- ジョン・コルトレーン John Coltrane (前編)-

<誰よりも真面目な男>
 このサイトでは今まで数多くのアーティストを取り上げてきました。しかし、今回取り上げるジョン・コルトレーンほど、「音楽」「芸術」「人生」「神」、そのすべてについて真面目に取り組んだ男はいないと思います。残念なことに、彼はその生真面目さがアダとなり40歳という若さでこの世を去らなければならなくなったのですから、運命とはなんとも皮肉なことです。
 昔僕が大学生だった頃、同じクラスのもうひとりの鈴木君(僕以外の)が「マイルスもええけど、やっぱコルトレーンが最高やで・・・」と口癖のように言っていました。しかし、彼は「ロックなんてガキの聞くもんやで!」とも言っていたため、ずいぶんムッとさせられたものです。二浪で関西出身の鈴木君は実にアクの強い人物でした。そんなイメージのせいか、僕がジョン・コルトレーンを聞くようになったのは、その後5年以上たってから、ブルースにハマッた後のことになりました。
 そうそう、同じ大学の同級生にさらにもうひとり鈴木君がいました。オーケストラでバイオリンを弾いていた彼のお気に入りのミュージシャンはユーミンでした。彼の方は、実にさわやかな湘南ボーイでした。さて、気がつくと、いつの間にかコルトレーンもユーミンも、どっちも好きになってしまった僕はいったい何者なのでしょうか?

<名作伝記「コルトレーンの生涯 Chasin' The Trane」>
 ジョン・コルトレーンについては、「コルトレーンの生涯 Chasin' The Trane」(学研M文庫)という素晴らしい伝記本があります。従って、彼の生涯についての詳細は、是非そちらをお読みいただきたいと思います。おまけに、楽器がまったく苦手な僕は彼が残した作品について、その音楽的価値を専門的に分析、解説することなど到底できません。
 そこで僕は、彼の「学びの歴史」に的を絞って追いかけてみようと思います。多くのアーティストは自らを「表現する」ことにその生涯を捧げています。しかし、コルトレーンの場合、「表現すること」と同じぐらい「学ぶこと」にもエネルギーをついやしていたように思えます。彼は短いその生涯にいったい何を学んだのでしょう?
 彼の「学びの歴史」を書き出すことで、彼の活躍した時代とジャズの歴史を描き出せたらと思います。こんなサイトをやっているぐらいですから、僕自身「学ぶ」ことは大好きです。しかし、ジョン・コルトレーンはただ「学ぶ」だけでなく、それを見事に自分の血肉と化し、肉体によって表現することができる非常に稀な才能をもつアーティストだったということは非常に重要なことです。

<真面目な家族のもとで>
 ジョン・コルトレーンこと、ジョン・ウイリアム・コルトレーンは、1926年9月23日ノースカロライナ州のハムレットという町に生まれました。父親は洋服の仕立て業を営んでいて回りに住む黒人たちよりは恵まれた少年時代を送っていたようです。
 しかし、彼が12歳の時、父親が突然病に倒れ、この世を去ってしまいます。真面目で音楽が大好きだった父親の影響がジョン・コルトレーンという天才アーテイストを生んだのですが、感情を表に出さず内に秘める性格は、この時に亡くなった父親の影響だったのかもしれません。
 父親を亡くしても、母親が一生懸命働いたこともあり、彼は貧困を経験することなく、高校に無事入学、この頃本格的に音楽に出会っています。多くの黒人アーティストたちは、この時期に教会の聖歌隊に入り、そこで才能を見出されています。しかし、彼の場合はちょっと違いました。彼は他のアーテイストたちと違い、歌があまり上手くなかったのです。それはもしかすると彼の引っ込み思案な性格が災いし、生の声で自分を表現することが苦手になったのかもしれません。彼はコーラス隊ではなく、器楽演奏専門の音楽隊に入ることになります。そこで彼はクラリネットを担当することになり、楽器によって自らの思いを伝える道を歩むことになりました。

