- ジョン・スタージェス John Sturges -

「荒野の七人」、「大脱走」・・・

<テレビ洋画劇場の定番>
 僕が子供だった1960年代、テレビで放映される映画は視聴率も高く、番組改変期の目玉でした。もちろんそれはまだレンタル・ヴィデオもDVDもなかったからですが、放映される作品の質が高かったからでもあります。「風と共に去りぬ」や「アラビアのロレンス」、「エデンの東」、「大いなる西部」、「ウエストサイド・ストーリー」など、様々な大作映画を始めて見た時の感動は、テレビではあっても衝撃的でした。日曜日の夜、淀川長治さんの解説を聞き、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の言葉を聴いて、あのエンディング・テーマの聞くとなんだか自分が映画館から帰ってきたかのような気になれたものです。
 そうしたテレビ洋画劇場の定番的作品として忘れられないアクション大作を撮ったジョン・スタージェスは忘れられない監督のひとりです。彼の作品には、巨匠デヴィッド・リーンのような感動的な名作もないし、スタンリー・キューブリックのように時代の先をゆく斬新な作品もありません。しかし、彼の代表作「大脱走」は我が家の子供たちもテレビで見て気に入った作品で、世代を超えて今でも見ごたえ十分の娯楽大作です。この戦争アクション映画の金字塔と西部劇アクションの金字塔といえる「OK牧場の決闘」、「荒野の七人」、その三作品だけでも十分に不滅の存在といえるはずです。どうもジョン・スタージェス監督は過小評価されている気がします。

<ジョン・スタージェス>
 ジョン・スタージェスJohn Sturges は、アメリカ中東部イリノイ州のオークパークに1910年1月13日に生まれています。1932年に大学を卒業した彼は、当時上り調子だった映画会社RKOに入社し、そこで映画の裏方のひとつブループリント部に配属されました。(ブループリントとは、撮影スタジオ用のセットなどの図面のこと)その後、美術部、編集などの仕事を経てプロデューサー助手となり、「風と共に去りぬ」の製作者としても有名な大物プロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックの助手を務めるなど、様々な映画の仕事を体験した後に監督になったたたきあげの苦労人です。ところが、時代が第二次世界大戦に突入すると彼はで空軍に配属されてしまいます。それでも彼は運の良いことに、配属された空軍で記録映画の製作を任されることになり、そこで40本以上の短編記録映画を撮りながら無事に終戦を迎えました。
 1946年、彼はコロンビア映画と契約し、さっそく映画「The Man Who Dared」で監督デビューを果たしましたが、その後、さっぱりヒット作を世に出すことができませんでした。やっと注目されるようになったのは、1950年にコロンビアに移籍してからのことになります。1953年に撮った彼の西部劇「ブラボー砦の脱出」がヒット。この時、すでに彼は43歳になっていましたから、かなり遅咲きの監督だったわけです。しかし、豊富な経験を持つ彼は、この後、大作を任されると次々にヒットさせて行くことになります。

<ヒット作を連発>
 1957年の「OK牧場の決闘」は、ワイアット・アープとドク・ホリデイがクラントン一家と闘う西部劇における忠臣蔵的存在の映画化。その決定版ともいえる作品になった彼の作品には、当時人気絶頂だったバート・ランカスターとカーク・ダグラスが出演。ガンファイトを見所とした痛快娯楽西部劇の傑作として忘れられません。
 さらに彼の監督としての手腕を証明したといわれるのが、「老人と海」でしょう。

「老人と海 The Old Man and the Sea」(1958年)
(監)ジョン・スタージェス
(原)アーネスト・ヘミングウェイ
(脚)ピーター・ヴィアデル
(撮)ジェームズ・ウォン・ハウ
(音)ディミトリー・ティオムキン
(出)スペンサー・トレイシー、フェリッペ・パゾス
 キューバの小さな漁村に住む年老いた漁師が一人乗りの船で漁に出て、そこで巨大なカジキマグロ(マーリン)と一対一の闘いを繰り広げる3日間の物語。
アーネスト・ヘミングウェイ原作の名作「老人と海」は、会話も登場人物も少ない中編小説のため映画化は困難といわれていました。場面もほとんどが海上で、現在のようにCGを用いることは出来ない時代にどうやって老人とカジキマグロの戦いをリアルに迫力ある映像に仕上げるのか?難しい企画だったはずです。
 そこでジョン・スタージェスはいつものような娯楽映画のタッチを用いず、あえてドキュメンタリー・タッチの映像にこだわります。さらにそこに名優スペンサー・トレイシーの名演技(一人芝居)を加えることで、記録映像と舞台の一人芝居の融合を実現させました。(もちろん今見るとリアルにはなかなか見えないかもしれませんが・・・)

