近代医学の父となったリアル・ジキル博士


「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」

- ジョン・ハンター JohnHunter -
<ジキル博士とドリトル先生>
 「ジキル博士とハイド氏」のモデルとなったと同時に「ドリトル先生」のモデルにもなった人物がイギリスに実在した。
 もうそれだけで興味津々です。そのうえ、その人物はダーウィンより70年も前に「進化論」の先駆とも言える論文を書き上げていたというのです。もちろんその論文はあまりに危険な内容なためお蔵入りとなり、「進化論」の発表後に世に出ることになったというのです。
 その人物の名はジョン・ハンター。僕は彼の存在を知りませんでした。まだまだ世の中には知らないことがあるものです。というわけで、さっそく彼について書かれた伝記本を読んでみました。

<ジョン・ハンター>
 ジョン・ハンター JohnHunter が生まれたのは、1728年2月14日イギリス、グラスゴー近郊の村の農家でした。裕福ではない家に生まれ教育を受ける機会は少なかったものの、年の離れた彼の兄ウィリアムは、自力で知識を身につけながら医学の道に進み、ロンドンのコヴァント・ガーデンで解剖教室を開くまでに出世していました。
 弟のジョンも同じように教育を受ける機会はなかったものの、20歳になった1748年に兄に弟子入りし、その下で働く始めます。幸い当時は、医師になるための教育システムが存在しなかったため、経験さえ積めば医師として働くことは可能でした。ただし、そうした経験を得るためには実際に数多くの医療行為にあたり、人体内部の構造を知る必要がありました。ところが、当時その機会は医師ですらそう多くはありませんでした。そこで始まったのが解剖教室という新しいビジネスだったわけですが、そのためには解剖に使用するための死体を入手する必要がありました。

<死体の確保>
 当時、ロンドンでは毎年50人程度が犯罪者として絞首刑になっていたので、その遺体は解剖に利用することが可能でした。しかし、多くの人は死後に最後の審判を受ける際、肉体が必要と考えていたので、たとえ死んでいたとしても自分の身体が切り刻まれることを認めませんでした。従って、解剖に必要な死体を確保するため、違法な手法が用いられることもあり、死体の争奪戦が頻繁に行われていたようです。そのため、映画などでよく見られる死刑執行のシーンの後には、実際は「死体の争奪戦」というもう一つの大騒動があったようです。その状況はこう描写されています。

 足元を取り払われた罪人の体が空中で痙攣を始めるや、ジョン・ハンターとそのライバルたちは飛び出した。受刑者の友人や家族も飛び出し、ぶら下がっている足をつかんで引っ張った。窒息の苦しみを早く楽にしたやろうという思いやりからと、遺体を世間並みに埋葬する権利を主張するためだ。同時に、外科医組合も解剖研究用の合法的な割り当てを手に入れようとやってきて、個人開業の解剖学者やその代理人たちと獲物をめぐって争った。観衆はやんや、やんやの大喝采でこの光景を楽しんだ。死体をめぐる取り合いも見世物の一部なのだ。

 しかし、こうした処刑場での死体確保には限界があったので、違法な手段で死体を入手するプロの死体泥棒集団が活躍を開始します。ジョンもまた兄ウィリアムの指示により、死体を確保するための非合法作戦に加担することになりました。そして、しだいに自分自身がより多くの解剖を行うために死体を盗み出す違法行為に手を染める様にもなります。彼は死体泥棒たちと密接な関係を築き、自分自身も夜の死体探しに同行すると同時に、様々なタイプの死体を入手するための作戦を考え出したようです。

<死体泥棒集団>
 プロの墓泥棒は、1700年代のはじめごろから解剖学者を顧客にもつようになりました。その多くはロンドンとエディンバラに集中していましたが、しだいにイギリスの地方都市やイギリス領アメリカにも進出するようになり、密やかにすばやく効率よく死体を盗み出す技術を磨いていったようです。当初は、墓から金目のものを盗む墓泥棒が副業としてやるか、墓掘り男が外科医に買収されて自分が掘って埋めたばかりの墓を掘り返していたようです。しかし、ハンターの時代にはそれが組織化され、ビジネスとして成り立つレベルに達していたようです。

