「かもめのジョナサン Jonathan Livingston Seagull」
「かもめのジョナサン 完成版 Jonathan Livingston Seagull The New Complete Edition」
「イリュージョン 退屈している救世主の冒険 Illusion」

- リチャード・バック Richard Bach -

<時代を象徴する一冊>
 「かもめのジョナサン」が一大ブームを巻き起こした1970年代前半は、アメリカがヒーローを求めていた時代でした。ヴェトナム戦争における敗北、公民権運動の終焉、ケネディ大統領、キング牧師の暗殺事件、そしてウォーターゲート事件など、次々に起こった国中を揺るがす大事件によって政治体制がガタガタになってしまったアメリカ。当時アメリカでは、ブラック・パワー、フェミニズム・パワー、ゲイ・パワー、そしてフラワームーブメントに代表されるヤング・パワーが生み出したカウンター・カルチャーがそれぞれ勢いを増しつつあり、それらが旧体制を過去のものにしつつありました。それまで、世界最強の軍事大国であり最も豊かな経済大国だったはずの国が、その勢いを失い、信じるべきものを失いつつあったといえます。
 当然のようにそうした不安定な時代には、様々な新興宗教やカリスマ的な人物が登場し、迷える人々の心をつかむことにもなりました。インド発のハレクリシュナのブームはちょうどこの頃ですが、1978年にガイアナで集団自殺を遂げる人民寺院は、そうしたカルト教団が迎える悲惨な結末を象徴する存在でした。1970年放送開始のテレビ「謎の円盤UFO」だけでなく当時のUFOブームは、まるで新興宗教のように世界中に広がりをみせ、世界各地にUFOが飛来する場所が現れ話題になりました。そのうえ、当時は麻薬によって意識を拡張する試みもまた一大ブームとなっていました。ジョン・C・リリーのように科学者と宗教家の垣根を越える研究者も現れます。しかし、麻薬の広がりは、そうしたまじめな研究などとは別にアメリカ国内の黒人層、若年層へと広がりいつの間にかアメリカ国内をガタガタにしてしまうことになりました。

<時代が生んだヒーローたち>
 こうして時代は、失われた過去の英雄に代わる存在を求めていました。こうして1970年代には、様々なヒーローたちが登場することになります。それを映画の世界から探してみると、「ダーティー・ハリー」(1971年)のハリー・キャラハン、「フレンチコネクション」(1971年)のポパイ、「バニシングポイント」(1971年)のコワルスキー、「エルヴィス・オン・ステージ」(1971年)のエルヴィス、「小さな恋のメロディ」(1971年)の小さなカップル、「ゴッドファーザー」(1972年)のドン・ビトー・コルレオーネ、「黒いジャガー」(1972年)のシャフト、「ゲッタウェイ」(1972年)のドク、「燃えよドラゴン」(1973年)のブルース・リー、「狼よ、さらば」(1973年)のポール、ロックミュージカル「トミー」(1974年)のトミー、「ロッキー・ホラー・ショー」(1975年)のフランクフルター博士、「狼たちの午後」(1975年)のソニー、それに「猿の惑星」シリーズの猿たちなど、様々なジャンル、様々なタイプのヒーローたちがいました。
 ニューシネマが描いた「アンチ・ヒーロー」タイプのヒーローが活躍した時代を過ぎると、時代は「悪のヒーロー」、「体制内反体制ヒーロー」、「右派で暴力肯定のヒーロー」、「肉体鍛練派のヒーロー」、「黒いヒーロー」、「ゲイのヒーロー」、「過去のヒーロー復活」、「人間ではないヒーロー」など、今までのヒーローとは異なるタイプが乱立する時代になりました。この後、時代は悪でも正義でもない「病気のヒーロー」ともいえる「タクシー・ドライバー」(1976年)のトラヴィスという異端のヒーローを生み出します。
 時代が変わるのは、トラヴィスの誕生と同じ年のこと、「ロッキー」の公開から再び「アメリカン・ドリーム」が見直されるようになり、1977年の「スター・ウォーズ」ではいよいよ強いアメリカのヒーロー像が復活し、1980年代のアメリカはロナルド・レーガンの登場とともに「強いアメリカ」の時代が始まることになります。
 1970年に出版されたこの本は、当初ごくわずかしか世に出ない無名の書でしたが、口コミで話題となり、ついには世界中で出版され大ヒットすることになりました。写真と身近な文章からなる本書は、どの国の人々にも、どんな性別、年齢の人々にも受け入れやすい内容だったのかもしれません。

