- ジョン・レノン&オノ・ヨーコ John Lennon & Yoko Ono (前編)-

<最初のロック・ヒーロー>
 1960年に生まれた僕にとって、最初のロック・ヒーローは、ビートルズではなくジョン・レノンでした。ビートルズの「ヘイ・ジュード」がテレビ・ドラマ「おふくろの味」のテーマ音楽に使われていた70年代初め。ビートルズはすでに過去の存在になりつつありました。(と言っても、すぐにあの赤盤、青盤で再びブームを迎えることになるのですが・・・)
 僕の家はブティックを経営していて、当時家族はその店の二階に住んでいました。店では最新の洋ものヒット曲が流れており、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングやサイモン&ガーファンクルらのヒット曲に混じってジョン・レノンの「ラブ」がかかっていました。僕は毎日彼の「ラブ」を聞きながら育ったわけです。
 その後中学3年の時、僕は2週間ほどアメリカ西海岸の小さな街でホームステイをする機会がありました。その時、僕は当然向こうでいろいろとレコード買ってきたわけですが、その中に当時発売されたばかりだったジョン・レノンのアルバム「ヌートピア宣言 Mind Games」もありました。ジョン・レノンについては、それが僕の初購入アルバムだったのですが、そのアルバムの中に日本語で歌われている曲がありました。改めて小野洋子という女性の存在を思い出したわけですが、当時の僕は彼女のことを「ビートルズを解散させた悪女」という認識でしか見ていませんでした。
「Aisumasen Yoko !」

<ジョンとヨーコの出会い>
 ジョンとヨーコが出会ったのは、1966年11月9日のことでした。場所はロンドンのインディカ・ギャラリー。当時オノ・ヨーコは、家族と共に移り住んでいたニューヨークからロンドンへと活動拠点を移したばかりでした。一方、ジョンはというと、「ビートルズは今やキリストより有名だ」という彼の発言がもとで始まったビートルズ・バッシングとコンサートのマンネリ化からライブ活動を停止してしまったため、暇をもてあます日々を送っていました。そのうえ、ビートルズの存在自体が危ういものになりつつあり、ジョンは今後何をするべきなのか、模索する日々でもありました。
 その日友人に不思議な日本人女性アーティストのことを紹介されたジョンは、彼女の個展をオープニング前日にも関わらず訪れてみました。ジョン・レノンのことなど知らなかった彼女は、そんなスターの来場をけっして歓迎していませんでしたが、彼のウイットに富んだ性格がすぐに気に入りました。ジョンの方も、梯子を登った先の天上に小さく書かれた「YES」の文字の暖かさにひかれます。こうして、二人はその後少しずつその距離を縮め、1年という期間を経てついに恋人同士になりました。

<ビートルズとオノ・ヨーコ>
 ところが、オノ・ヨーコの登場は、ジョン・レノンだけでなくビートルズにとって大きな影響を与えることになります。彼女はジョンとともにスタジオ入りし、彼とだけでなく他のメンバーとも話しをするようになり、一人のアーティストとして大きな関わりをもつようになって行きました。(他のメンバーの彼女たちは、スタジオなどの仕事場にいっさい顔を出しませんでした)
 彼女の存在がビートルズを解散に追い込んだという説がよくきかれましたが、そのほとんどは彼女が日本人であり、女性であることから来る差別だったと言えるでしょうし、実際彼女がしたのはビートルズの解散を早めただけのはずです。そして、それも「彼女がジョンを狂わせた」などという安っぽい理由ではなく、彼女のアーティストとしての存在感の大きさが成せる技だったと言うべきなのです。そして、実際彼女はジョンと出会う前から、すでに超一流のアーティストだったのです。
 オノ・ヨーコとジョンの関わりについて、ジョンの元妻シンシア・レノンはこう語っています。
「ミミ伯母さんです。ジョンは支配的な女性の陰で育ちました。彼にとってはそういう女性が、いちばん当たり前で、なじみのある存在だったんです。・・・ヨーコはなんでも知っている母親的存在ならではの安心感を、彼にもたらしたんじゃないでしょうか」