<医師としての活躍>
 1749年、彼はチェルシー王立病院で研修医として働き始め、1752年には医師として治療を許されるようになります。
 1754年、聖ジョージ病院の実習生として働きながら人体解剖による研究を本格化。偶然入手した妊婦の遺体を調べることで、胎盤を通して母子が血液を循環させていることを発見しました。
 1761年、英国軍の外科医としてフランスとの戦争に出征。戦場では数多くの患者を診察、治療、手術することになり、一気に医師としての経験値を高めました。この時の体験から彼が得た最大の教訓は、自然治癒を信じ、余計な手術をしない方が患者のためになるということでした。
 当時戦場で行われていた応急手術は、消毒や滅菌などの発想がなかったことから患部を危険にさらすことになり、輸血という治療法もなかったので、出血多量で死ぬことも多かったようです。それなら弾を無理して除去せず、そのまま安静にした方が回復できると彼は考えたのです。この考え方は、戦場から戻った後も彼の診療の基本となりました。
 とは言っても、彼はメスを使いたくなかったわけではありません。それどころかメスの名手として数多くの遺体を切り刻み、精密な医療標本を作ることで18世紀の医学に多大な貢献をすることになります。そして彼は現代医学の基礎を築く存在へと成長することになります。

 内科医が依然として「病気の原因は体液の不均衡」だと信じていたこの時代に、病んだり傷ついたりした臓器を研究する「病理解剖学」に取り組みはじめていたのである。病気の場合の見た目を死体で学んでおけば、生きた人間の病気の進行度を推測することができる。
 つまり、診断ができる。


 1764年、彼は上流階級の令嬢アン・ホームと婚約しますが、まだ正式に医師になっていたかったため、結婚は先延ばしになります。
 1768年、外科医組合の修業証書を取得し、聖ジョージ病院の常勤外科医に選出されました。
 1770年、エドワード・ジェンナーが初の住み込み生徒となりました。後に彼は有名な「種痘」を発見することになります。後に彼の弟子になったジェームス・パーキンソンはあの「パーキンソン病」の発見者です。
 1771年、仕事が安定したことで彼はやっとアン・ホームと結婚。彼女はその後、経済観念のない夫のために生涯苦労することになります。
 1772年、外科、生理学の私設講座を開始。
 1774年、当時はほとんどなかった帝王切開による出産手術を実施。「ヒト妊娠 子宮の構造」を刊行。
 同年、貴重な生物を集めていた彼はデンキウナギを偶然入手。その解剖により、生物が電気を発する仕組みに迫りました。
 1777年、絞首刑となったウィリアム・ドッドという人物の蘇生に挑戦。この時の蘇生が成功し、身を隠して生きていたという噂もあったようですが実際は失敗。しかし、1774年に2階の窓から落下した2歳の少女の蘇生に成功したという記録が残されています。この時、彼は電気ショック(たぶん当時珍しかったライデン瓶を使った)を胸に与えたと記録しています。ということは、これが歴史に残る最初の除細動器の使用例と思われます。この方法が常識となるまでには、この後200年かかることになります。
 1778年、「歯科疾患の実用論文」刊行。
 1780年、胎盤血液循環の発見を兄ウィリアムに盗用されたと告発。この訴えにより兄弟の関係は絶縁状態となります。
 1783年、兄ウイリアムが死去。
 同年、アイルランドから来て「世紀の巨人」と呼ばれ大人気となっていたチャールズ・バーンがロンドンで死去。
 遺言によって絶対に遺体は解剖させないとされていたにも関わらず、ジョンはその遺体を入手し、その骨を部屋に飾っていたようです。
 どうやら彼は葬儀社を買収し、出棺の際に棺の中の遺体と石を入れ替えさせたらしいのです。

