- ヨハン・クライフ Johan Cruyff -

<サッカー界最高の選手は誰か?>
 「サッカー史に残る最高の選手は誰か?」この問いに対する答えとして第1位にきそうなのはやはり「サッカーの神様」ペレでしょうか。では、第2位は誰か?当然、ベッケンバウアーやマラドーナの名をあげる人は多いでしょう。しかし、50代以上のサッカー・ファンの多くは、ヨハン・クライフの名前をあげるのではないでしょうか。それだけ高く評価されている選手でありますが、僕は現役時代の彼のプレーをリアル・タイムで見ることができませんでした。かつて彼が所属し最強といわれた「オレンジ軍団」「空飛ぶオランダ人」のプレー・スタイルを「トータル・フットボール」と呼ぶことも知っていますが、それが具体的にどんなスタイルを表すものなのか?正直、あまり理解していませんでした。
 ヨハン・クライフとは?
 「トータル・フットボール」とは?
 サッカーを語るときにはずせない疑問に遅ればせながら迫ってみたいと思います。

<トータル・フットボールとは?>
 「トータル・フットボール」を体現したその申し子とも言える選手がヨハン・クライフです。しかし、そのシステムを生み出したのは彼ではなく彼が所属していたオランダのプロ・サッカー・チーム「アヤックス」の監督リヌス・ミケルスでした。このミケルスとクライフとの関係について、伝記「ヨハン・クライフ」の著者ミゲル・アンヘル・サントスはこう例えています。

「オーケストラに例えてみよう。ミケルスが指揮者でクライフがソリスト。その他のプレーヤーはオーケストラを構成するメンバーと言えるのではないだろうか」

 わかったような、わからないような感じですが、ここで先ず「トータル・フットボール」とは何かについてのミケルスの文章から始めたいと思います。
「トータル・フットボール」を実現するために必要な条件とは何か。
(1) 自分たちのスタイルを展開するために、常にイニシアティブ(主導権)を握らなければならない。
(2) イニシアティブを握るためには、チームがボールをキープする必要があり、そのためボールを探しに行って奪われなければならない。
(3) ボールを奪うのを容易にするため、プレーのフィールドをせばめる必要がある。そのためにはラインをコントロールするなどして相手の侵入口を閉ざす必要がある。
(4) ボールを持ったら、できるだけバリエーションのある攻撃を展開する。すべての選手がラインに参加する必要があるが「ディフェンス」が攻撃参加することが「トータル・フットボール」と    いうわけではない。注意する必要があるのはディフェンスの攻撃参加よりもオフェンスがすばやく守備に回る方が困難であり、危険がともなうということ。
(5) 「トータル・フットボール」において、ポジション・チェンジ(ポジションの相互交換)は非常に重要な意味をもつ。
(6) この戦術を実践できるチームは、ゲームが激しくなってきた時も、その逆の時も、自在に「ゲームのリズム」を支配するべきである。(それが可能である)

 なんとなくわかった気がしますが、「言うは安し、行なうはがたし」で、この戦術を可能にするためには、プレーヤー全員が戦術を理解するだけでなく、そのために必要な体力とテクニックを身につけていなければなりません。この点についても、具体的に述べられています。

(テクニック)
 すべての選手は、ディフェンス能力と同じように攻撃力を合わせ持たなければなりません。ゴール・キーパーもその例外ではありません。
(精神)
 責任感をもち、自己犠牲の精神を備えた選手を育成しなければならない。誰か1人でも気を抜くとそこから破綻してしまうのが「トータル・フットボール」の弱点であることを忘れてはいけない。
(身体)
 全員でラインを動かし続けられるよう誰もが十分な体力をもつ必要がある。
(戦術)
 熟練し、経験を積まなければならない。

 ミケルスの教え子だったクライフは「トータル・フットボール」をこう完結に定義しています。
「すべてのために責任を果たしたうえでの自由」 
もしくはこうも言っています。
「規律ある自由」

 ここで重要なのは、ミケルスは「トータル・フットボール」こそ最強のサッカー・システムであるといっているわけではないということです。
 最強、すなわち勝つためのサッカーとして有効なシステムを選ぶならイタリア・チームの戦術で有名な「カテナチオ」(鍵をかけるという意味)の方が優れているはずです。徹底的に守備に力を入れ、1点とって逃げ切ることをベスト・マッチとするその戦術を面白いと思う人はそういないはずですが、「勝利」こそ最大の「美徳」とみなすテレビ時代の現代サッカーでは、それを良しとするファンが多いのも事実です。どんなつまらない試合でも、地元のチームが勝つことをファンの多くは望んでいるのですから・・・・・。

