- ジョン・レノン&オノ・ヨーコ John Lennon & Yoko Ono -

<プライマル・スクリーム>
 1970年、二人は休むことなく活動を続けていましたが、ジョンはしだいに精神的不安感に悩ませるようになっていました。それはミュージシャンの枠を越えた休みなき活動のストレスからきたのかもしれませんが、さらにジョン自身が心の奥底に秘めていた心の傷(トラウマ)が大きな役割りを果たしていたようです。そんな時、彼のもとに書評を依頼する手紙とともに一冊の本が届けられました。
 それは、アメリカの心理学者アーサー・ヤノフ Arther Janovが書いた「プライマル・スクリーム Primal Scream」という本で、「プライマル精神療法」というまったく新しい心理療法のことが書かれていました。
 この精神療法は、精神的な苦痛のもとを探り出して明確化し、それを声に出して叫ぶことで解放し悩みを解消しようというものでした。
 ジョンの場合、生まれてすぐに父親が行方不明になり、彼は母のもとから離されて、叔母のもとで育てられることになりました。その後母と再会しますが、突然現れた父親はジョンの養育権を裁判で争った後、再び消息を絶ちます。そのうえ、やっと出会った母も彼が18歳の時に交通事故で死亡しています。彼の幼い心には、父と母を失った時の強烈な喪失感が刻み込まれており、それが彼を酒や暴力へと駆り立てていたのです。(彼の酒癖はかなり悪く、何度も事件を起こしています)

<「ジョンの魂」「イマジン」誕生>
 ジョンはすぐにこの本が気に入り、ヨーコとともにヤノフ博士の治療を受けました。そのおかげで、彼は押しつぶされかけていた不安感から救われ、その開放感をバネにそれまでの重荷を歌にして発表してしまいます。こうして、ジョンにとって初のソロ・アルバム「ジョンの魂 John Lennon/Plastic Ono Band」(1970年)が生まれたのです。なかでも、「マザー」は、ジョンにとってプライマル・スクリーム(魂の叫び)そのものだったと言えるでしょう。
 1971年、シングル「パワー・トゥー・ザ・ピープル Power To The People」を発表。その後すぐに彼はアルバム「 イマジン Imagine」(1971年)の録音に入ります。このアルバムは「ジョンの魂」と同じく彼の心を素直に表現することで生まれた作品でしたが、「個人的な魂の叫び」から「普遍的な愛の歌」へと大きく成長を遂げていました。だからこそ、その象徴ともいえる曲「イマジン」は時代を越える永遠の名曲になったのです。
 その後発売されたシングル「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」もまた時代を越えた反戦ソングとなりましたが、これもまた彼らの狙い通り、時代を越えて毎年クリスマスにかけられる「平和を願う歌」になりました。今にして思えば、これらの曲は音楽という最もポピュラーな方法を用いた世界平和のための特殊なパフォーマンスだったと考えるべきなのでしょう。

<政府からの圧力>
 しかし1972年に入り、アメリカは北ベトナムへの爆撃(北爆)をエスカレートさせベトナム戦争はいよいよ泥沼化の様相を呈していました。その影響で、ヴェトナム戦争への批判を繰り返していた平和運動の活動家としてのジョン&ヨーコは、政府から格好の標的とされます。FBIによる盗聴など、彼らに対する圧力はしだいに強まり、ついに政府から国外退去を命じられることになります。
 それに対し、彼らは真っ向から対決、裁判で対抗します。(幸いにして、彼らの住むニューヨークの市長は二人に協力的でした)
 彼らは、決して政府の圧力に屈せず、平和集会に出席するとともに、ライブ・アルバム「サム・タイム・イン・ニューヨーク・シティー」を発表。さらに当時世界的な盛り上がりをみせつつあった「ウーマン・リブ」の主張をこめた曲、「女は世界の奴隷か」を発表します。
 ところが、皮肉なことに歌によってフェミニスト宣言をしたはずのジョンが、オノ・ヨーコに家を追い出されてしまいます。(何が直接の原因かは?)こうして、二人の結婚生活にとって、最初で最後の危機が訪れました。

