
「コンピューターの父」
- ジョン・フォン・ノイマン John Von Neumann
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<コンピューターの父>
ジョン・フォン・ノイマン、このサイトの読者の多くはこの名を聞いたことがないかもしれません。しかし、実はこの人「コンピューターの父」とも呼ばれている人物なのです。したがって、彼のおかげで今こうしてあなたはこのサイトを読むことができているのかもしれません。
今や21世紀の行方を左右する存在とも言えるコンピューター。これから先、「電気」なしで人類文明が成り立たないのと同じように「コンピューター」なしの人類文明もまたありえないでしょう。
ではそのコンピューターを発明したのが、ジョン・フォン・ノイマン?実はそれは彼ではありません。(もちろん、ビル・ゲイツでもありません)
ではいかにしてコンピューターは生まれたのか?その誕生の歴史をジョン・フォン・ノイマンの活躍を追いながらたどってみたいと思います。
<コンピューターとは何ぞや?>
今世界中で使われているコンピューターは正確に言うと「ノイマン型コンピューター」と呼ばれているものです。その特徴は、「演算」(計算をする部分)「主記憶」(データやプログラムを記憶する部分)「入出力」(データやプログラムを出し入れする部分)そして「制御」(上記の三つを順序だてて動かす指令を発する部分)、この4つの部分からできているということです。
そして「主記憶」に記載されたプログラムに基づいて順番に計算を行いながら「解(答え)」を導き出すわけです。そこでは、あくまでプログラムの順番どおりに計算を行っているため、そのスピードは使われている電子部品のもつ能力によって限界がもたらされます。(人間の脳はこれとは異なる仕組みで機能しているため、未だにコンピューターに勝る能力をもっており、生物コンピューターこそ次世代のコンピューターとも言われています。それはいくつもの計算を同時に行う、より複雑なシステムなのです)
こうした仕組みをもつコンピューターについての定義付けを公に発表した最初の人物が、ジョン・フォン・ノイマンだったということで、彼が「コンピューターの父」と呼ばれることになったわけです。したがって、このタイプのコンピューターを最初に作ったのが彼というわけではありません。
<コンピューターの歴史>
ではコンピューターはどうやって誕生したのか?その歴史を簡単に振り返って見ると、・・・。
歴史をさかのぼってコンピューターの先祖を探してみると、それは計算機の歴史へとつながり、その元祖として「そろばん」のようなカウンター(計数)機能をもつ手動式の計算機があげられます。そしてさらに、それらは「地面に刻まれた線」や「積み上げられた石ころの山」など、単に数を刻むだけの「計数機」にまでさかのぼることが可能でしょう。
そうした手動式の「計数機」が進化すると、歯車の噛み合わせと回転を利用したより複雑な手動式計数機の登場となります。(これを最初に作ったのが、「人間は考える葦」であるという名文句を残した哲学者のパスカルだったと言われています)
その後「電気」の登場により、この計算をよりスピード・アップすることが可能となり、「真空管」の発明がそれを一気に加速させました。(真空管はそのON/OFFによって歯車の代わりを果たし、電気の流れる速さにより大幅なスピード・アップを実現しました)
ジョン・フォン・ノイマンはこのあたりの段階にきて、いよいよ登場することになります。それでは彼の生い立ちを追いながら、コンピューターの歴史を見てみましょう。
<ジョン・フォン・ノイマン>
1903年12月28日、ハンガリーのブタペストに生まれたジョン・フォン・ノイマンは、小さな頃から「神童」と呼ばれるような優れた頭脳の持ち主でした。特にその記憶力、計算能力は超人的で、その後彼がコンピューターを開発した後、そのデモ機と暗算で勝負をして見事にうち負かしてしまったという伝説も残っているほどです。当然、彼なら理系のどんな学問もこなせましたが、将来のことを考えると当時急激に伸びていた化学系の分野を目指すのが良さそうでした。そのうえ、当時お隣のドイツは世界でもトップクラスの工業国として発展しており、化学者になっていれば仕事に困ることはなさそうだったのです。
しかし、その時彼はあえて自分が好きな数学の道を選びます。ただし、彼は同時に三つの大学(ブタペスト大学、スイス工科大学、ベルリン大学)に在学するという離れ業をやってのけ、数学だけでなく化学の学位も取ってしまい、その後ドイツのゲッチンゲン大学へと進みました。
1920年代のゲッチンゲン大学は世界で最も注目を集めている場所でした。そこは量子力学における最も重要な基礎となった「不確定性原理」の生みの親、ヴェルナー・ハイゼンベルクが活躍する場であり、「量子力学」誕生の舞台となる聖地でもありました。
