- ジョアン・ジルベルト Joao Gilberto -

<ボサ・ノヴァを生んだ男たち>
 ボサ・ノヴァを生んだのはいったい誰なのか?それには数多くの説があります。しかし、「ボサ・ノヴァ」いう呼び名をブラジル中に広めるきっかけをつくった歴史的なヒット曲「想いあふれて Chega de Saudade」の作者とその歌い手だけははっきりしています。
 その作者は、トム・ジョビンことアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ジ・モライスのボサ・ノヴァ最強の黄金コンビ。そして、その歌い手がジョアン・ジルベルトです。そして、このジョアン・ジルベルトは、この曲によってボサ・ノヴァ独特のささやくような歌唱法と不思議なリズムを紡ぎ出すギター(ヴィオラォン)奏法を生み出したのです。

<ボサ・ノヴァの時代背景>
 ボサ・ノヴァというノスタルジックでリズミカル、かつ浮き立つようなサウンドが一大ブームとなったのには、当時ブラジルがおかれていた特殊な時代背景が大きな影響を与えていたと言われています。
 第二次世界大戦において、戦禍を免れたブラジルは、世界の戦後復興において食料の供給国として大きな役割を果たしました。そのおかげでブラジルは経済的に大発展を遂げ、新しい国の首都として、ブラジリアという近代都市を何もない土地に建設してしまうほどの富を獲得します。南米の中心国としての地位を確立したブラジルはまさに黄金時代でした。(ブラジル・サッカーもまた当時ペレを中心に黄金時代を迎えています)
 そして、そんな時代に青春を謳歌した若者たちが自分たちの求める音楽として熱狂的に支持したのが「ボサ・ノヴァ」だったわけです。
 残念ながらこの時のブラジルの躍進は、あくまで農業と牧畜業が中心だったため、その後の世界的な工業化の流れには、かえって乗り遅れることになり、再び後進国へと転落してしまいます。(それが後に、農地を増やすための森林伐採の原因となり、地球温暖化の最大の原因のひとつともなるのです)そのうえ、こうして訪れた経済不安から生じた政治的混乱に乗じて、クーデターによる軍事政権が誕生、いっきにブラジルの黄金時代は終わりを迎えてしまいます。
 こうして、ボサ・ノヴァの時代は終わり、次なる若者たちの時代はカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルの登場(MPBの時代)を待つことになるのです。

<ボサ・ノヴァ誕生の謎>
 しかし、ボサ・ノヴァは、けっしてお金持ちのボンボンたちが生み出した単なるイージー・リスニング・サウンドではありませんでした。そのことは、ジョアン・ジルベルトがボサ・ノヴァを生み出すに至った物語を知るとわかるかもしれません。
 ところが、ボサ・ノヴァを生んだと言われる男、ジョアン・ジルベルト自身は「ボサ・ノヴァ」を歌っているとは、少しも思っていなかったといいます。彼は自分が歌っているのはサンバだと常々言っていました。さらに、あの独特のギター奏法を生み出した彼の空白の数ヶ月は、かつて悪魔と取引をしたと言われたロバート・ジョンソンも顔負けの謎に満ちています。

<ジョアン坊ちゃん>
 ジョアン・ジルベルトは、本名をジュヴェニアーノ・ジョアンジーニョといい、1930年リオ・デ・ジャネイロからは遠く離れた北東部のバイーア州ジュアゼイロという人口1万人ほどの田舎町に生まれました。彼の父親ジュヴェニアーノ・ヂ・オリヴェイラは熱心なカトリック教徒で町を代表する実業家でもありました。
 次男だった彼に対して、父親は医者、技師、弁護士になることを望み、教育に関してもお金を惜しみませんでした。しかし、ジョアンジーニョ少年はどこか他の子とは違うところがあり、いつもボーっとしている不思議な子でした。そんな彼に、ある時親戚の叔父さんがヴィオラォンをプレゼントしてくれました。すると彼は教則本を手に自学自習を始め、すぐにその演奏法をマスター、さっそく3人の仲間とともにグループを結成します。