 この年、彼は他に2本の西部劇大作を撮っています。その映画「ゴーストタウンの決闘」と「ガンヒルの決斗」の二本は、「OK牧場の決闘」とともに決闘三部作として今でも高く評価されています。ハリウッド映画における娯楽西部劇最後の輝きが、この3本と次なる彼の作品「荒野の七人」だたのかもしれません。

「荒野の七人 The Magnificient Seven」(1960年)
(監)ジョン・スタージェス
(原)黒澤明、橋本忍、小国英雄
(脚)ウォルター・ニューマン
(撮)チャールズ・ラング
(音)エルマー・バーンスタイン
(出)ユル・ブリンナー、スティーブ・マックウィーン、チャールズ・ブロンソン、ホルスト・ブッフホルツ、ロバート・ボーン、ジェームス・コバーン、ブラッド・デクスター、イーライ・ウォーラック・・・
カルベラ(イーライ・ウォラック) 「頭のいいおめえらがなぜ引き受けたのかわからねえ」
クリス(ユル・ブリンナー)    「全くだ」
カルベラ              「訳を聞かせろ」
ヴィン(スティーブ・マックィーン)「素っ裸でサボテンに飛び込んだ奴に聞いたら面白いと思ったからだとさ」

 黒澤明監督の「七人の侍」を見たユル・ブリンナーが自らその映画化権を買い、その製作と監督をジョン・スタージェスに依頼してきた作品。ストーリーの基本はほぼ「七人の侍」といっしょで、ユル・ブリンナーは、侍たちの指導者役である志村喬を演じ、その他の役は微妙に西部劇に合わせて変えているものの、ごく自然に移し変えられていた気がします。特に重要なのは、ほとんどの西部劇においては正義の味方が死なないことになっているのに対し、この映画ではそのほとんどが命を落としてしまうことです。これはそれまでのハリウッド映画ではなかったことなだけに、西部劇の新しい魅力を生み出しました。
 特にジェームス・コバーンやロバート・ボーンらの死に際の演技は、この映画最大の魅力となりました。その後、この映画の死に際の美学は、ジョージ・ロイ・ヒルの「明日に向かって撃て」やサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」などの作品へと受け継がれ、ニューシネマの基本パターンの一つなります。
 スタージェス自身もその成功を受けて、「複数主人公」と彼らの闘いを描いた次なる作品を今度は戦場を舞台に製作することになります。

「大脱走 The Great Escape」(1963年)
(監)ジョン・スタージェス
(原)ポール・ブリックヒル
(脚)ジェームズ・クラベル、W・R・バーネッ
(撮)ダニエル・L・ファップ
(音)エルマー・バーンスタイン
(出)スティーブ・マックィーン、リチャード・アッテンボロー、ジェームス・ガーナー、ジェームス・コバーン、チャールズ・ブロンソン、ドナルド・プリーゼンス・・・
 第二次世界大戦中、ドイツ軍の捕虜収容所で実際に起きた捕虜の大量脱走事件をもとにしたサスペンション・アクション大作。「荒野の七人」における複数主人公ものをさらにスケール・アップさせ同時展開でドラマを描くスリル満点の作品。実際の事件に基づきほとんどの捕虜たちが命を落とすために観客はいっそうハラハラドキドキさせられました。こうした同時進行の集団ドラマは、「グランドホテル形式」と呼ばれていましたが、スタージェス監督はそれをアクション映画として完成させたといえるかもしれません。
 この後、こうした集団ドラマはラストにひとつの事件へと集約する新たなスタイルへと進化することになります。その到達点が1975年のロバート・アルトマン監督作品「ナッシュビル」です。
 クライマックスのマックィーンによるバイクによる逃走シーンは、未だに見ごたえがある名場面ですが、それ以上に印象に残るのは同じマックィーンによる独房内でのキャッチボールです。オープニングとエンディングで行われるのが、サッカーではなくキャッチボールだというのが実にアメリカ映画らしく、この映画を「命がけのゲーム」として描こうという監督の意図が非常によくわかる仕掛けでした。

