- ジョン・コルトレーン John Coltrane (後編) -

<セロニアス・モンクのもとで>
 1957年、麻薬と酒を断つことに成功した彼は、新たな師と出会うことになります。彼はあのセロニアス・モンク率いる四重奏団に参加することになったのです。トレーン以上に天才肌で革新的なミュージシャンのモンクは、トレーンに音楽理論や演奏テクニックについての助言を与えてくれただけでなく、彼が生み出しつつあった新しい音楽を発表できるよう演奏上の自由を与えてくれました。こうして、彼の才能はいよいよ開花し、ついにリーダー・アルバム録音のチャンスが訪れます。

<シーツ・オブ・サウンドの誕生>
 ジョン・コルトレーン、30歳での初リーダー・アルバムはタイトルもズバリ「コルトレーン Coltrane」(1957年)。そして、同年ブルーノートから発売されたアルバム「ブルー・トレイン Blue Train」により、いっきに彼の名はジャズ界に知られることとなります。このアルバムで彼が生み出したサックスによる切れ目のない音空間を、ある批評家が「シーツ・オブ・サウンド」と評し、それが一躍彼のサウンドのキャッチ・コピーとなりました。(この表現が後にフィル・スペクターが作り上げた「ウォール・オブ・サウンド」へとつながって行くのでしょう)

<より高度な練習法へ>
 彼はこうしてアルバムの録音や「ファイブ・スポット」などでのライブ演奏の合間にも音楽の勉強、練習を怠りませんでした。家での彼は、サックスの教則本だけでなく、ピアノやバイオリンそれにハープの教則本を広げて、それをサックスで吹くという驚くべき練習を繰り返していたのだそうです。(ハープの音階の幅は、サックスのそれに比べると大違いです。それをどうやって吹きこなすのか?正直全然わかりません)

<再びマイルスのもとで>
 1957年、彼はマイルスのバンドに復帰します。そして、1959年にはマイルスにとっての最高傑作のひとつ「カインド・オブ・ブルー」に参加します。さらに自身のリーダー作としては、その後R&B系レーベルとして一大企業にのし上がることになるアトランティック・レーベルから「ジャイアント ・ステップ Giant Step」(1959年)を発表。マイルスとともに生み出したモード奏法は、いよいよ完成の域に達し、その翌年1960年には彼の代表曲のひとつ「マイ・フェバリット・シングス My Favourite Things」を初録音しています。

<最強のバンド完成>
 ちょうどこの頃、彼のバンドには麻薬所持で刑務所に入っていたエルビン・ジョーンズが参加。ジャズ界屈指のパワフルなドラミングは、トレーンと最強コンビを形成するようになります。(ピアノはマッコイ・タイナー、ベースはスティーブ・デイヴィスでした)
 この時期は肉体的、精神的にトレーンがもっとも充実していた時期であると同時にグループの総合力として驚異的なレベルに達していました。なにせ彼らはライブでも、レコーディングでも、いっさいリハーサルを行わなかったというのです。それどころかレコーディング・スタジオに楽譜すらないこともあり、トレーンがキーを指示し、イメージする曲の名前を言うだけで録音が始められたというのです。・・・!
 1961年、彼はABCパラマウントが設立したばかりのインパルス・レコードと契約します。(この時の契約金はジャズ界ではマイルスに次ぐものでした)
 同年11月の2日と3日、クラブ「ヴィレッジ・バンガード」で行われたライブがレコーディングされ、彼にとって初のライブ・アルバム「ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・バンガード」が発表されます。なおこの年から翌年にかけて、彼のバンドには、エリック・ドルフィーが参加。もうひとつの看板アーティストとして活躍しています。当時、エリック・ドルフィーの演奏は回りから批判されることの方が多かったのですが、トレーンは彼を使い続けました。結局、彼はバンドを離れた後、1964年に若くしてこの世を去ってしまいます。トレーンにとって数少ない友人のひとりだっただけに、そのはトレーンに深い悲しみをもたらしました。

<大御所エリントンとともに>
 1962年、トレーンはライブだけでなくレコーディングにも熱中。3枚のアルバム「コルトレーン Coltlane」「バラード Ballads」「デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン Duke Ellington & John Coltane」を次々に発表しています。彼にとって最もポピュラーな大ヒット・アルバム「バラード」とジャズ界の大御所エリントンとの共演という新旧対決企画「D・エリントン&J・コルトレーン」はどれもインパルスのプロデューサー、ボブ・シールの発案でした。