<失われた週末>
 1973年10月から翌1974年の11月まで、二人は別居生活に入ります。「失われた週末」と呼ばれるこの期間中、ジョンはLAに移り住み、ハリー・ニルソンやリンゴ・スターらと毎晩飲み歩き、暴力事件を起こすなど、すさんだ生活をおくります。(「失われた週末」というのは、レイ・ミランド主演、ビリー・ワイルダー監督の映画タイトルから来ています。内容は、すさみきったアルコール依存症作家のお話です)
 この間にも、彼はアルバム「ヌートピア宣言」、シングル「マインド・ゲームス」を発売し、さらにアルバム「心の壁、愛の橋」(1974年発売)を録音しています。そして、このアルバムからのシングル「真夜中を突っ走れ」は、彼にとって初めてのナンバー1ヒットになりました。ところが、この青春暴走ソングの思いがけないヒットが、彼にオノ・ヨーコとの再会のきっかけを与えることになります。
 この曲の共作者エルトン・ジョンとの約束により、一位になったら彼のライブに出演することになっていたジョンは、ある日エルトンのコンサートに飛び入り出演しました。すると、このコンサート会場に偶然オノ・ヨーコが来ており、この再会がきっかけで二人は再び恋におちたのです。運命は彼らの再会を望んでいたようです。

<ジョンとフィル・スペクター>
 1975年、アルバムのプロデューサーだったフィル・スペクターによる録音テープ紛失事件によって制作が中断されていたアルバム「ロックン・ロール」とシングルの「スタンド・バイ・ミー」がやっと発売されます。フィル・スペクターはこの時、スタジオが火事になりテープが燃えてしまったと言い訳したそうです。もちろん、そんな火事などはなく、それはまったくの「口からでまかせ」でした。さすがは、ロック界最大の奇人変人です。それでも、ジョンは彼のポップ感覚を評価しており、その才能を上手く使うことで「イマジン」などの作品群をポップに仕上げることに成功していました。
<アルバム「ロックンロール」誕生秘話>(追記2015年2月)
 ジョン・レノン作曲のビートルズナンバー「Come Together」は、チャック・ベリーの「You Can't Catch Me」の歌詞の冒頭二行を盗用したして訴訟を起こされました。実は、この訴訟における和解の条件の一つとして、アルバム「ロックンロール」で彼の曲をカバーすることになっていたとのことです。
ザ・ビートルズ解散の真実」より

<専業主夫、ジョン・レノン誕生>
 ちょうどこのアルバムが発売される頃、時代はやっと二人に微笑みかけようとしていました。
 この年、ベトナム戦争がついに終結。ニューヨーク最高裁は政府によるジョンの国外退去命令を破棄。そして、1975年10月9日ジョンの誕生日に、それまで何度か流産していたオノ・ヨーコがついに二人にとって初めての子、ショーン・タロウ・オノ・レノンを出産したのです。
 翌1976年には、ジョンとレコード会社の契約が切れたことで、彼はデビュー以来初めてミュージシャンとしての「制作の自由」を得ました。こうして条件がそろい、ジョン・レノンは専業主夫としての生活を開始しました。
 我が家に初めて子供が誕生した時、僕も「専業主夫」ができれば、と正直思いました。「子育て」は、本当に楽しいです。(もちろん、生まれてしばらくのお母さんの苦労を思えば、そう簡単に楽しいなんて言えませんが・・・)愛情を注げば注ぐほど、その子は豊かな心を持った子供に育って行くことが、実感として感じられるものです。(もちろん、愛情を注ぐことと、甘やかすこととは全く違います。正直言って僕は子供に甘すぎるようなので、九州生まれの奥さんの厳しいしつけには、本当に頭が下がります)
 その後、1976年から1980年にかけて、ジョンとヨーコは何度も日本を訪れています。(ショーンが日本の文化を吸収し、ニューヨークで後に日本人女性ユニット、チボ・マットのメンバーになったのも。彼の中に流れる「日本の血」のせいなのかもしれません。
 ただし、ジョンが主夫としての活動を宣言していた時代も、彼は音楽活動をやめていたわけではなかったのかもしれません。1984年にポールの妻リンダは当時のジョンについてこう語っていました。
「ジョンは懸命に曲を書こうとしていました。それはもう、死に物狂いで。世間の人たちは主夫業に専念して、ショーンの面倒を見ているんだろう、ぐらいにしか思っていませんでしたが、彼は幸せじゃありませんでした。曲が書けないせいで、ひどく焦っていたんです。・・・」
ザ・ビートルズ解散の真実」より