<トータル・フットボールの弱点>
 「トータル・フットボール」は、勝利にこだわる戦術とは相反する可能性を内在しています。かつて、「オレンジ軍団」が世界最強といわれていた黄金時代も、オランダ代表チームはワールドカップの決勝で2大会続けて破れカップを手にすることができませんでした。(ただし、クライフは、決勝での敗戦は戦術ではなくトップに立つことを欲しないオランダ人の国民性によるものと考えているようですが・・・)
 とはいえ、「トータル・フットボール」にこだわる戦いには、どうしてもつけいる隙ができてしまいます。そのため、圧倒的な力の差がない場合、キッチリと守られてしまった場合には、とりこぼす可能性が高いのも事実なのです。ドリブルよりもパスを重視し、失点を恐れることなく全員で押し上げるサッカーをクライフは「スペクタクル・サッカー」と呼びました。そして、それこそサッカー・ファンに喜ばれる最も素晴らしいサッカーのプレー・スタイルであると彼は断言しています。
 Jリーグやワールドカップなどの試合をスタジアムで実際に見たことのある方。それも、コンパクトにラインを動かす素晴らしい展開を見せるチームの試合と出会ったことのある方なら、その時の統率のとれた美しいラインの動きに「スペクタル」を感じたのではないでしょうか。こればっかりは、テレビでは味わうことのできない感覚のはずです。クライフは、その素晴らしさを実体験として理解しているからこそ、観客にとって「スペクタクルな試合」こそが求められていると主張しているのです。僕もサッカーの醍醐味はそこにこそあると思っています。本当はサッカーはスタジアムで見るべきものだと思います。
 さて、それではヨハン・クライフはいかにして「トータル・フットボール」の申し子となったのか?今度はそこに迫ってみましょう。

<クライフ少年>
 ヨハン・クライフ Johan Cruyff は、1947年4月25日オランダの首都アムステルダム郊外の労働者地区で生まれました。果物や豆などを売る商売をしていた彼の家はけっして裕福ではなかったため、彼は必然的に路地裏で友達とサッカーに熱中する少年時代を過ごすことになりました。(この点ではペレやジダンと同じ境遇といえます)
 幸い、彼の家のすぐ近くに地元のプロ・サッカー・チーム、アヤックスの本拠地であるデメール・スタジアムがありました。そのおかげで、彼と兄のヘニーはアヤックスのチーム・スタッフにマスコットのように可愛がられるようになりスタジアムで彼らの手伝いをするようになりました。
 この頃すでに大人以上のテクニックをもっていた彼は、その後下部チームに入団。16歳でアヤックスの二軍チームに定着し、17歳で早くも一軍デビューを飾りましたそして、そのデビュー戦で早くも彼は初得点をあげています。

<ミケルス監督誕生>
 当時、アヤックスはオランダ・リーグでの優勝から遠ざかり、その方向性が定まらずにいました。そこでフロントは大きな賭けに出ます。それは当時まったく無名だったアマチュア・チームの監督リヌス・ミケルスを監督に迎えるという決断でした。アマチュア監督をプロのトップ・リーグ、それも老舗の名門チームが監督として雇うなんて今なら絶対にありえないことです。しかし、大きな価値観の転換は、プロ・チームの監督ではなかったからこそ可能だったのかもしれません。
 幸いオランダはプロリーグが誕生したばかりで、クライフがオランダで二人目のプロ選手になるなど、サッカー選手として活躍してゆくための条件が急速に整いつつありました。当然、選手だけでなくサッカー界全体のモチベーションが上がる良い時代だったといえます。
 1965年、新監督ミケルスはそうした状況の中、クライフを中心としてまったく新しいチームを創造し始めました。もちろん、すぐに結果は伴わなかったものの、1967年にはオランダ・リーグのチャンピオンとなり、その後、ヨーロッパのクラブ・チャンピオンへの挑戦が始まります。
 1969年には、ついに決勝まで勝ち上がりますが、この時は「トータル・フットボール」の弱点をつかれ1対4でA・C・ミランに破れました。しかし、1971年ついにロンドンでギリシャのパナシナイコスを2対0で破り見事にヨーロッパ・チャンピオンの座を獲得しました。
 この後、1973年までアヤックスはヨーロッパ・チャンピオンに3年連続で輝き、大会中一試合も負けず、まさに無敵のチームでした。クライフによれば、当時のアヤックスは2分間ボールをキープしている間に20回パスを回すことができていたといいます。2009年にヨーロッパ・チャンピオンとなったスペイン代表チームの華麗なパス回しのさらに上をいっていたということでしょうか。
 そして、このアヤックスの「トータル・フットボール」はそのままオランダ代表チームにも生かされることになりました。アヤックスのメンバーのほとんどが代表チームのメンバーに選ばれ、監督もまたミケルスに任されたからです。1974年の西ドイツ大会ではオランダ代表チームは大活躍。前評判どおり圧倒的な強さで決勝戦にまで勝ちあがりました。残念ながら、ホーム・チームであり世界一勝負強いチームともいわれる西ドイツ代表チームに破れてしまいましたが、大会での活躍は一躍「オレンジ軍団」の名を世界に知らしめることになりました。