<ジョン憧れのアーテイストたち>
 この頃、クラリネット奏者として彼が憧れていたのは、アーティー・ショーやウディ・ハーマンでした。しかし、彼がもっと好きだったのは、当時人気絶頂だったデューク・エリントン楽団のサックス奏者ジョニー・ホッジスでした。そのため、しだいにサックスに憧れるようになった彼は、近所に住む知り合いにアルト・サックスを貸してもらい、初めてサックスを吹いてみたのでした。まだ学生だった彼に高価なサックスを買えるはずはなかっただけに、この時サックスを貸してくれた人物の親切は、ある意味ジャズの歴史を変えたとも言えそうです。

<音楽修行人生のスタート>
 本格的に音楽を学ぶ決意を固めた彼は、高校卒業後フィラデルフィアに出て、製糖工場で働きながらオルンスタイン音楽学校に入学、サックスを中心に正式に音楽について勉強し始めます。(この時は彼の母親は、彼のために中古のサックスを買ってくれたそうです)
 こうして彼は、マイク・ゲラという教師からサックスのテクニックを教わることになり、その音楽修行人生が本格的にスタートしました。
 1945年、18歳の誕生日を迎えてしばらく後、彼は海軍に入隊することになりました。幸い軍は彼を戦闘には行かせず、軍楽隊に所属させます。おかげで彼は1946年の除隊まで、たっぷりと練習時間を確保することができ、本国にもどるとすぐにプロのサックス奏者としての道を歩み始めることができました。

<演奏旅行で悪癖を身につける>
 彼の本格的な音楽活動は、エディー・クリーンヘッド・ヴィンソンというアルト・サックス奏者のバンドでテナー・サックスを吹くことから始まりました。(リーダーがアルト・サックス奏者だったため、彼はアルトに回りました)正式にバンドのメンバーになったことで、彼の生活は一変します。この時から、彼は死ぬまで旅から旅の演奏旅行をすることになるのです。そのため、彼は旅の寂しさを紛らわせるため、酒と煙草、そして食べ物(パイやキャンディーなど甘い物も彼は大好きだったそうです)にはまるようになります。この頃の週間が最終的に彼の命を縮めてしまうことになるのですが、それだけではなく彼は虫歯にも悩まされることが多く、痛みを忘れるために飲酒に走ることも多かったといいます。彼の人生は身体の不調と闘い続ける人生でもありました。

<ディジー・ガレスピーのもとで>
 1949年、彼はディジー・ガレスピーのビッグ・バンドに入り、アルト・サックスを担当することになりました。彼がこのバンドに所属したことは、音楽以外について彼が学び始めるきっかけともなります。それは同じバンドに所属するテナー・サックス奏者のユセフ・ラティーフから「コーラン」やクリシュナムルティーの著作を読むようにすすめられたことがきっかけでした。それまでほとんど読書に縁がなかった彼は、この頃から急に本を読むようになり、東洋の思想、哲学、宗教、そして音楽についての勉強を始めます。こうして身につけた思想はしだいに彼の音楽に反映されるようになり、アフリカのパーカッションやインドの複雑な音階を取り入れた新しい音楽の創造へと向かわせることになります。
 もちろん、そうでなくとも真面目な彼はこうした音楽以外の勉強以上に、サックスの練習に励んでいました。ある時、彼のバンド仲間があきれて、なぜそんなに練習するのか?と聞くと、彼は「納得できないからさ」と答えました。そこで質問した仲間はまた聞きました。
「何が納得できないんだ、君のアルトは素晴らしい音を出しているじゃないか、僕にはいいサウンドに思えるがね」すると、コルトレーンは答えました。
「君にはね。だが残念なことに君は僕ではない」

<グラノフ音楽学校にて>
 1951年、彼はディジー・ガレスピーのバンドをやめ、フィラデルフィアに帰りました。彼は地元のグラノフ音楽学校に入学し、再び音楽の勉強を始めます。夜仕事をし、昼間は学校でデニス・サンドルという音楽教師のもと、作曲のために必要なより高度な音楽理論を学びました。デニス・サンドルは彼にこういったそうです。
「偉大な作曲家たちがバイオリンの独奏曲をはじめとして、大編成の楽器による交響曲にいたるまで、あらゆる楽器を使った曲を書いている。君はまずその技法を聞き取るんだ。次には、そのエッセンスを抜き出して、君の愛する楽器サキソフォンに移し替えてみるんだ」
 この教師はジョンがサックスのもつ音域を越えた音階を出そうと努力する姿を見て、彼にもうひとつの楽器ソプラノ・サックスへの挑戦をすすめました。こうして、彼はまた新しい楽器とともに新たな音楽の創造へと向かうことになります。