ハイゼンベルクともう一人の天才シュレディンガーの理論のぶつかり合い。それにニールス・ボーア、ヴォルフガング・パウリ、ポール・ディラックや彼らに挑んでいったアインシュタインなど、「量子論」は最も熱い伝説の時代を迎えようとしていたのです。
ノイマンもまたこの時代に「量子論」の研究に参戦。もともと物理学者ではなかったため結果を残すまでには至りませんでしたが、後にこの関わりは彼の仕事において大きな意味をもつことになります。
<新世界への旅立ち>
彼は間違いなく天才でしたが、当時のヨーロッパには天才はまだまだ沢山いました。そのうえ古い体質の残るヨーロッパの大学では彼がその才能を活かして大学教授の地位を得るのは困難なことでした。
仕方なく彼は自らヨーロッパを去り、チャンスの国アメリカへと旅立ちました。新しもの好きの彼にとって、アメリカという新世界は思っていた以上に住み易い国で、彼はすぐにその土地が好きになってしまいました。そのうえ彼はアメリカでも有数の歴史をもつプリンストン大学で仕事のチャンスをつかむことができました。
1933年プリンストン大学に高等研究所(I
A S)と呼ばれる新しい研究施設ができ、そこでアインシュタインらとともに研究することになります。しかし、この頃ドイツではヒトラーが国の権力のすべてを手中におさめようとしており、ユダヤ人である彼はもうドイツには戻ることができないだろうと覚悟を決めます。こうして彼はアメリカの市民権を得て、アメリカのために働き始めます。
<弾道計算からコンピューターへ>
アメリカのために彼が最初に関わることになった仕事。それは、その後コンピューター開発に密接に関わることになる電気式大型計算機の開発でした。そして、それは大砲の弾をいかに正確に打ち込むかを計算するために使われるものでした。(弾道計算)こうして、彼とコンピューターの関係が始まったわけですが、それは同時に彼と兵器開発との関わりの始まりでもありました。彼は戦争という行為を嫌がっていましたが、第二次世界大戦が始まるとアメリカを早く勝たせる方が被害は少なくすむと考え、積極的に軍に協力する姿勢をとりました。
彼は弾道計算の第一人者でしたが、さらに爆発を試算することについてもエキスパートになり、さらには「エニグマ」と呼ばれるドイツ軍の暗号作成機の解析に挑んだ天才数学者チューリングの仕事についても研究し始めます。しかし、すぐに彼にはそれらの研究以上に重要な任務が与えられます。それはロス・アラモス研究所で行われていた原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」への参加でした。原子爆弾を開発する上でなくてはならないシュミレーションを行うために彼の知識はなくてはならないものだったのです。
しかし、より正確にシュミレーションを行うためには当時の計算機ではまったく能力不足だったため、彼は世界初となる電子式コンピューターの開発に力を注ぐことになります。
<元祖コンピューターの開発>
ちょうどこの頃、フィラデルフィアにあるペンシルバニア大学ではジョン・モークリーとプレスパー・エッカートが「ENIAC(エニアック)」と呼ばれる、当時最先端だったパンチカード式計算機の1000倍の能力をもつコンピューターを開発していました。さっそくノイマンはこの計画に助言を与える形で参加、ENIACの改良を進めて行きます。
<あらゆる分野への拡がり>
彼はこの頃、後の政治、経済に大きな影響を与えることになる重要な書「ゲームの理論」(1944年)を経済学者のオスカー・モルゲンシュテルンと共同執筆しています。彼の活動範囲は、数学、物理、軍事、コンピューター、経済、政治、文化・・・へといよいよ拡がりをみせ始め、さらには天候の影響によって何度も変更を余儀なくされた原爆投下計画の反省から、コンピューターによる気象予測の分野にも彼は進出。そのための気象学研究グループ立ち上げの際も、まとめ役として活躍することになりました。
この頃になると、彼の存在は当時のアメリカ大統領アイゼンハワーにとってなくてはならないものになっていました。戦後、ソ連と世界を二分して軍事開発競争を繰り広げていたアメリカにとって、国防上最も重要なアドバイザーであり、あらゆる軍事機密に通じた人物、それがジョン・フォン・ノイマンだったのです。
<その後のコンピューター発展>
ENIACの開発者モークリーとエッカートは、コンピューター開発により巨大なビジネスを生み出せると考えていました。そして自分たちもその際大きなビジネス・チャンスを獲得できると信じていました。