<スターティング・オーヴァー>
 5年間の沈黙により、多くの人はもうジョン・レノンの存在を忘れかけていました。しかし、彼は息子ショーンの発した「お父さんはビートルズだったの?」というひと言で再び音楽活動を開始する決意を固めます。それは彼にとってデビュー以来初めて、生活のためでなく、契約のためでなく、素直に作りたいという気持ちから始められた音楽活動でした。(音楽以外の彼の作品、パフォーマンスや絵画などは、元々自由な意志によって生み出されたものだったのだと思います)
 幼年期のトラウマからも、ビートルズというあまりに巨大な存在からも、プロのミュージシャンとしての契約からも、平和運動の活動家に対する政府からの弾圧からも、そして、わが子の子育てからも解放されたジョン・レノン。「スターティング・オーヴァー」は、そんな彼の再スタートにぴったりの曲でした。
「・・・本当の話、「ダブル・ファンタジー」で一番よかったのは、作っているあいだ、別に無理して作らなくたってかまわないんだと、ずっと思い続けていたことよ。わたしたちは作りながら楽しんでいたけれども、その気になればいつだってもとの生活に戻ることができたんだし、要するにほかの生き方もあるということを知っていたのが大事だったわけ。いつもいつも先頭に立つ必要はないわけですからね」
オノ・ヨーコ

 考えてみると、アーティストに限らず全ての人にとって、人生はプレッシャーとの闘いです。そして、誰もがそこから逃げだそうと苦しんでいます。
 ある人は、お金を稼ぐことに必死になり
 ある人は、精神的な解放を求めて修行の道に入り
 ある人は、国のために命を捧げると武器を取り
 またある人は、自ら死を選び
 ある人は、家族のためにと仕事づけの日々を送ります

 しかし1980年、年の瀬のジョンの解放された精神状態も、そう長くは続かなかったでしょう。時代は、その頃再び暗い方向へと舵を切りつつありました。そのうえ、彼はすでにレコード会社と5枚のアルバムを発表する契約を結んでいました。その意味では、彼は自らプレッシャーを受け入れる決意を固めていたのです。自らの責任を認識し、それを喜んで受け入れる精神状態に彼は達していたのです。そして、この充実した精神状態こそ、「幸福」と呼べるものなのかもしれません。

1980年12月8日
 1980年12月8日、彼は愛する家族と暮らすアパートの目の前で射殺されました。その時、彼の心の中には、もちろん、やり残したことへの悔しさがあったでしょう。しかし、それに匹敵するくらいの充実感が、彼の心を満たしていたのではないか、と僕は思います。
 そして、この充実感があるからこそ、愛が生まれ、それが世界を救う最終兵器に成りうるのではないだろうか・・・。
「ご苦労様、後は僕らにまかせて下さい」
早くそう言えるようになりたいものです。
 毎年12月になると、僕はそんなことを考えながら、ジョン・レノンの命日を迎えます。
(ジョンの死については、「ロック世代のポピュラー音楽史」の1980年もご覧下さい)

<締めのお言葉>
「・・・それにね、ものすごい好運がいるのよ。もの凄い量の好運があって・・・初めてあのアルバムは完成するんだわ。わたしたちが男と女であるという事実、わたしたちが一緒に仕事ができるという事実、歌がほとんどいつも同時にわたしたちのところへ、対話みたいにやってくるという事実、こういうもろもろのことは、みんなまったくの好運なのよ。・・・」

オノ・ヨーコ
[参考資料]「ジョン・レノン ラスト・インタビュー」
       (聞き手)アンディー・ピーブルズ(訳)池澤夏樹(出)中公文庫
<最後に>
 このページは、我が家の「Girl」であり「Woman」であり「Mother」でもあるうちの奥さん、さよ子に捧げたいと思います。なにせこのサイトも彼女の一言から生まれたのですから。
いつも、ありがとね!

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