「今、求められてるだろ?君みたいなものがさ、つまり精神的なものだよ、みんなインスタントのピザパイやポルノの自動映画やネオンサインとか3曲50セントのやかましいジュークボックスにウンザリしてるかあなあ、世の中が君を放っておくわけないよ」
リチャード・バック著「イリュージョン」より

<カリスマ・ヒーロー、ジョナサン>
 ジョナサンは、とにかくカッコいい。彼は多くのヒーローがダメ男からスタートして成長してゆくのに対し、初めからヒーローになる才能を持ち、自らの判断で道を歩み出します。彼は生まれた時からヒーローになるべき道を歩んでいたともいえます。

「・・・・・すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることによりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。」

 もちろん、彼は自分の力だけで究極の存在になれたわけではありません。彼はその能力ゆえに群れから一人離れ、その後、張(チャン)という名のカモメと出会います。(この張というアジアの名前からして、当時アメリカがいかに西洋文明に対し失望していたか、そのれゆえにアジア文化への憧れが生まれつつあったのかが伺われます。ブルース・リーのブームもそうした下地があったからこそ生まれたといえます)
 それまで彼が自力で到達した地点に対して、チャンはまったく別の世界観を提示し、それに対しジョナサンはこんな問いかけをします。

「・・・・・わたしたちはどこへ行くのでしょう?そもそも天国などというものは、本当はどこにもないんじゃありませんか?」
「その通りだ、ジョナサン、そんなところなどありはせぬ。天国とは、場所ではない。時間でもない。天国とはすなわち、完全なる境地のことなのだから」


 彼はジョナサンに目指すべき境地を教え、「飛ぶ」ことの究極のかたちを教えます。

「思った瞬間にそこへ飛んでゆくためには、ということはつまり、いかなるところへでも飛ぶということになるのだが、それには・・・・・」と彼は言った。
「まず、自分はすでにもうそこに到達しているのだ、ということを知ることから始めなくてはならぬ・・・・・」


 最終的に時をも越える能力を身に着けることが可能になった時、彼はさらにもうひとつ上の段階に達することになると予告します。

「そうすれば、お前は過去と未来を自由に飛行できるようになる。そしてそこまでゆけば、お前は最も困難で、最も力強く、かつ最もよろこばしい事柄のすべてと取り組む用意ができたといえるだろう。そしてお前はそのとき、より高く飛びはじめ、また優しさと愛との真の意味を知りはじめる用意ができたことになるのだ」

 彼はカモメとしての高みへと上り詰めて行きますが、いつしかそうした境地を目指す努力に空しさを感じ始めます。何のためにこんなことをしているのだろう?自分だけは高みに到達しても何も満足は得られないのではないか?これは当然の疑問かもしれません。こうして、彼はあのイエス・キリストがそうしたように天上の世界から地上へと舞い降りる決意を固めたのでした。しかし、そうした彼の思いは天上界で理解されることはありませんでした。

「ジョン、君は一度追放されたカモメなんだぜ。昔の仲間たちが、今さら君の言うことなんか聞くはずがないじゃないか。例のことわざを知ってるだろう。あれは本当のことさ。<最も高く飛ぶカモメは最も遠くまで見通す>というやつだ。君の古巣にいるカモメたちは、地面の上で離れたところにいるんだ。それだのに君は、やつらをそこに立たせたまま、天国を見せてやりたいっていうんだからなあ!ジョン、彼らは自分の翼の先っぽだって見えないんだよ!・・・・・」