<ブラジル・ポップス界のアイドル>
 当時、彼にとってのアイドルはオルランド・シルヴァというブラジルを代表するポピュラー歌手でしたが、もうひとりアメリカで活躍後、凱旋帰国していたディック・ファルネイもまた彼にとってのヒーローでした。
 そして、意外なことに彼には目標とするもうひとりのアーティストがいました。それは1950年代、世界のポップス界における最大のヒーロー、フランク・シナトラでした。彼は当時ブラジルにおいても絶大な人気を誇っており、今では考えられない人気者だったようです。「マイウェイ」以前のシナトラが得意としていたシルクのようなヴォーカルは、ブラジルにおいて絶大な人気がありました。ボサ・ノヴァ独特のあの歌唱法の元には、チェット・ベイカーとともにシラトラの存在があったと言われるのもそのためです。

<ジョアンの旅立ち>
 父親はそんなジョアン少年の音楽活動を知ると、学業の邪魔だと言って止めさせようとします。そして、彼が出歩けないように小遣いを渡すのを止めてしまいました。こうして彼はお坊ちゃん生活に別れを告げることになり、その後長きに渡り彼は貧しい生活を続けることになります。彼はほとんど家出同然で故郷を離れ、北東部最大の都市サルヴァドールへと旅立ちました。

<ガロータス・ダ・ルアからの誘い>
 
ジョアンは、なんのつてもなくサルヴァドールで音楽の仕事を探しますが、ラジオ局でのCMソングくらいしか仕事はみつかりませんでした。やはりリオ・デ・ジャネイロまで行かなければミュージシャンとしての活躍は難しかったようです。
 しかし、そんな時彼に幸運が巡ってきます。1950年頃、リオで活躍していたコーラス・グループ、ガロータス・ダ・ルアがメンバーを補強するため、ジョアンにわざわざ声をかけてくれたのです。彼はさっそくリオに向かいます。メンバー全員を前にテストを受けた彼は、当時実力ナンバー1と言われていたヴォーカリスト、ルーシオ・アルヴィスに匹敵すると評価され、ヴォーカリストとして本格的に活躍を始めます。

<ソロ・デビューへ>
 実力はありながら、彼はグループの一員として長続きしませんでした。彼にはグループ行動というものができなかったのです。リハーサルには遅れ、ライブも頻繁にすっぽかし、そのくせ後にシルヴィア・テリスとしてボサ・ノヴァ界の歌姫として活躍するシルヴィーニャ・テリスとの恋にうつつをぬかすなど、バンド活動などそっちのけの生活を続けます。どうも彼は真面目なタイプとはほど遠かったようです。結局彼は、父親のつてで得ていた名ばかりの下院議員の書記の仕事も首になり、ついにはガロータス・ダ・ルアも追い出されてしまいます。
 それでも彼の実力はそれなりに評価されていたため、彼にはすぐにソロ・デビューのチャンスが訪れ、1952年彼はシングル「彼女がでかける時 Quando ela sai」でデビューを果たしました。しかし、彼にとってのアイドル、オルランド・シルヴァはすでに過去の存在であり、それをマネた彼の歌も当然ヒットすることはありませんでした。(おまけに彼は、後にそのトレード・マークとなるヴィオラォンを弾いていませんでした)

<どん底生活とカリスマ性>
 こうして、彼の目の前には突然大きな壁が現れました。バンドのメンバーとしての定職を失い、今や父からの援助も失ってしまった彼には寝泊まりする場所すらなくなりました。そんな状態にも関わらず、彼がリオの街で音楽以外の仕事をせずに生きて行くことが出来たのは、彼の音楽的才能だけでなく人を捕らえて話さない不思議な魅力にあったようです。彼は友人の家や女性たちの家を渡り歩きながら、寝る場所と食事を得ていましたが、どの家の人々もいつに間にか彼のカリスマ的魅力に引き込まれ気がつくと彼を養うはめになっていたようです。(このあたりの逸話は、ニューヨークに出たばかりのボブ・ディランの生活を思わせます!)

<遙か南の街にて>
 しかし、そんな仕事のないすさんだ生活を続けながら、彼はしだいにマリファナ中毒になっていました。いつしか彼は食事もろくにとらなくなり、肉体的も精神的にもボロボロの状態になってしまいました。
 1955年ごろ、そんな彼の姿を見るに見かねた友人が彼をジョアンの妹が住む遙か南の街ジアマンチーナへと旅立たせます。こうして、彼は1956年の5月ごろまで、リオから遠く離れた姉の家でいそうろう生活を続けることになったのです。
 そこで彼は生活に困ることなく、マリファナとも縁を切り、創作活動に専念するようになります。彼はいよいよ音楽以外のことに興味を失って行きます。適度の湿気と密閉された空間をもつバスルームの音響が良いことに気がついた彼は、そこに一日中閉じこもって歌とヴィオラォンの実験に明け暮れます。そして、新しい音とリズムの発見があった時だけ、それを家族に聞かせようとそこから出てきたそうなのです。
 よくぞそんな奇人変人を何ヶ月も置いておいたものです。もしかすると、お姉さんとその家族なくして、ボサ・ノヴァは生まれなかったかもしれません!とにかく、こうしてあまりにも繊細な男によって、あまりにも繊細な音楽「ボサ・ノヴァ」が生み出されたわけです。