<平和への願い>
 1963年9月15日日曜の朝、アラバマ州バーミンガムのバプティスト派の教会で爆弾によるテロ事件が発生。日曜学校で説教を聞いていた黒人の少女4人が、この事件の犠牲となり、幼い命を奪われました。これは当時高まりつつあった黒人の権利獲得のための運動に対する恐ろしい警告でした。この事件に大きな衝撃を受けた彼は、すぐにこの世を去った4人の少女のための曲を作り、次作「ライブ・アット・バードランド」にその曲を収めました。
 東洋の思想や仏教に傾倒していた彼は、平和主義者であり、その考えを音楽にこめようとしだいに宗教色を強めてゆきます。

<演奏に向かう姿勢>
 そしてこの頃、彼のソロ演奏はしだいに長くなり、演奏に向かう姿勢も以前に増して真剣になってゆきました。
「コルトレーンの演奏は長時間にわたって続けられたが、彼の額の血管は浮かび上がり、顔中汗だらけになっていた。どの曲を演奏するときでも、独奏を終えるまでは死ねないのだと決めているような真剣さで、最終回の最後の曲を演奏するまで熱気のこもった演奏ぶりだった」
マイク・キャンテリーノ

 この言葉を聞くと、かつてオーティス・レディングがステージ上で喉を真っ赤にしながら熱唱していた姿を思い出してしまいます。(二人には真面目さという点で共通するものがあったのかもしれません)
 彼の音楽は思想性、宗教性を強めるにしたがい、より前衛的、抽象的なものへと変わり始めます。こうして、彼は音楽家であると同時に神秘家という側面をも強め、その音楽はまるで催眠術でも用いているかのように観客を虜にするようになります。
 それは、フリー・ジャズという新しいジャズの流れへと向かう先駆けとなるものでしたが、彼の場合、それは彼がごく自然に演奏するを行う中で身につけていったものであり、他の誰のマネでもありませんでした。それは彼が学び続けてきた音楽が彼の身体を借りて自然に生み出されたものだったのです。
「・・・・・コルトレーンの演奏は、自然が世界を創造するのと同じ方法で行われる。木がその枝を空に向けて伸ばし、愛がひとりでに雲の形をとるのとまったく同じように、意識せずに完全に正しいやり方で彼は自分の音楽を創造するのである」
ジョン・オーカス
 1964年、こうして彼はそれまで彼が学んできた技術と思想の集大成とも言える歴史的名盤「至上の愛 A Love Supreme」を発表します。

<ラヴィ・シャンカールとサン・ラーの影響>
 ラヴィ・シャンカールは、インドのシタール奏者であり、ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリソンらにシタールの演奏法だけでなくインドの文化全般についての知識を与えた人物として非常に有名な人物です。トレーンは1961年から手紙のやり取りを始め、その教えを受けるようになっていました。1965年には初体面も実現し、その後彼はインドへも招待されていましたが、その時もう彼にインドへ旅するだけの体力は残されていませんでした。
 サン・ラーと言えば、数多くの優秀なミュージシャンたちによって組織された「アーケストラ」という多人数のバンドを指揮し、従来のジャズの枠組みを遙かに越えた音楽コラージュ作品を作り上げた異色のアーティストです。トレーンもまたフリー・ジャズという新しい音楽へと向かうにつれて、サン・ラーの影響を受けるようになっていました。それどころか、1965年にトレーンのバンドに新メンバーとして参加したファラオ・サンダース(T-Sax)とラシード・アリ(Dr)は、元々「アーケストラ」のメンバーでした。
 こうしてトレーンのバンドは、エリック・ドルフィー、マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズが抜け、それまでとはまったく違うバンドへと変わっていったのです。当然、その音楽性は前衛的なものへと変貌してゆきます。

<アリス・マクロードとともに>
 1964年、マッコイ・タイナーに代わって加わったピアニスト、アリス・マクロードとトレーンの間に初めての子供、ジョン・コルトレーンJr.が誕生します。二人は次男のラヴィが誕生した後、1966年正式に結婚します。
 妻のアリスは、二人の二人の子供を産んでくれただけでなく、彼が生み出そうとしていた新しい音楽のためにミュージシャンとしても重要な役割を果たすことになります。

