- ジョー・ジャクソン Joe Jackson -

<ニューウェーブ時代が生んだ天才>
 70年代後半のパンクからニューウェーブへの移行期、その頃登場したイギリスのアーティストたちの中には、それ以降に現れたアーティストたちにに比べ、ずいぶんと長い間活躍を続けているアーティストが多いような気がします。
 ポリスのスティング、ザ・ジャムのポール・ウェラーエルヴィス・コステロ、ケイト・ブッシュ、ブーム・タウンラッツのボブ・ゲルドフ、クラッシュのジョー・ストラマー、トーマス・ドルビー、ジャパンのデヴィッド・シルビアン、ニュー・オーダーのバーナード・サムナー、プリテンダーズのクリッシー・ハインド、XTCのアンディー・パートリッジ、それにU2のボノなど、例えバンドは解散しても、これらのアーティストたちは21世紀に入っても変わらず活躍を続けています。元はと言えば、ロックの市場がパンクの登場によって大きく揺すぶられることによって、彼らのようなちょっとひねくれ気味の天才たちが活躍する場が生まれたのですが、その後20年に渡って厳しい音楽業界で生き延びてきたのは、確かに彼らが本物の天才だったことの証に違い有りません。
 そんなニューウェーブOB組の中でも一際異彩を放つ存在、それがジョー・ジャクソンです。

<室内派の神童、ロックへ>
 ジョー・ジャクソンは、1954年イギリスの南の端に位置する街、ポーツマスに生まれました。喘息持ちだった彼は、回りの子供たちといっしょに遊び回ることができず、音楽の道を歩みだすことになります。彼は最初ヴァイオリンを習っていましたが、その後ピアノを買ってもらうと独学でどんどん上達、ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックに奨学生として入学します。彼はそこでピアノだけでなく作曲なども学びますが、もともとビートルズやキンクスなのどが好きだった彼は、卒業するとクラシックではなくロックの世界へと向かいました。

<音楽監督からデビューへ>
 当時、街ではパブロックのバンドが大人気で、彼はアームズ&レッグスなど、いくつかのバンドに参加しましたが、どれも長続きしませんでした。生活のため、彼は音楽の知識を活かした仕事、ピアニスト兼音楽監督としてクラブで働くようになります。一応安定して職につき、それから彼はじっくりと自らのデモ・テープの製作を始め、レコード会社に送り始めます。すると、その中の一本がA&Mレコードのプロデューサー、デヴィッド・カーシェンバウムに気に入られ、すぐに彼はレコーディングのチャンスを与えられます。(カーシェンバウムは後に、黒人女性シンガー・ソングライターとして旋風を巻き起こすトレーシー・チャップマンを見出したことでも有名になります)
 正式な契約手続きを行うより先に始められたというレコーディング作業は、わずか2週間で終了、デビュー・アルバム「ルック・シャープ Look Sharp !」は1979年あっという間に世に送り出されました。

<ニューウェーブからレゲエへ>
 彼のデビュー・アルバムは、同じA&M所属のポリスが、ポスト・パンクと言われたニューウェーブの波に乗って「ロクサーヌ」をヒットさせたのと同じように一躍脚光を浴びることになります。
 しかし、もともとロック・ヒーローを夢みていたわけではない彼にとって「ニューウェーブ」という狭いくくりは、まったく意味のないものでした。すぐに彼は新しい方向へと向かいます。それが1980年発表のサード・アルバム「ビート・クレイジー Beat Crazy」でした。
 このアルバムの中の曲「バトル・グラウンド Battle Griund」が、当時静かなブームを巻き起こしていたダブ・ポエットの第一人者リントン・クエンシー・ジョンソンに捧げられていたことでも明らかなように、この頃彼はロックよりもレゲエにひかれていたようです。
 とは言っても、ここまでは当時のニューウェーブ系アーティストならそれほど不思議な変化ではありませんでした。ポリスやクラッシュ、ツートーン系のバンドもまた同じような路線を歩んでいたのですから。その点では、彼がその激しいスタイルの変化故に「カメレオン・クール」と呼ばれるようになったのは、やはりその後のアルバム「ジャンピン・ジャイブ Jampin' Jive」(1981年)あたりからでしょう。