<再び自由の身に>
 その後、彼は一時父親の元に戻りますが、父親は彼の音楽に向かう異常なまでの姿勢を見て、無理やり彼をサルヴァドールにある精神病院に入院させます。しかし、幸いなことに、その病院の医師たちは、彼の症状は精神的な病ではないと診断。すぐに退院を許可。彼は再び自由の身になります。精神的に問題はないと診断された彼は精神的、肉体的にも自信を回復し、再びリオに戻る決意をしたのでした。

<新しい時代、新しい音楽の始まり>
 1957年、2年ぶりに彼がリオに戻ってきた時、街の若者たちの間では、大きな変化が起きようとしていました。サンバから発展したポピュラー歌謡「サンバ・カンソン」の古くささ、辛気くささに嫌気がさしていた若者たちは、自分たち自身の新しい音楽を求め始めていたのです。
 後に「ボサ・ノヴァの女神」と呼ばれることになるナラ・レオンのアパートにたむろしていた若者たちは、まさにそんな時代の流れを代表する若者たちでした。
 カルリーニョス・リラ、ホベルト・ネメスカル、シコ・フェイトーザ、ドリ・カイミ、ホナルド・ボスコリら、後のボサ・ノヴァ・ムーブメントを代表する前述の若者たちの前に、ある日ジョアン・ジルベルトいう不思議なアーティストが現れます。この時、若者たちは皆ジョアン・ジルベルトというアーティストの存在を知りませんでした。まして、わずか数年の間にジョアン・ジルベルトは人間的にも、音楽的にもまったく別の人間に変わっていました。
 彼らはジョアンのまったく新しい音楽を聞き衝撃を受けました。そして、すぐにジョアン・ジルベルトという謎の男のカリスマ性に魅了されてしまったのです。

<ジョビンとの出会い>
 こうして、自分の音楽に自信をえたジョアンは、当時売り出し中だった若手作曲家、アントニオ・カルロス・ジョビンを訪ねます。二人は、かつてリオの街で下積み生活をしていた同世代の若者でしたが知り合いではありませんでした。そのうえ、ジョンビンはすでに人気者の仲間入りをしており、ジョアンにとってはすでに雲の上の存在になっていました。それでも、ジョビンは、ジョアンがヴィオラォンを弾きながら歌う不思議な曲を聴くとすぐにその素晴らしさを理解しました。そして、、大物作詞家ヴィニシウス・モライスと共作したもののお蔵入りにしていた大切な曲「想いあふれて Chega de saudade」を取り出し彼に歌わせることにしたのです。

<想いあふれて>
 ジョビンの後押しもあり、彼のシングル「想いあふれて」(1959年)はレコード会社からもプッシュされ、静かに若者たちの間に広まって行きました。(サンパウロの街では、この曲を電話口で完璧に歌えたらLP10枚プレゼント!なんていうキャンペーンも行われたそうです。それだけ彼の歌は新しかったし難しかったのでしょう)
 彼の人気の高まりとともに、若者たちの間では、ヴィオラォンを弾きながら歌うスタイルが広まり、誰もがジョアンの弾き方を目指して練習を繰り返すようになります。それまでブラジルでもっともポピュラーな楽器はアコーディオンだったのですから、それは若者たちにとって大きな革新でした。(これはそのままフォーク、ロックの時代へとつながる布石ともなったのです)
 デビュー・アルバムに続いて発表されたセカンド・アルバム「愛と微笑みと花 O Amor,O Sorriso e Flor」(1959年)はいよいよ大ヒットとなり、彼の名はジョビンとともに海外へも広がって行きます。