<F・C・バルセロナへの移籍>
 アヤックスでの活躍を高く評価されたクライフは、1973年スペイン・リーグの名門チーム、F・C・バルセロナに移籍します。ただし、この移籍の際、クライフはそれまでも知られていた我の強さを発揮し、移籍が認められなければ引退するとチームを脅し、当然試合でもその影響が出たことから多くのチーム・メイトから批判されることになりました。
 バルサ(F・C・バルセロナの略称)に移籍したクライフは、先にアヤックスから引き抜かれ監督に就任していたミケルスと再び組むことになりました。1974年、バルサは14シーズンぶりにスペイン・リーグのチャンピオンに輝きます。その年はバルセロナの人々にとって忘れられない年になりました。現在にまで続く名門バルサの復活は、この二人のオランダ人の活躍によるものだったといえます。この年、彼はバルサの優勝とワールドカップでのオランダ準優勝に貢献したことで、見事ヨーロッパ最優秀選手に選ばれました。(結局彼は現役時代3度ヨーロッパ最優秀選手に選ばれています)
 1978年、オランダはワールドカップ本大会に出場し、再び決勝まで勝ち残りました。オレンジ軍団の強さは本物でしたが、この時、ピッチ上にクライフの姿はありませんでした。この大会、彼は出場を辞退していたのです。この時の出場辞退には、いくつかの理由があったと考えられています。(1)事業に失敗したクライフが高額なギャラを要求したため(2)オランダ・フットボール連盟、もしくはチーム首脳陣と対立していたため、他にもいくつもあり、どちらにしてもあまり良い理由とはいえないものだったようです。
 同年、バルサとの契約が切れたクライフは立ち上げられたばかりのアメリカのプロリーグに移籍します。(やはりお金に困っていたのでしょう)結局、アメリカのプロリーグは盛り上がることなく消えてゆきますが、彼もまた2年でオランダにもどり、1981年久しぶりにアヤックスのユニフォームを着ることになりました。そこで再びアヤックスのリーグ優勝に二度貢献しますが、36歳という年齢では、もうそろそろ終わりだろうとチームの会長が発言したことに激怒。負けず嫌いの彼は、アヤックスのライバル・チームであるロッテルダムのフェイエノールトへと電撃移籍してしまいます。しかし、自分に厳しい彼はさすがに自分の体力の限界に気づくと、1984年あっさりと引退してしまいました。

<クライフの選手としての評価>
 現役時代の彼のプレーについての評価をいくつか。
(1) 絶対的なボール・コントロールの持ち主
(2) ゴールを見ずにいかなるポジションからでも左右どちらでもシュートできる能力をもつ
(3) 相手選手を引きつけるための理想的なポジショニングを知り、敵の防御システムを崩す才能
(4) ペナルティー・エリア内でのマークをはずすスピードと細いのに倒れない力強さ。(彼はオランダで「うなぎ」とあだ名をつけられていました)

「・・・・・世界で一番やさしいフットボールを実践しているように見えるのですから驚きです。誰でも彼を見れば真似ができると思うでしょう。しかし、実際は彼だけができる技なのです」

「近代フットボールのプロトタイプ。スピードと鋭い爪を備えており、厳しい相手攻撃陣のテクニックを器用に逃れるテクニックがある。
 試合という作品を作曲し、演奏もこなす。
 インテリにしてシンプル、詩人にしてレアリスト、情熱家にして正直者」

