- ジョニー・キャッシュ Johnny Cash -

<白鳥の歌>
 実は僕がジョニー・キャッシュを初めて知ったのは、テレビ・シリーズ「刑事コロンボ」の中の名作のひとつ「白鳥の歌」ででした。カントリー界の大御所として登場した彼は、もちろん殺人犯役として出演していましたが、当然その中では歌も歌い、あの独特の歌声を披露していました。到底「白鳥の歌声」には聞こえない渋い声で、ずいぶんオジサンに見えましたが、まだ当時は40代だったはずです。彼の存在は、そのドラマ同様カントリー界の大御所であり、その後も活躍を続け2003年にこの世を去るまでその地位にいた伝説的な存在です。ただし、カントリー音楽自体がアメリカ以外ではほとんど聞かれていないこともあり、日本での知名度はずっと低いままでした。
 たぶんそれは仕方のないことなのでしょう。冬の日本海を望む港町の居酒屋でスルメをあぶりながら飲む熱燗の日本酒。この味がわかれば演歌の心はより深くしみいるはずです。(ベタですいません)これと同じようにアメリカ南部の綿花畑を走るどこまでも続くまっすぐな埃まみれの道、その十字路で長距離バスの到着を待つ気分が理解できてこそ、カントリーをしみじみと聞けるのかもしれません。
 ただし、ジョニー・キャッシュはカントリー界の大御所ではありましたが、単にその枠にはまっていたわけではありませんでした。実は「カントリー界のサブちゃん」というよりは「カントリー界の内田裕也」といった方が正確なのではないかと思います。

<悲しい少年時代>
 ジョニー・キャッシュが生まれたのは1932年2月26日、アメリカ南部アーカンソー州キングスランドの農家の子として大恐慌の真っ只中に生まれました。実家は典型的なプア・ホワイトの家庭でしたが、父親は厳格なクリスチャンで子供たちはみな厳しく躾けられていました。そんな貧しい生活の中、牧師を目指していた一家の誇りだった長男が事故で命を落としてしまいました。頼りにしていた長男の死は父親を落ち込ませただけでなく、その弟であるジョニーに辛く当たらせるきっかけとなりました。しだいにジョニーは家での居場所を失い、もしかすると犯罪者への道を歩みだすことになったのかもしれません。
 しかし、この時彼にはもうひとつ別の道が用意されていました。冷戦真っ只中の1950年、彼は大学を出ると同時に空軍に入隊し、ドイツへと向かいました。

<心の闇を表現する才能>
 彼は軍隊時代にギターを本格的に弾き始めただけでなく、曲作りもし始めます。ところがすでに彼には他の者には生み出せない曲を書く能力が備わっていました。「Folsom Prison Blues」は、その頃彼が書いた曲で、そのまま彼にとっての代表曲となりましたが、そこでは殺人犯にならざるを得なかった男の悲しい運命がリアルに描かれており、伝説の黒人ブルースマン、レッドベリーの人生を思わせるものでした。そのリアルさは実際に刑務所に入っている犯罪者たちをも感動させ、後にそのフォルサム刑務所内でライブが実現されてアルバムとして発売されることにもなります。彼のそうした犯罪者たちの心の闇を理解し、描き出す才能は、彼のその後の活躍の大きな支えとなりますが、それはまた彼の魂が抱える「心の闇」の深さを表わすものでもありました。そのことは、その後彼が苦しむことになる多くの問題の原因となっていたのかもしれません。

