内田朝雄、中村英子、志賀勝、川谷拓三、片桐竜次、梅宮辰夫、野口貴志、岩間正隆・・・
<あらすじ>
 復員兵の広能(菅原文太)は、戦地から戻り広島県呉市の小さな組、山守組の身内となります。そこで彼は山守組と敵対関係にあった土居組の組長を暗殺しますが、山守組の組長(金子信雄)から邪者扱いされてしまい、自ら自首して出て刑務所で服役します。その後、山守組は勢力を拡大しますが、組の内部では主流派の坂井鉄也(松方弘樹)と反主流派の有田(渡瀬恒彦)が対立。ついに内部抗争が始まってしまいます。そんな状況の中、刑務所から出所した広能は、その対立に巻き込まれて行きます。そして彼は、山守組長から坂井の暗殺を指示されます。

<仁義なき戦い 五部作>
「仁義なき戦い」(1973年)
「仁義なき戦い 広島死闘篇」(1973年)
「仁義なき戦い 代理戦争」(1973年)
「仁義なき戦い 頂上作戦」(1974年)
「仁義なき戦い 完結篇」(1974年)

伝説的テレビ番組「傷だらけの天使」((1974年放送)萩原健一、水谷豊)の第一話の監督も深作さんでした。
先日、久々に見ましたが、彼らのブレブレの動きや音声の聞き取りにくさは、「仁義なき戦い」と同じ手法です。
いやあ、音楽がカッコよすぎ!井上堯之&大野克夫
BS12にて再放送、地上波ではあの内容、あの台詞じゃ、再放送絶対に無理ですよね。

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