「フランス・フットボール」(フランスのサッカー誌)より

<監督クライフ誕生>
 現役時代、名選手といわれた選手でも監督として再び活躍できるとは限りません。チームのまとめ役となるディフェンスの選手は監督やコーチとして活躍する場合は多いものの、我の強いストライカーだった選手の多くは監督として成功していません。ドゥンガは成功しても、マラドーナはたぶん駄目なのです。その点、クライフは監督としても一時代を築いた例外的な存在といえます。
 1985年、彼はテクニカル・ディレクターとしてアヤックスのユニフォームを着ることになりました。(当初、彼は引退したばかりで監督になるための資格を持っていなかったため、スタンドから指令を出さざるをえませんでした)その間、チームはリーグ優勝は逃したものの、カップ戦では優勝。監督としても力を発揮できると判断した選手時代の彼の古巣バルサは1988年監督としてクライフと再び契約を結びました。こうして、彼は監督として再び黄金時代を築くことになりますが、それは「トータル・フットボール」の新たな黄金時代の到来でもありました。
 クライフをバルサに招へいした会長ホセ・ルイス・ヌニェスという人物は、1978年に会長就任後、20年以上に渡り長期政権を築いた大物かつクセモノでした。実は、当初彼はクライフを監督として雇うつもりはありませんでした。しかし、1988年の会長選挙で対抗馬の人物がクライフの監督招へいを宣言し高い評価を得たため、当選後、自分もそれを実行するといわざるをえなかったのでした。
 さらにクライフ監督にとって有利なことがありました。それは、チームの主要な選手を自分の判断で集めるチャンスを与えられたことです。当時、バルサの選手たちは給与問題などで会長のヌニェスともめており、監督を含めた多くのメンバーが会長の退陣を求めるという異例の事態になっていました。後に「エスペリアの反乱」と呼ばれる事件の結果、監督を含めほとんどの選手が会長によって首を切られてしまいます。
 こうして、クライフは自らの権限で新たに選手を選べることになり、自らが思い描く「トータル・フットボール」実現のために必要な選手を集めることになりました。(ちなみにこの時、クライフはまだ41歳という若さでした)

<バルサの黄金時代>
 オランダのチームメイトでもあったディフェンスの名選手ロナルド・クーマン。後にデンマーク代表チームの主力となりワールドカップでも大活躍するミカエル・ラウドルップ。ブラジルのエース・ストライカーとして一時代を築いたロマーリオ。スペイン代表チームの正ゴールキーパーでもあったスビサレータ。1994年のワールドカップ・アメリカ大会で一大旋風を巻き起こしたルーマニアのエース・ストライカー、ゲオルゲ・ハジ。ブルガリアのエース・ストライカーであり、1994年にはヨーロッパ最優秀選手にも選ばれたストイチコフ。その他、エウセビオ、フリオ・サリナス、ゴイコエチュア、ナダル、ベギリスタイン、フェレールなどなど。
 「ドリーム・チーム」とも呼ばれたバルサ黄金時代のメンバーがそろい、いよいよバルサの快進撃が始まることになります。クライフの目指す「トータル・フットボール」は、こうしたスター・プレイヤーたちのおかげで完成されたといえるわけですが、単に優秀な指導者と選手がいれば可能というわけではありません。(「銀河系軍団」と呼ばれた豪華メンバーのレアル・マドリードでさえ、かつて優勝から見放されたことがります)
 クライフは「トータル・フットボール」の実現は試合を行なう選手だけでなく、彼らを指導するコーチ陣らのスタッフ、サブのメンバー、それに下部チームのメンバーまで、チームに関る全員が理解する必要があると考えていました。それは12人目の選手でもあるファンについても同様でした。スタジアムにいるすべての人々が理解した時、初めて「トータル・フットボール」は完成する。それが彼の考え方でした。「トータル・フットーボール」とは文字通り「トータル」でなければならないのです。
 バルサのドリーム・チームは、1991年から1994年にかけて4期連続でスペイン・リーグを制覇。常勝軍団のレアル・マドリードに対し、久々に勝ち続けることができただけでなく、1992年にはチーム初となるヨーロッパ・チャンピオンにも輝きました。