<メンフィスにて>
 1954年、空軍を除隊して故郷に戻った彼は、高校時代から付き合っていた彼女と結婚。仕事を求めてメンフィスに移住します。そこで彼はセールスマンの仕事をしながら仲間たちとバンド活動を開始します。ちょうどその頃、ロックン・ロールの黄金時代が始まろうとしていました。そして、メンフィスの街がその台風の目になります。なぜなら、その街にはあのエルヴィスを生み出すことになるサン・スタジオがあったからです。
 彼とバンドの仲間は、サン・スタジオでのサム・フィリップスによるオーディションに合格、そこで録音を行いデビューのチャンスを掴みました。この時いっしょにオーディションを受けた仲間ギターのルーサー・パーキンスとベースのマーシャル・グラントは、そのまま彼のバック・バンドとなりテネシー・トゥーと名乗ることになりました。こうして、デビューにこぎ着けたジョニー・キャッシュ&テネシー・トゥーは、映画「暴力教室」のヒットやプレスリーの登場によって始まったロックン・ロールのブームに乗って次々にヒットを飛ばしてゆきます。
「Hey Porter」「Cry ! Cry ! Cry !」「Folsom Prison Blues」「I Walk The Line」「Get Rhythm」(後にライ・クーダーがカバーします)「Big River」・・・etc.
 1950年代後半は、まさにロックン・ロール黄金時代でしたがその中でサン・スタジオからスタートしたアーティストたちの活躍は驚異的でした。カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、エルヴィス・プレスリー、そしてジョニーなど、彼らが行うライブ・ツアーは熱狂の渦でした。しかし、当時はミュージシャンにとってまだレコードからの収入はわずかなもので、テレビも登場したばかりだったこともあり、稼ぐためには常にツアーを続けることが必要でした。そのため、彼らはほとんどの時間をツアーに費やし、家族を置き去りにする日々が続きました。そんな中、彼にはその後の人生を左右することになる運命的な出会いが待っていました。

<ジューン・カーターとの出会い>
 同じツアーに参加していたメンバーの中にカントリー界の大御所的存在カーター・ファミリーの娘、ジューン・カーターがいました。彼女こそ、ジョニー・キャッシュの運命を大きく変えることになる運命の女性でした。
 カーター・ファミリーはカントリー音楽のブームの中、一時代を築いた人気バンドでした。ギタリストのメイベルは独自のギター・ピッキング奏法を編み出したことでも有名で、オートハープという小型のハープを有名にしたのもファミリーの一人であるセイラでした。実はこども時代からジョニーはカーター・ファミリーの大ファンで、まさか自分がそのメンバーのひとりと愛し合うことになるとは、・・・それはある意味夢の実現でした。
 しかし、この時ジューンはすでに結婚しており、子供もいました。もちろん、ジョニーもまた妻も子供もいる身だったので、二人が愛し合うことは到底許されることではありませんでした。1950年代という時代のせいもありますが、それ以上に二人の家族はあまりに真面目なクリスチャンだっただけに、それはまさに禁断の恋だったのです。もしかすると、そのことが、かえって二人の思いに火をつけたといえるのかもしれません。
 そのうえカントリー音楽の世界は今も昔も保守的なことで有名です。ジューンはその後、ツアーの連続であまりに家を空けることが多かったこともあり、離婚することになるのですが、女性である彼女に対しては特に風当たりが強く、その後ジョニーが離婚してもなお二人が付き合うことは許されない状況でした。そのため、ジョニーが愛を告白してもジューンの方がそれを受け入れない状況が続くことになりました。もちろん、ジューン自身もまた彼のことを愛していましたが、彼女もまた真面目なクリスチャンであり不倫など到底できない女性でした。
 しかし、ジョニーにそうしたジューンの気持ちが理解できるはずもなく、しだいに酒とドラッグに溺れるようになってゆきました。

<ロックン・ロール草創期の音楽>
 当時、サンレコードのツアー・メンバーだった白人のロックン・ロール・ミュージシャンたちの個性的なスタイルは、ロックン・ロール草創期の多様性を感じさせるものでした。例えば、ジョニーやジューンは今ならほとんどカントリーと呼ぶべきスタイルでした。それに対し、ジェリー・リー・ルイスやカール・パーキンスはロックン・ロールの典型だったといえます。そして、エルヴィス・プレスリーはといえば、ちょうどその中間のスタイルだったといえそうです。そう考えると、白人のロックン・ローラーの多くはカントリー音楽の世界から徐々にロックン・ロールへと近づき、逆にチャック・ベリーリトル・リチャードらの黒人ロックン・ローラーはブルースの世界からロックン・ロールへと移行していたといえそうです。
 当時は、まだそういったジャンル分け自体が存在せず、だからこそジャンルの枠を超えた音楽の交流が可能だったのかもしれません。