<ボサ・ノヴァ、アメリカへ>
 1960年代に入るとアメリカのポップス系、ジャズ系のアーティストたちが、そろってボサ・ノヴァを取り上げるようになります。
 1962年11月21日には、ニューヨークのカーネギー・ホールにボサ・ノヴァ界のスターたちが一堂に会し、歴史的なライブが行われ、いよいよその人気は頂点に達します。しかし、この時アメリカを訪れたメンバーの多くはその後活動の拠点をアメリカに移すことになります。それは、彼らがアメリカでの豊かな生活を望んだためでもありましたが、この時期のブラジルの社会情勢も大きな影響を与えていました。1964年ブラジルでは軍部によるクーデターが起き、軍による圧制が始まっていたのです。その影響は、音楽界にもおよび自由な音楽活動は、少しずつ困難になろうとしていました。
 こうして、ジョアンもアメリカに渡る道を選びました。(まして、彼は元々アメリカが好きで、後に彼にとって最大のアイドル、フランク・シナトラとも共演しているのですから、それは夢の実現でもあったのです)

<イパネマの娘>
 1964年、ジャズ・サックス奏者のスタン・ゲッツからの誘いにより、彼はジョビンとともにゲッツとアルバムを共作することになりました。それが、ボサ・ノヴァの歴史に残る大ヒット作「ゲッツ/ジルベルト Getz/Gilberto」でした。このアルバムの録音は、完璧主義者のジルベルトがゲッツら他のミュージシャンたちと何度と無く衝突し、現場は混乱を極めました。しかし、それだけの修羅場を乗り越えたからこそ、20世紀のポップス史に残る名盤が生まれたとも言えるでしょう。
 ところで、このアルバムからの大ヒット曲「イパネマの娘」は、元々5分以上の長い曲でジョアン・ジルベルトと彼の奥方で当時まったく音楽活動をしていなかったアストラッド・ジルベルト二人のヴォーカル・パートが収められていました。もちろん、最初はこのアルバムの主役でもあるジョアンのヴォーカルのみで制作される予定だったのですが、結婚前から歌手になることを夢みていたアストラッドが自らプロデューサーに直訴して急遽二人の共演が実現したのでした。
 ところが、この録音を後で聞き直したプロデューサーのクリード・テイラーは、この曲をシングル・カットするためには5分では長すぎることに気づき、ラジオで放送可能な長さに無断でカットしてしまいます。こうして、ジョアンのヴォーカル・パートが消され、アストラッドのヴォーカルが「イパネマの娘」の声として、世界中に広まることになったのです。

<天才ジョアンのエキセントリック人生>
 この後のジョアンは超寡作なミュージシャンとなり、音楽以外の場面でそのエキセントリックぶりが話題になります。アストラッド・ジルベルトとは離婚し、ボサ・ノヴァに継ぐブラジルの新しいポップス、MPBの代表的ミュージシャン、シコ・ブアルキの姉ミウーシャと再婚しています。あまりにヴィオラォンの研究に熱中しすぎたために、彼は一時右手が筋肉膨張症という病にかかり思うようにヴィオラォンを弾けなくなってしまいます。その後、その病気は回復しますが、今度は喉の調子が悪くなり、益々彼は音楽の現場から遠ざかりました。(この時医者に声をあまり出さないようにと言われた彼は、電話の際モールス信号のように受話器をたたいて意志を伝えていたという逸話も残っています)

<その後のアルバム>
 1970年、なぜかメキシコに住み着いた彼は、メキシコの民謡「ベサメムーチョ」などボレロの名曲を歌ったアルバム「Joao Gilberto en Mexico」を6年ぶりに発表。これは、すでにボサ・ノヴァのアルバムではありませんでした。
 その後1980年、18年ぶりにブラジルに帰国した彼は、1981年にアルバム「Brasil 海の奇跡」を発表しますが、再びすぐに沈黙。その後1990年のアルバム「Joao」まで作品を発表することはありませんでした。そのうえ、彼はリオの自宅からほとんど出ることはなく、気が向いたときにコンサートを行うか、知り合いしか出席しないパーティーに顔を出す以外、ほとんど人前に出ることはなかったそうです。
 アルバム「Joao」に取り上げられている曲のほとんどは、ボサ・ノヴァ以前の古いブラジルの曲で、彼が以前から述べていたとうり「自分が歌っているのは、ボサ・ノヴァではなくサンバなんだ」と言っていた言葉を証明しているようです。
 未だに世界中の音楽に影響を与え続けているボサ・ノヴァですが、その生みの親のひとりジョアン・ジルベルトにとっては、もしかするとその発見の時点、1950年代ですでに終わってしまったものだったのかもしれません。
 天才というのは、そういうものなのでしょう。

<締めのお言葉>
「言葉は考えを伝える道具だ。考えを理解したら言葉は忘れられる」

荘子「道徳経」より

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