<レゲエからジャイブ・ミュージックへ>
 このアルバムで彼は、1940年代にキャブ・キャロウェイルイ・ジョーダンらの黒人バンド・リーダーたちによって生み出されたスウィング・ジャズの発展形、ジャンプ・ミュージック(ジャイブ・ミュージック)に挑戦しています。R&Bが生まれる直前のパワフルで猥雑なサウンドをロックのフォーマットで再現してみせたのです。
 こだわりだすと中途半端で止められない彼は、活動の場所をお気に入りの場所ニューヨークへと移します。こうして、ショービジネスの街にどっぷりと浸かった彼は、次なるアルバム「ナイト・アンド・デイ Night and Day」(1982年)を発表します。このアルバムでは、いよいよそのサウンドのロック色が薄れ、ギターの変わりにピアノを主役としたサルサやラップなど、当時のニューヨークを代表するサウンドが取り上げられるようになっていました。このアルバムからは、「ステッピング・アウト Stepping Out」が大ヒットし、彼にとって最大のヒット作となりました。(僕自身、この頃サルサにぞっこんだったので、このアルバムは大のお気に入りでした)

<ジャズへ>
 もちろん、彼の変身はそれだけではありません。次なるアルバムは、ジャケットからして話題を呼びます。ジャズ史に残る名盤のひとつ、ソニー・ロリンズの「ブルート 1958 No.2」のジャケットのパロディーを彼は自ら演じてみせたのです。内容ももちろん本格的なジャズ、それもビッグ・バンド・ジャズに挑戦した実に洒落たものでした。(ちょうどこの頃、セロニアス・モンクのトリビュート・アルバムが企画されていて、そこで彼はビッグ・バンドによる「ラウンド・ミッドナイト」を披露しています)

<究極のライブ・アルバムにチャレンジ>
 続くアルバム「ビッグ・ワールド Big World」(1986年)もまた実に彼らしい作品でした。
 ニューヨークにあるラウンド・アバウト劇場(劇場名からして洒落てます!)で3日間に渡り、彼はライブを行い、それを一発録り、オーバー・ダビングなしでアルバムにしてしまったのです。観客にも、このことは知らされており、拍手は曲が終わるまでしないようにという打ち合わせが行われていたといいます。従って、ミュージシャン側も観客の側も、かなり神経が張りつめた状態で録音が行われており、リラックスしたライブとはひと味違ったテンションの高い演奏を聴くことができます。考えてみると、かつてジャズの名盤の多くは、こうしたライブ録音によって生まれていました。彼はそんなジャズの感覚に近づきたかったのかもしれません。こんな挑戦ができたのは、彼に対するレコード会社のしっかりとした信頼があったからこそでしょう。(ついでながら、このアルバムはアナログ盤1枚半という変則スタイルで発売されており、2枚目のB面にはなにも入っていない珍盤なのです。これって、将来値打ちが出るかも?)

<オーケストラによるクラシックへ>
 「カメレオン・クール」ジョーは、さらにこの後1987年にはなんとフル・オーケストラによるオール・インストロメンタル・アルバム「ウィル・パワー Will Power」を発表します。日本でも、日本フィル・ハーモニー・オーケストラをバックにライブまで行ってしまったといいます。
 1990年、彼はベスト・アルバム「Stepping Out」を発表すると同時に、デビュー以来所属していたA&Mを離れVirginに移籍します。

<総決算アルバム>
 再出発となった作品「Laughter And Lust」は、ある種総決算的アルバムでロック・ミュージシャンとしての原点に戻りつつ、いろいろな要素を自然に盛り込んだ内容になっていました。クラシック、ジャズ、レゲエ、サルサなど、あらゆる音楽を生真面目に追究しつつも、その基本にはロックのもつ自由さと遊び心を常に持ち続けている。それが彼の音楽のもつ魅力です。
「古い歌は言う”私のベイビーになって”
 古い歌は言う”彼女は君を愛してる”
 僕らが歌うのは不確かな未来でしかない
 あのころの歌も好きだけど
 何か新しいやつのほうがいい」

The Old Song」 by Joe Jackson
 彼ほど、変化を続けるアーティストも珍しいのですが、変化にともなう危機を常に感じながらの作業は、けっして楽な道ではなかったはずです。それを楽しめるところまで、続けられたことこそ、彼が天才であることの証明なのかもしれません。

<締めのお言葉>
「自分がどれだけいろんな人物になれるのか
 知りたいものだ
 時間さえあったら
 どれが本当の僕か見つけだせるだろう」

「It's All Too Much」 From 「Laughter And Lust」 by Joe Jacson

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