<どん底からの復活>
 1958年、いよいよ大手のレコード会社コロンビアと契約した彼は、ロックン・ロールというよりはカントリー音楽の大御所としての地位を確立してゆくようになります。しかし、1960年代に入りロックの時代がやってくるとカントリーの人気は急激に陰りをみせ始めます。そのうえ、彼自身の離婚やドラッグの不法所持による逮捕と裁判、そしてジューンとの実らぬ不倫などが重なり、彼は音楽活動どころではない状況へと追い込まれてしまいます。
 そんな状況から彼を救い出してくれたのは、やはりジューンでした。1968年、ついに彼は長年の夢だったジューンとの結婚を実現します。ついに彼女は彼の愛を受け入れてくれたのでした。こうして精神的に吹っ切れた彼はこの年、自らの音楽活動を復活させることになるあるライブを実現します。それはかつて彼のキャリアをスタートさせるきっかけとなった曲「フォルサム刑務所」でのライブでした。刑務所の中から数多くのファンレターをもらっていた彼は、それ以前から刑務所内でのコンサートをやらせてほしいと交渉を行っていました。そして、6年に及ぶやり取りの後、ついに彼にオーケーの連絡がきたのでした。彼はこの時のフォルサム刑務所でのライブを録音しアルバムとして発表。翌年にはカリフォルニア最大の刑務所サン・クエンティン刑務所でもライブ録音を行い、そのライブ・アルバムでついに全米ナンバー1を獲得します。それはアルバム重視の時代、そして反体制運動の時代に対応する作品であり、彼の復活を証明するものでした。

<その後の活躍>
 その後の彼は単にカントリー音楽のアルバムを作るのではなく、問題作といわれる作品を次々に放ってゆきます。
ベトナム戦争を批判した「黒い服の男 Man in Black」、アメリカ先住民への迫害の歴史に迫った「Bitter Tears アメリカ・インディアンのバラッド」、西部開拓の歴史を追った「The True West 西部の伝説を歌う」などを発表したり、愛妻ジューンとのデュエット・アルバム「Duet」を発表。
 1993年にはなんと超大物バンド、U2の問題作「ZOOROPA」に参加、その中の曲「The Wonderer」で共演しています。反骨精神の塊のようなバンドとの共演自体、彼のロック魂が衰えていないことの証明だったといえるでしょう。
 さらに彼は、デフ・ジャム・レコードを設立しビースティー・ボーイズを育てたリック・ルービンが主催するアメリカン・レコーディングスと契約。その名もずばり「American Recordings」(1994年)というタイトルのアルバムを発表、ロック・ファンの間にも彼の存在を知らしめることになりました。カントリーの大御所と呼ばれていた伝説の男は60歳を過ぎて再び若者たちの前に現れ、その独特の低い声で世界中の音楽ファンに衝撃を与えたのでした。
 若くして身に着けた心の闇を描写する才能は、やはり本物だったのです。だからこそ、「カントリー界の内田裕也」というわけです。

<幸福なる人生の終わり>
 2003年、サン・スタジオのオーナーであり、ジョニーにとって恩人でもあったサム・フィリップスが死去。その後すぐにジューン・カーターもあの世へと旅立ち、さらにその一ヵ月後にはジョニーもその後を追うようにこの世を去りました。なんという人生の結末。
 Ring of Fire(燃え上がる愛の炎)は、永遠の愛の物語を生み出し、映画として、歌として、永遠の存在になったわけです。

「俺たちみたいな心が出会うと
 甘い愛の味がする
 まるで子供のようにおまえに夢中になってしまった
 ああ、でも炎は押えられないほど燃え上がる

 燃える炎の輪の中に俺は落ちていく・・・」

「Ring of Fire」

映画「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」 2005年
(監)(脚)ジェームズ・マンゴールド
(原)ジョニー・キャッシュ
(脚)ギル・デニス
(撮)フェドン・パパマイケル
(音)T=ボーン・バーネット
(出)ホアキン・フェニックス、リース・ウィザースプーン(アカデミー主演女優賞)、ジニファー・グッドウィン、ロバート・パトリック


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