<バルサ黄金時代の終焉>
 長く続くかと思われていたクライフと「トータル・フットボール」の黄金時代は意外にあっさりと終わり迎えることになります。その原因はクライフの完ぺき主義と自己中心主義だったようです。チーム崩壊のきっかけは、クライフがスビサレータとラウドルップに戦力外通告をしたことでした。バルサから出た二人は、その後もそれぞれ活躍を続けるだけにその選択は不可思議なものでした。さらに、ロマーリオが勝手に長期休暇をとったことに激怒したクライフは彼を放出。さらにクライフ並みに気が強いことで知られるエース・ストライカーのストイチコフとも感情的に対立し、彼はイタリアのパルマに移籍してしまいました。こうしたチーム内のゴタゴタに嫌気がさし、クーマンもまた故郷オランダのフェイエノールトに帰ってゆきました。
 選手時代、誰よりも我がままだったのがクライフ自身だっただけに、「あんたには言われたくねーよ!」と思う選手は多かったかもしれません。
 こうして、バルサはチーム内から崩壊、当然成績は一気に下降。ついに会長のヌニェスはクライフを解雇します。この後、彼は心臓発作に倒れたこともあり、監督には復帰していません。どちらにしても、自分の思うとおりにチーム作りができなければ、彼は監督をすることは二度とないでしょう。

<「トータル・フットボール」の限界>
 「トータル・フットボール」は、すべてがそろったとき、美しく楽しい最高のサッカーを見せてくれます。しかし、一箇所のほころびから、あっという間に崩れることもありました。ワールドカップ、アジアカップ、オリンピック、ヨーロッパ選手権、クラブチームのチャンピオン・リーグなど過密なスケジュールが組まれている現在のFIFA主催のサッカー界においては、強いチームの選手は常に過労や怪我に見舞われ十分に実力を発揮できません。こうして状況では「トータル・フットボール」の再生は不可能だ。クライフはそう警鐘を鳴らしています。
 「トータル・フットボール」、それは人間にとって「宗教」のような存在かもしれません。それは、人がその存在を信じ、求めるかどうか、その二者択一にかかっているのです。

<ヨハン・クライフ名言集>
 最後にヨハン・クライフの名言集を・・・・・
「フットボールはとてもシンプルなものである。しかし、最も難しいのはシンプルにプレーすることである」

「始めに、ボールがある。しかし実際、このボールで何をするのかを知ることが重要である。最も大切なのはボールを持っていることである。より速くプレーしたいのならば、もっと速く走ることに努めればよい。しかし、本当のところ、ボールがゲームのリズムを決定するのである」

「頑張って走ればいいのではない。それを見たければ、陸上競技のフィールドへ行きたまえ。走ることは楽しいけれど、フットボールの基本はどんな時代でもテクニックなのだ。マークを外すにもテクニックが必要になる」

「よい監督は、あるプレーヤーの短所を別のプレーヤーの長所でカムフラージュする」

「フットボールにおいて、話すことは、最も大切な要素のひとつである」

「フットボールの試合とは、まず観客を楽しませなければならない。したがって、常にスペクタルな試合となるように心がけなければならないのだ。・・・」 

<追記>(2014年8月)
 キュ〜と絞ってパァ〜ンと散る。クライフが監督をやっていたこのころのバルサは、一言でいってこんなサッカーをやっていた。
 相手選手がボールを持つと、バルサの選手が一斉に群がっていく。そこでボールを奪うと、まるで鳳仙花の種が飛び散るかのような勢いで、選手たちは大きく広がっていく。ボールを持った選手は、サイドに開いた選手にはたいてもいいし、一気に空洞化した中央部に陣取る選手に預けてもいい。こういうプレーの反復ができた試合でのクライフはご機嫌で、試合後、よく「今日はいいプレッシャーだった」といったコメントを聞くことができた。

金子達仁「漂泊 V」より

<追悼>
 2016年3月24日、ヨハン・クライフ氏は肺がんにより、バルセロナにてこの世を去りました。まだ68歳でした。
 ご冥福をお祈りします。
 元気ならFIFAの腐敗を改革するのにも一役買えたかもしれません。残念です。

<参考>
「ヨハン・クライフ スペクタクルがフットボールを変える」 2002年
ミゲル・アンヘル・サントス Miguel Angel Santos(著)
松岡義行(訳)
中央公論新社
「漂泊 V」 2001年
金子達仁(著)

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