ところが、ノイマンはそれに対してまったく別の考えをもっていました。彼はコンピューター開発で起業を考えていたわけではなく、逆にアメリカ国内における開発事業を促進させるため、ノウハウを公開するべきであると考えていたのです。そのため、彼はコンピューターの基本構造についての分かりやすい論文を発表します。そのおかげで、各地の研究機関やIBMなどの企業が開発競争に参加し始めることになり、コンピューター産業がアメリカ各地で発展し始めました。こうして、各地の研究施設から次々と新しいアイデアが発表されるようになり、アメリカは世界一のコンピューター大国へと成長していったわけです。
こうした功績がノイマンを「コンピューターの父」と呼ばせることになったわけです。(それに対し、モークリーとエッカートが怒ったのは当然かもしれません。彼らはENIACの技術について特許権を主張しますが、時既に遅く、その理論は周知の事実であると見なされて訴訟は認められませんでした。ちょっとかわいそうな気もします)
彼の情報公開による開発促進というやり方は、インターネットを用いることで飛躍的な進歩をとげて有名になったコンピューター・ソフト「リナックス」のことを思い起こさせます。考えてみると、ジョン・フォン・ノイマンという存在は、必要な情報をスムーズにやり取りさせるという意味で、ネットによる情報公開の人力版だったのかもしれません。
さらには、あらゆる分野の学問に精通する人物だったからこそ、彼はコンピューターの将来像を予測することができ、その未来の可能性を見つけては、その基礎を築くプロジェクトを立ち上げていったのです。
<伝説の書「ゲームの理論」>
彼が挑んだ数々の可能性の中でも特に画期的だったのは、経済学の原理を数学によって説明しようという「ゲームの理論」です。
この「ゲームの理論」についての考え方もまた、ノイマンがオリジナルだったわけではありません。フランスの数学者エミール・ボレルが1921年に利害の対立する者同志がゲームを行う時の理論について数学的解析を試みたのが最初でした。しかし、ノイマンはこの考え方をより具体的に数式化する方法をオーストリアの経済学者モルゲンシュテインと共同で研究、考案しました。
このゲーム理論は、当初は人間の行動学としての理論だったのですが、その後は株式投資などの経済理論へと応用され、さらには核戦争をシュミレーションするための軍事戦略理論や紛争解決のための国際政治理論などへと応用されて行くことになります。(1962年のキューバ危機の際、このゲーム理論が活躍したと言われています)
その後の世界経済が現実の社会を離れ、情報を利用したマネー・ゲームへと変わっていった基礎にも、このゲーム理論の存在がありそうです。
<「悪魔の発明」に関わり続けた男>
こうして彼の活躍を見てくると、ジョン・フォン・ノイマンという人物が関わったもの、コンピューター、核兵器、ゲーム理論は、すべて20世紀の行く先を左右した重要なものばかりでした。彼が手を出したものは、すべて「金」に変わっていったのです。
こうして彼は、悪く言うなら「金」=「悪魔の発明」と関わり続けたわけですが、その人物像はというと実に穏やかで人に好かれる好人物だったと言われています。彼は、科学者の立場について、こう言っていたそうです。
「科学者は生み出したものの使い道について考えるのには適さない」
この姿勢は、核兵器の開発に関わりながらも、その後生涯反対し続け、科学者は自らの発明、仕事については常に責任をもつ必要があると言い続けたアインシュタインとまったく正反対と言えます。
僕もかつては大学で物理を学んでいましたが、科学者というものは自らの研究が何に使われるかということよりも、その理論の正しさを証明することにのみ目標を見出すという気持ちがよくわかります。理論自体のもつ「完璧さ」「美しさ」こそが、科学者の求めるもなのです。
そう考えると、ジョン・フォン・ノイマンという人物は確かに数学に強く驚異的な記憶力の持ち主でしたが、それ以外の部分においてはごくごく普通の人間であり、だからこそ各分野の「天才たち」と「天才ではない」科学者、政治家、軍人、経済人との優れたパイプ役となることができたのかもしれません。
世の中を変えてきたのは、一握りの天才と一握りの狂人だったのかもしれません。しかし、一握りの天才とその多大勢の一般人をつなぐ名も知れぬ彼の様な存在こそが、実は世界を変えてきたのかもしれません。世界にとって、最も危険な人物、それは実は彼のようなタイプの人物かもしれません。
<締めのお言葉>
「一個の人間は殺し屋ではない。集団が殺し屋なのだ。集団を自己と同一視することで、人間は殺し屋に変ずる」
アーサー・ケストラー著「ホロン革命」より
20世紀異人伝へ
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