 ちなみに自らが学んだ境地についての知識を、そこから地上に(一般社会)持ち帰り、人間社会に還元することの重要性については、禅宗をアメリカに広めた当時のヒーローの一人鈴木大拙氏の著書にこうあります。

「・・・極楽に往ってじっとしているのではなくして、極楽に往ったならば、正覚を開いて、そこからまた、この世界に生まれて返ってくる、これをもって、私は真宗の終極の目的であると思いたい。
 この正覚という経験を、われわれは社会経験に帰すべきである。・・・・・」

鈴木大拙「禅とは何か」

 こうして、彼は多くのカモメたちのもとにもどり、その思想を伝え始めます。

「彼はごく単純なことを話した - つまりカモメにとって飛ぶのは正当なことであり、自由はカモメの本性そのものであり、そしてその自由を邪魔するものは、儀式であれ、迷信であれ、またいかなる形の制約であれ、捨てさるべきである、と。」

 最後にジョナサンは弟子たちの前を去る時、いくつかの重要な言葉を残しています。

「彼らにわたしのことで馬鹿げた噂をひろげたり、わたしを神様にまつりあげたりさせんでくれよ。いいかい、フレッチ?わたしはカモメなんだ。わたしはただ飛ぶのが好きなんだ、たぶん・・・・・」

「わかったな、フレッチ。きみの目が教えてくれることを信じてはいかんぞ。目に見えるものには、みんな限りがある。きみの心の目で見るのだ。すでに自分が知っているものを探すのだ。そうすればいかに飛ぶかが発見できるだろう」

「カモメとは、自由という無限の思想であり、また<偉大なカモメ>のいわば化身であって、体全体が翼の端から端まで、きみらがそれを考えるもの以外の何ものでもないことを理解しなければならん」

「イリュージョン」、ジョナサンから7年後>
 「かもめのジョナサン」ブームから7年後、1977年、長く沈黙を守っていたリチャード・バックは、再び、「空飛ぶ生き物」の物語を発表します。地方を回り、その土地土地でお客を乗せて遊覧飛行を行う飛行士の物語です。このお話の主人公は飛行士リチャード(著者と同じ)という飛ぶのが生きがいの人間。彼の前にひとりの飛行機乗りドンが現れます。その飛行テクニックの見事さに惚れ込んだリチャードは、彼に弟子入りし、行動を共にし始めます。
 ところが、しだいに彼はドンの飛行テクニックが論理的に不可能なレベルに達していて、それどころか燃料も必要としていないことに気づきます。実は、ドンはかつて救世主と騒がれ、その後騒動の中突然行方不明になった伝説的な自動車修理工だったのです。彼はリチャードに自分と同じ能力を身につけさせてあげようといい、救世主になってみないか?ともちかけます。
 ジョナサンから7年。人々の求めるヒーロー像は変わり、彼らが求めていた自由の定義も変わりました。

「映画が人生そのものだとしたら、どうして恐怖映画や詰まらない退屈なメロドラマを見にくる人々がたくさんいるのかなあ、ドン、教えてくれよ」
「君は自分の好きなイリュージョンを見る、彼らも彼らが好きなものを見る、それが自由ってものさ」
「でも進んで退屈を好むこともないと思うけどなあ」
「そういう人々が本当の不幸な人々なんだよ、自分達にはこういうものが面白いはずだと最初から想定して、あるいはそう思わされて、見に行ってくる」
「コマーシャルで?」
「彼らは自分で不幸を選んでるんだ、でも、リチャード、それでいいんだ」


「自由と生きるためには、退屈と戦う必要がある。
 退屈を殺し灰にしてしまうか、退屈に殺されて家具になるか、激しく根気のいる戦いである」

本書に登場する「救世主入門書」

 さらにジョン・レノンの「イマジン」の影響か?「想像力」という言葉の重みはより増しています。

「でも人を引きつけあっれるようになるまでには、長い間の信仰が必要だろう?」
「信仰なんて言葉どこから持ってきたの?」
「いや別に、ちょっと使ってみただけや」
「信仰なんてバカの使う言葉だ」
「じゃ何だ」
「想像力」