<アーティスト、オノ・ヨーコ>
 1933年2月18日に東京で生まれた小野洋子の父親は一流の銀行マンで、アメリカをその仕事場にしていました。第二次世界大戦中は、日本に帰国するものの、20歳の時アメリカに渡りサラ・ローレンス大学に入学。(日本に帰国している時、あの東京大空襲を体験。その時の恐怖が反戦運動へのきっかけになります)追記2004年4月29日
 その後、彼女は家族と共にニューヨークで暮らすようになります。当時ニューヨークは、ジョン・ケージらを中心とする前衛音楽グループ「フルクサス」の活動拠点で、大学で詩と音楽を学んでいた彼女も「フルクサス」のメンバーとして、独自のアート活動を展開し始めます。(ちなみに、この頃のフルクサスのメンバーには、今や時代をリードしているベックのおじいちゃん、アル・ハンセンもいました)当時の彼女のアートは、コンセプチュアル・アート(概念芸術)と呼ばれるもので、絵画でも彫刻でもない従来の芸術の概念を覆すものでした。そして、この新しいスタイルの芸術は、ジョンと出会った後に大きな役割を果たすことになります。
 この時、彼女がジョンと出会っていなければ、もしかするとオノ・ヨーコは日本を代表するアーテイストとして世界を舞台に活躍することになっていたかもしれません。ジョンがこの世を去って20数年、今になってやっと彼女のアーティスト活動が評価されるようになってきたのは、その証明かもしれません。そして、それだけのアーティストだったからこそ、二人の共同作業は時代を動かすほどのパワーを持ち得たのです。この事は、意外なほど理解されていないように思います。

<ジョン&ヨーコ>
 1967年8月、ビートルズのマネージャーであり、精神的な支えでもあったブライアン・エプスタインが死去。ビートルズは精神的なよりどころを求めるように、翌68年の2月にはインドへ精神修養の旅に向かいます。さらに同年5月、ジョンとポールはアップル社の設立を発表しますが、すでにジョンの心はビートルズを離れ、ヨーコとの共同作業に向かっていました。
 二人は初のアルバム「トゥー・バージンズ」の録音を初めとし、イベント「平和のドングリ」、映画「トゥー・バージンズ」、「スマイル」の制作、イベント「バギズム」(いずれも1968年)などを次々に展開して行きます。二人はすでにミュージシャンというよりも、アーティスト・ユニットとして活動を開始していたのです。

<ベッド・イン>
 1969年3月、ともに離婚したジョンとヨーコはジブラルタルで結婚式をあげ、そのままオランダのアムステルダムで、あの有名なパフォーマンス「ベッド・イン」を行います。
 ベッド上から3日間インタビューに応じた二人は、世界中に平和のためのメッセージを発信しました。時代はヴェトナム戦争まっただ中、二人は愛とユーモアに満ちたパフォーマンスでそれに批判を浴びせたのです。その後、二人はこのパフォーマンスをアメリカに持ち込もうとしますが、アメリカ政府に入国を拒否されます。そこで、二人は急遽「ベッド・イン」の場所をカナダのモントリオールに変更。そこから、アメリカに向け、テレビ電波に乗せて平和のメッセージを発信してみせたのです。それは、テレビ時代のための新しいパフォーマンスでした。
 その直後の7月、二人はシングル「平和を我らに Give piece a chance」を発売。2ヶ月後には、ビートルズのアルバム「アビイ・ロード」が発表されますが、この時すでにジョンは他のメンバーへビートルズからの脱退を告げていました。

<WAR IS OVER >
 11月、ジョンとヨーコは、二人の結婚を記念すると同時にファンへの感謝の気持ちを表す作品として「ウエディング・アルバム」を発表。12月にはライブ・アルバム「平和の祈りをこめて」を発表。そして、世界11都市に平和のメッセージをこめた巨大看板「WAR IS OVER IF YOU WANT IT」を設置しました。もしかすると、この看板ほど多くの人々に見られ、かつ影響を与えたアート作品は他にないかもしれません。(アンディー・ウォーホルのキャンベル・スープ缶と良い勝負かもしれません)これだけの活動を次々と展開していながら、なおかつ彼は左翼活動家ジョン・シンクレアの釈放運動やアンチ・ニクソンのキャンペーン活動などにも関わって行きます。実に驚くべきパワーでした。ジョン&ヨーコというアーティスト・ユニットは、1+1=2以上のものを生み出していたのです。

「・・・だから、僕たちがベッドの中や袋の中でやっていたことに対するポップ関係の真面目な評論家の発言はすごく見当違いだった。少なくとも僕たちが平和について、大きな変化が起きるまでのあいだだけでも、何かをなし続ける義務感というかそういう守るべき立場というのは、ガンディー以来の伝統に沿ったもので、そこにただユーモアが加わっているんだよ」
ジョン・レノン「ジョン・レノン ラスト・インタビュー」より
(聞き手)アンディー・ピーブルズ、(訳)池澤夏樹
(この本は文庫になっていますので是非ご一読を!)
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