<アルバート・アインシュタインの影響>
 「神」と「神秘宗教」にはまっていたと言われるトレーンですが、彼はけっして客観的な姿勢を失っていたわけではありませんでした。それどころか、誰よりも理論派のアーティストでした。彼は宗教の本を読むと同時に20世紀最大の物理学者アルバート・アインシュタインの相対性理論についての本も読んでいたのです。一時はチェスにもはまっていたというだけあり、彼は誰よりも理詰めで攻めるタイプのアーティストだったのです。

<天才であり、努力の人だった男>
 音楽は、その構造が複雑になればなるほど数学や物理との類似性が見えてきます。優れた音楽家は、耳で曲を聴いただけで、それを楽器別に聞き分け、頭の中で楽譜として再現できてしまうと言います。それと同じように数学や物理の天才は、複雑な数式を見ると、それをある種の立体モデルとして頭の中に思い描くことができます。(僕が、もしそういう頭を持って生まれていたら、今頃、こうしてパソコンに向かっていることもなかったでしょうが・・・)
 ベートーベンやスティーヴィー・ワンダーは、視覚を失ったことでかえって高度な音楽空間を生み出す才能を得た可能性もあります。しかし、逆にフィル・スペクターやブライアン・ウイルソンのようにあまりに高度で繊細な感覚をもっていたがゆえにかえって社会に適応できなくなった人間もいます。ジョン・コルトレーンもまた、そんな天才の一人だったのかもしれません。
 ただし、彼はその高みへと到達するために、次々と新しい教師を求めて渡り歩く「学ぶ姿勢」と毎日毎日練習を欠かさない「努力の姿勢」を貫き通しました。そんな生き方だったからこそ、日本ではアメリカ以上にコルトレーンが評価されているのかもしれません。
 楽譜化されていないトレーンの音楽を自ら採譜し、それを楽譜集として販売したアンドリュー・ホワイトという人物は、トレーンについてこう言っています。
「・・・普通の人間は先ず最初にある情緒を感じ、次ぎにその感情を再創造しようと試みる。だがコルトレーンの場合は違った。彼は演奏をしながら同時に生き生きとした感情を持つことができた人間だった」

<フリージャズの世界へ>
 1965年、トレーンはいよいよフリージャズの世界に突入します。アルバム「アセンション Ascension 神の国」は、そんな彼の代表作と言われています。それでも、このアルバムの録音にはエルヴィン・ジョーンズとマッコイ・タイナーが参加しており、バンドはさらにこの後進化を遂げようとしていました。
 1967年、トレーンは最初で最後の来日を果たします。しかし、この時すでに彼は病に冒されており、体調不良のままハードなスケジュールをこなしました。それでも日本での熱烈な歓迎ぶりに彼は大いに感激。アメリカでは考えられない人気ぶりに幸福な時を過ごせたようです。(なにせ日本でのトレーンのアルバムの売上は、アメリカ本国での売上と同じぐらいあったのです・・・)

<ババトゥンデ・オラトゥンジとともに>
 いよいよ死が近づきつつあった頃、彼の音楽は自らのルーツでもあるアフリカへと向かいつつありました。特にナイジェリア出身のパーカッショニスト、ババトゥンデ・オラトゥンジとは親しい間柄で、彼からアフリカの音楽や文化について多くのことを学んでいました。
「ジョン・コルトレーンは、常に他者から何かを学び取ろうとしていた。その謙虚さにほだされ、人は求められた答えを彼に必ず用意した。例えば、彼は私にアフリカについてきいた。私はアフリカの文化や言語に関する本、アフリカ音楽のレコードを贈り、さらに私のアフリカの友人に紹介さえした。彼はこう言っていた。『私はルーツに戻らなければならない。そこで私が永年探し求めて来たものを見出すのだ』」
ババトゥンデ・オラトゥンジ

<どこまでも長く続く演奏>
 この頃のトレーンは、いよいよ演奏が長くなり、一曲に一時間近くかけることさえありました。彼はどの演奏でも手を抜くことはせず、かといって常に新しい演奏となるよう試行錯誤を繰り返していました。
「・・・曲に変化をつけようとするとき、私はいつもそのことが聴衆を惑わすことになるのではないかといささか気になる。そのため、わざと曲の変化を先にのばしたりすることがあるが、結局、変化をつけなければ先へ進めないことがわかるのだ」
ジョン・コルトレーン
「・・・自分のやっている音楽を、いままで聴いたことのない、まるで初めて聴く音楽のように聴けたらと考えることがある。・・・」
ジョン・コルトレーン