「イマジン、想像せよ
 宇宙は美しく完璧であると、
 預言者は君達よりうまく
 それを想像するだけである。」


<アンチ「かもめのジョナサン」>
 実は「かもめのジョナサン」は、ベストセラーになっている時から、すでにその内容に対する批判は多くパロディー版までヒットするほどでした。(確か僕も読んだ気がします)それどころか、この本を日本語に翻訳した人気作家の五木寛之が、なんと日本版の「あとがき」にこう書いているのです。
「しかし、この物語が体質的に持っている一種独特の雰囲気がどうも肌に合わないのだ。ここにはうまく言えないけれども、高い場所から人々に何かを呼びかけるような響きがある。それは異端と反逆を讃えているようで実はきわめて伝統的、良識的であり、冒険と自由を求めているようでいて逆に道徳と権威を重んずる感覚である。・・・・・」

 確かにその通りだと思います。それにしても訳者が「あとがき」でこんなことを書いちゃうなんて、なんと言う自由な時代だったのでしょう。

 7年後の発表された「イリュージョン」は前述の五木寛之に代わってやはり当時時代の寵児となっていた人物、村上龍だ担当しています。そして、この村上龍もまたこんなことを「まえがき」に書いちゃってます。
「・・・リチャード・バックについては、有名なジョナサンも読んでいないし、、全く知らない。ただ、世界的なベストセラー作家になってしまった彼が、周囲の喧騒から守ろうとした大事なもの、それはこの作品から想像できる。それは輝く草原であると思う。・・・・・」

 冒険好きの村上龍なら確かにこの空飛ぶ作家の気持ちには共感できる部分も多いでしょう。おまけに処女作がいきなり大ベストセラーになり、一躍大スターになってしまった点でも二人は大いに共通しているのですから。彼は「まえがき」にこうも書いています。

「・・・空っぽになろうが何も書けなくなろうがそんなことはどうでもいい。最悪なものは退屈だ。退屈は始末に負えない。退屈している救世主と輝く草原のこの物語を、巨大な退屈の中であくびをしながら毎日何かを待ち続けるみなさんに送りたい。」
 1977年、時代が過激だった70年前後に代わって、「シラケ」と「退屈」の時代になっていたのは、アメリカも日本もいっしょだった気がします。当然、時代の変化とともにヒーローも代わったわけです。
 あなたにとってのヒーローとは?どんな時代のどんなヒーローでしょうか?

<気になるお言葉の数々>
 最後に「かもめのジョナサン」から気になるお言葉の数々をご紹介しましょう。説教臭いとはいえ、素晴らしいお言葉がありました。
 以下は、本書内に登場する「救世主入門書」からです。

「単純な疑問が最も深い意味を持っている。
 君はどこで生まれ、どこで育ち、どこで何をしようとそているのか?
 これらの答えは、君達自身と共に常に変化しているはずである。」


「いかなる種類や程度のものであっても、困難は君達に何かを与える。
 君達は、言うなれば、困難さを捜しているのである。
 困難さが与えてくれるものには、価値があることを知っているからである。」


「限界、常にそれが問題点である。
 君達自身の限界について議論せよ。
 そうすれば、君達は、限界そのものを手に入れることができる。」


「小説の登場人物になろうとしたことはなかっただろうか?
 もしそういう経験があるならば
 君達にもわかるかも知れない。
 時として、虚構の中の登場人物の方が、心臓の鼓動をもつ人間よりも強く、真実を語ることを。」