<芸術とエンターテイメントの狭間で>
 彼は以前にも増して真剣に音楽に取り組んでいましたが、その結果を仕事に活かすことができずにいました。その頃の彼の仕事は正式にバンドに所属していなかったことやフィラデルフィアの街で仕事場が限られていたこともあり、演奏曲はジャズではなくR&Bが中心となっていました。一般のバーの客には、当時すでにジャズよりはR&Bの方が人気があったため、店のオーナーはバンドに対しR&Bを演奏するよう要求していたのです。
 バーのカウンターの上を歩きながら演奏する当時流行の「ウォーキング・ザ・バー」というパフォーマンスをやるために、彼はどっぷりとアルコール漬けになる必要がありました。彼はエンターテイメントという仕事にも、どうやらむいていなかったようです。
「今でもぼくにわからないことは、どうして彼のように真面目な人が、この鉄火場のようなミュージシャンの世界に住んでいられたのか、ということです・・・」
バート・ブリットン

<アール・ボスティックのもとで>
 1952年、彼はアール・ボスティックというR&B系アルト・サックス奏者のバンドに参加します。音楽的才能は別として、サックスのテクニックについてボスティックは偉大な教師でした。コルトレーンは、このバンドのツアーではいつもボスティックについてまわり、手帳片手に技術的な質問をしまくっていたそうです。さらにこのバンドのピアニスト、ジョー・ナイトと親しくなった彼は、プラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学を学ぶようすすめられ、さらにクラシック音楽の基本であるピアノについてもよく学ぶよう言われました。

<ジョニー・ホッジスのもとで>
 1953年、彼は昔からの憧れだったサックス奏者、ジョニー・ホッジスのバンドにメンバーとしてとして加わります。バード以前のサックス奏者の中では最も偉大な存在と言われる人物のもとで、さらに彼は多くのものを学ぶことになります。
 しかし、彼はこの年それとはまったく別のことも学んでいます。それは麻薬、それもヘロインの使い方です。この年からしばらくの間、彼はアルコールや煙草以外に麻薬中毒というやっかいな病をも背負い込むことになります。
 1954年、彼はバンドを辞めることになりますが、それは彼の麻薬中毒が原因だったようです。彼はヘロイン中毒により失った体力を補うため、今まで以上に食事をとるようになり、気がつくと10キロも体重が増えていたといいます。

<二つの幸福>
 1955年、彼はそんな状況を抱えながらも、二つの幸福を捕まえます。
 ひとつはナイーマという女性との結婚です。そして、もうひとつはマイルス・デイヴィス五重奏団への参加です。ついに出会った二人の天才マイルスとトレーン(この頃から彼はトレーンと呼ばれるようになりました)は、マイルス初期の名曲「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」(もちろんセロニアス・モンクの曲)を録音します。トレーンはいよいよ自分自身の音をつかもうとしていました。(ただし、この時のバンド・メンバーはコルトレーンも含め、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズみな麻薬と酒にどっぷりでした。人は彼らのことをJunk & Booze Band ヤク中&アル中・バンドと呼んでいたとか)
 しかし、マイルスは麻薬をやめようとしないトレーンをバンドにおいておけず、結局辞めさせてしまいます。自分にとって最も大切な音楽を続けるには、生き方を変えなければならない。トレーンはついに自ら決意し、酒、煙草、麻薬を断つために自宅の部屋に数日間こもり一気に中毒症状を抑え込んでしまいました。(ただし、煙草だけはその後また吸うようになりますが・・・)
 こうして、彼は多くのジャズ・ミュージシャンたちがその犠牲となった麻薬とアルコールの地獄から無事生還し、再スタートを切ることになりました。(彼は後にこの1957年を『精神の目覚めの年』と呼んだそうです)

<中締めのお言葉>
「・・・ジョンにとって音楽とは、全世界の反映であり、人生の縮図なのである。生活の一場面や人間の感情をすくい上げて、音楽という言葉に移し変えるのだ」

エリック・ドルフィー

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