<最後の時まで>
 トレーンは最後の年まで集中力を切らすことはありませんでした。アルバム「インター・ステラー・スペース」、「エクスプレッション Expression」は、そんなトレーンが最後の力をふりしぼって生み出した作品です。けっして聞き易い作品ではなく、聞く側にも、それなりの覚悟がいるのも仕様がないのかもしれません。
 トレーン最後の録音は、1967年の「オラトゥンジ・コンサート The Olatunji Concert」です。トレーンの友人、ババトゥンデ・オラトゥンジが中心となって設立したオラトゥンジ・アフリカ文化センター(場所はニューヨークのハーレム)のオープンを記念して行われた彼のライブは彼の死後、30年以上たった2001年になって発表されました。

<神の御前に>
 1967年7月16日、日曜の朝、ジョン・コルトレーンは救急車で病院に運ばれました。すでに彼自身、自分の死を覚悟していたようですが、肝臓ガンが治療不能なほど悪化しており、翌17日の夜明け前に彼は息を引き取りました。ベトナム戦争や人種差別の問題に心を痛め、なおかつ自らの作品を高めようと常に努力を怠らなかった彼の心は、あまりに繊細すぎ、そのストレスが彼の肝臓をボロボロにしてしまったのかもしれません。(彼の父の急死もまた同じ理由だった可能性もあります)
 トレーンの妻であり、バンドの優秀なピアニストでもあったアリス・コルトレーンは、こう言っています。
「・・・わたしたちは教会のような、一つの中心を作り上げようと考えていました。とは言っても、それを教会と呼ぼうとは思っていませんでした。・・・ですけど、それが音楽と瞑想のための場所となり、人がそこで祈りたくなるような教会といってもいいと思います・・・」なんという志の高い音楽でしょう。

<締めのお言葉>
「わたしは”神”の全能を、われわれが”神”を必要としていることを、また、”神”を信頼していることを感じ、繰り返し我と我が身に知らされてきた。今こそ言いたいと思う、何事であれすべて・・・神と共にある、と。彼の慈愛は大きく、情け深い。彼の道は愛のうちにあり、それを通じてわれわれは存在する。それはまさに『至上の愛』である」

ジョン・コルトレーンのアルバム「至上の愛」より 

「1960年代にこの国のあちらこちらで起こっていた暴動で『焼いちまえ!すべてを焼き尽くせ!』と叫ばれていたことと同じ内容を、トレーンはサックスで表現していた。アフロ・ヘア、ダシーキ、ブラック・パワー、空に突き上げた拳とか、すべては多くの黒人青年にとって革命だった。・・・」
マイルス・デイヴィス

<追記>四方田犬彦著「音楽のアマチュア」より
「わたしはジョン・コルトレンにまつわる聖人信仰に関心がない。・・・
 わたしの抱いているコルトレンの映像とは、融通がきかないまでに生真面目で、神経質で、しかし莫大なエネルギーをもち、すべてにおいて過剰であったりサックス奏者のそれである。・・・」

「コルトレンは即興を宣言しておきながらも、どこかで自分が集団の統合の頂点に位置していないと、不安で仕方がないのだ。この性格がうまく作用すると、Africa/Brassのようにインドのドローン効果に想を得た、巧みなオーケストレーションが成立するし、締め付けが強すぎると A Love Supremeのように、完成度こそ高いが、ユーモアを欠いた退屈な組曲に終わってしまう。・・・」

「コルトレンの組織論はマイルスとは完璧なまでに異なっている。彼が求めていたのは忠誠心に満ちた部下であり、先に引いたAscensionの例でいうならば、使途たちである。・・・」(だから、彼はエリック・ドルフィーのように自由奔放なアーティストをメンバーとして迎え入れることができなかった)

「そう、コルトレンにおいてはすべてが過剰であった。彼はソニー・ロリンズやアルバート・アイラーといった他のサックス奏者と比較して、桁外れに多い音の語彙をもっていたし、それをひとつの演奏のなかで惜しげもなく披露するのがつねであった。できることならいつまでも途切れなく吹き続けていたいというのが本音だった。北インドのラーガ音楽への彼の傾倒は、神秘主義とは関係がなく、もっぱら演奏の持続の原理に係わるものである。・・・」

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