<追記>(2015年5月)
「かもめのジョナサン 完成版」について
 2014年になって発表された「完成版」を読みました。1970年に発表されたものが、3章までだったのに加え、第4章が追加されています。意外なことに、追加の4章は時代の変化に合わせて著者が新たに書き下ろしたのではなく、他の章と同じく1960年代末に書かれたものでした。当時、著者は3章までで良いと判断したもののようです。
 読んでみて、3章までにした理由がなんとなくわかりました。
 1970年代の初め、ヒーローたちはこの良から消えてゆくことで時代に爪痕を残しました。
俺たちに明日はない」のボニーとクライド、「明日に向かって撃て」のブッチとキッド、「イージーライダー」のキャプテン・アメリカとビリー、「バニシング・ポイント」のコワルスキー、「真夜中のカウボーイ」のラッツォ・・・ニューシネマのヒーローたちはその象徴でした。そこには、偉大なミュージシャンたちを加えることもできるでしょう。ジミ・ヘンドリックスブライアン・ジョーンズジャニス・ジョップリン・・・
 時代は次々にヒーローを失い、その後のことは、残された者に任されることになりました。そこから先がどうなるのかは、誰もわからなかったのです。そして、その先の予測として書かれていたのが、この最終章だったのでしょう。当時はまだ、その答えは明かしてはいけなかったのです。

<聖典の解釈変更>
 ある意味、1〜3章をイエスの生涯を描いた新約聖書の福音書だとすると、4章はイエスの死後、弟子たちが布教を行った記録を綴った「使徒行伝」ではないでしょうか。人類の歴史は「聖書」や「コーラン」などの聖典を、大衆がそれぞれ自分たちに都合の良いように解釈しながら分裂した歴史、と見ることもできると思います。21世紀に入ってからはさらにその状況が強まり、分裂は対立へと移行し危機的状況に陥りつつあります。
「この本には3章までで良いはずだ。4章は必要ない」 1970年の時点、著者はそう思っていたのだと思います。しかし、21世紀に入ると、それでは済まないことが明らかになってしまったのです。さらに残念なことに、こうした「聖典」解釈の暴走は、「宗教」だけではありません。
「経済学理論」に基づく「グローバリズム」という聖なる名前を持つ自由主義経済の暴走。
「科学」という名の新しい宗教に基づく「原子力」、「遺伝子工学」、「高度医療」などの急激すぎる発展。
「国家の安全保障」という名の絶対的な原則に基づく、聖典であるはずの「憲法」を改正する動き。
・・・・・様々な分野で、「聖典」の意味が失われつつあるのです。

映画「かもめのジョナサン」 1973年
(監)(脚)ホール・バートレット
(原)(脚)リチャード・バック
(撮)ジャック・コーファー
(音)ニール・ダイアモンド、リー・ホルドリッジ

 限りなくカモメ目線に近いカメラワークから生み出される美しい映像は、当時としては画期的なものでした。観客がカモメとなって空を飛ぶ体験をするというのは、本ではあり得なかった映画ならではのものです。ストーリー的には、本の哲学的、宗教的な要素はより単純化され、カモメの冒険と最後に一人旅立つジョナサンのシンプルな挑戦の旅の物語として描かれていました。そうでなくても説教臭く聞こえるニール・ダイアモンドの歌がかぶさるだけに、ここはカモメの美しいく優雅な飛翔を素直に体感し、その喜びを共有できれば良いと思います。
 実は、この映画、カモメたちの映像を撮りまくり、それを上手く編集することで作り上げた映画ではありませんでした。そこにはカモメの調教師レイ・バーウィックという人物の存在があり、彼の演技指導によってカモメは演技していたというのです!

小説「かもめのジョナサン Jonathan Livingston Seagull」 1970年
(著)リチャード・バック Richard Bach
(写)ラッセル・マンソン
(訳)五木寛之
新潮文庫

小説「イリュージョン 退屈している救世主の冒険 Illusion」 1977年
(著)リチャード・バック Richard Bach
(訳)村上龍
集英社

小説「かもめのジョナサン 完成版 Jonathan Livingston Seagull The New Complete Edition」 2014年
(著)リチャード・バック Richard Bach
(写)ラッセル・マンソン
(訳)五木寛之

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