<ジキル博士とドリトル先生のモデル>
 解剖教室を開き、様々な動物を集めていたことから、彼の存在はロンドンでも有名になりました。それでも表の顔は有名人たちから信頼される名医でもあったのですから、その二面性が話題になるのは当然でした。ロバート・スティーブンソンが、1886年に「ジキル博士とハイド氏」を執筆した際、その小説のモチーフは彼が見た悪夢だったとされています。しかし、ジキル博士が住むロンドン市内の屋敷のモデルは、ジョン・ハンターが住んでいた屋敷だったそうです。
 1788年、彼は自らの収集品を展示した自宅を博物館として年に2回公開し始めます。
 ハンターのコレクションは、目的別に大きく三つに分類できます。もっとも量の多き最初の二つは、生き物の正常な状態でした。そのうち一つは、それぞれの動物の解剖学的構造を生理学の観点から説明するためのもので、二つめは種の保存、つまり生殖を説明するためのもの。三つめは生き物の病的な状態で、正常な生き物が病気や怪我をするとどのように悪くなるのかを説明するためのものでした。もっとも病理標本の大半はハンターの講座で使うので、博物館ではなく講義室に保管されていたようです。
 彼はコレクションを系統立てて分類展示してゆくことで、生物の構造を示すだけでなく、その進化の流れをも示すことになっていました。もちろん「進化」の概念はまだ存在せずダーウィンが「種の起源」を発表するのはそれから70年も先のことになります。
 海外から船が入り未知の動物を運んできたという情報を入手すると、彼は必ずそこに駆けつけ、それが生きていようと死んでいようと、お金を惜しまずに購入していました。そのため、彼の広大な郊外の別宅には、キリンのはく製や多種にわたる犬の交配種など様々な動物が飼われ置かれていました。そんな彼の存在が1920年発表の小説「ドリトル先生」のモデルになったのも納得です。

<ハンターの「進化論」>
 ハンターは同時代の先進的な理論に肩を並べて走りつつ、一生をかけて築いてきた理論を文章で発表する前に、まずは博物館という形式で具現化しました。彼は、地球上の生物は時と共に変化してきたということをずいぶん前から確信していました。化石の存在がその証拠でした。1770年代後半以降は、生物の形態がどう変化するかを知ろうと、同一種の個体に生じる奇形や変異を追いかけるようになります。

 ハンターはこの後、自分の理論を論文にまとめました。「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学にかんする小論と観察」と題された論文は、内容が聖書に反することもあり、医師会が出版を認めずお蔵入りとなりました。それが世に出ることになったのは、1859年ダーウィンの「種の起源」出版の一か月後のことでした。
 彼が1792年に書いた「地質学の観察と考察」もまた発表にストップがかかりました。そこに書かれていたのは、人類と地球の歴史は聖書に書かれている時間軸を否定する内容で、もっともっと長い時間が必要とされると推測していたからです。そこにはこんなことが書かれていました。

「地球上の最初の生き物、あるいは万物の起源に遡れば、そこには普遍的な法則があるにちがいない。その法則が植物や動物の機能に適用されるまでに要した時間の長さはどれほどであろうか」

自然界においては、何一つ単独では存在しえない。すべてのものは、ほかの自然の産物と関係やつながりをもっており、ほかのものと共通する部分でできている。ただ、部分の配置が異なるだけである」

「人間にあるすべての特質は、ほかの動物にも似た形で存在する。おそらく植物にも存在し、あるいは無生物にも存在するかもしれない」


「もっとも完全な動物である人間のすべての部分が、そもそもの最初からどの時点でどう増やされ、変更され、完成品となったのかを追跡することが万一かなうのであれば、それぞれの部分を不完全な動物の部分と比較して、変化の順序と時期を特定したいものである。・・・」

 彼のこうした考え方は、ダーウィンの進化論につながるものでした。

<その功績の行方>
 1792年、彼はそれまで均等に分けていた病院実習生の授業料を受け持ち生徒の人数によって分けると宣言。ほとんんどの実習生は彼の授業を望み、生徒になっていたので当然のことではありました。当然、病院内の教授陣の間で彼は孤立することになり、病院内の権力争いで彼は敗北することになりました。元々心臓が弱かった彼はその後体調を悪化させてしまいます。
 1793年10月16日、ジョン・ハンターは聖ジョージ病院でこの世を去りました。
 残念なことに、膨大な彼のコレクションや家や土地のほとんどは、それを購入するためにした彼の借金の返済のため、競売にかけられてしまいました。それでも、彼の一番弟子だったウィリアム・クリフトは師が残した遺産を保存するために奔走します。
 1799年、クリフトの努力が実り、政府が残されたジョンのコレクションとハンター博物館の建物を買い上げ、彼はそこで学芸員として働くことになりました。
 こうして、残されることになった彼のコレクションは医学資料として多くの医師たちの役に立つことになりました。彼の生徒や弟子だった1000人を超える医師たちは、その後英国やアメリカで活躍し、近代医学の基礎を作ることになります。

<参考>
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」
 2005年
The Nife Man The Extraordinary Life and Times of John Hunter , Father of Modern Surgery
(著)ウェンディ・ムーア Wendy Moor
(訳)矢野真千子
河出書房新社

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