 スタージェス監督はその後、「墓石と決闘」(1967年)、「シノーラ」(1972年)などの西部劇、ジョン・ウェインによる刑事ドラマ「マックQ」(1974年)などの作品を撮りますが、ハリウッドの黄金時代は去り、彼もまた戦争サスペンス「鷲は舞い降りた」(1977年)を最後にハリウッドを去りました。
 彼以降のハリウッド・アクション大作は、どんどん派手になり、クライマックスが3回以上はあるやり過ぎな作品になってゆきます。エンディングではぐったりと疲れてしまい、ラストシーンの余韻など感じられなくなってしまいました。だって、まだ次のクライマックスがあるかもと身構えてしまうのですから・・・。それに比べて、マックィーンの一人キャッチボールは実にのどかで余韻がありました。
<エルマー・バーンスタイン>
 「大脱走」と「荒野の七人」、両方の映画で忘れられないこととして音楽があります。勇壮で軽快な音楽は、映画を見終わった後も頭にこびりついてしまったはず。その両方の音楽を作曲したエルマー・バーンスタインもまたハリウッドの大作映画になくてはならない存在でした。
 エルマー・バーンスタインElmer Bernsteinは、1924年4月4日にニューヨーク、ブルックリンで生まれた生粋のユダヤ系ニューヨーカーです。両親は音楽家ではありませんでしたが、その才能を有していた彼は音楽家になることを志し、ニューヨーク大学を卒業後、名門ジュリアード音楽院に入学。そこで作曲理論などを学びました。
 第二次世界大戦中、彼は空軍に入隊し、そこでラジオ・ショーのための音楽を担当しながら放送劇などの作曲を実地で学ぶことになりました。そして、終戦後、彼はハリウッドで映画音楽を作曲し始めることになります。
 彼の名を一躍有名にしたのは、1956年に彼が作曲した「黄金の腕」。1958年の超大作「十戒」もまた彼の代表作となりました。かたやサスペンス映画のジャズっぽい音楽。かたや聖書を題材にした宗教的な音楽と、まったく異なるタイプでの成功により、彼はハリウッドでも売れっ子の作曲家となります。
 1960年代には西部劇や戦争映画で力強く勇壮なオーケストラ音楽を作り、社会派の作品にはジャズ、ブルース、ゴスペルを持ち込んでいます。あのマルボロのCMも彼の作品で、大地の香りのするスケールの大きな曲を作れるハリウッド最後の巨匠と呼ぶべき存在となりました。
 1970年代に入ると、ハリウッド映画の黄金期が終わり、ニューシネマの時代となり、それまでの彼のイメージは逆にパロディとして扱われるようになり、彼の仕事はコメディ、パロディ映画への方に移って行くことになります。それでも、1989年の「マイ・レフト・フット」以降は、再びシリアスな作品に関わるようになります。
 2004年8月18日、彼を追悼するかのような名作「エデンの彼方へ」を残して彼はこの世を去りました。 
<代表作>
代表作をあげるとそのジャンルの幅の広さに驚かされます。
 正統派の人間ドラマ「マイ・レフト・フット」(1990年)、「アラバマ物語」(1963年)、「終身犯」(1962年)。西部劇の「胸に輝く星」(1957年)、「勇気ある追跡」(1969年)、「ラスト・シューティスト」(1979年)。戦争アクションの「レマゲン鉄橋」(1970年)。コメディー映画の「スラップショット」(1977年)、「アニマル・ハウス」(1978年)、「フライング・ハイ」(1980年)、「大逆転」(1983年)、「ゴーストバスターズ」(1984年)、「サボテン・ブラザース」(1987年)、「狼男アメリカン」(1982年)。巨匠マーティン・スコセッシの作品「エイジ・オブ・イノセンス」(1994年)、「ケープ・フィアー」(1991年)、「救命士」(1999年)、「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2001年)。そして、ミュージカル1967年の「モダン・ミリー」でアカデミー作曲賞を受賞。
 まさになんでもありの仕事ぶりです。20世紀後半のハリウッド映画の歩みを支え続けた作曲家ともいえる彼の代表作は、やはり「大脱走」と「荒野の七人」だと僕は思います。胸が高鳴る彼の音楽は永遠不滅です。まさに「ミスター・ハリウッド・ミュージック」です。
「エデンの彼方へ」(2002年)
 遺作となったこの映画では、彼の音楽はハリウッド映画の黄金時代でもあった1950年代のアメリカを画面の中によみがえらせるタイムマシンの役割を果たしています。美しい秋の風景と登場人物の心模様と共に変化する彼の音楽は、この映画のもう一人の登場人物のような存在感をみせています。映像と音楽、ファッションや美術も含めて、当時の雰囲気を見事に再現したトッド・ヘインズの名作はエルマー・バーンスタインにとって、最後で最高のプレゼントになったと思います。

<上記以外の代表>
「成功の甘き香り」「楡の木陰の欲望」(1957年)、「大いなる野望」(1963年)、「マリアンの友だち」(1964年)、「エルダー兄弟」(1965年)、「ハワイ」(1966年)、「インディアン狩り」(1968年)、「L・B・ジョーンズの解放」(1969年)、「さすらいの大空」(1969年)、「ビッグ・ケーヒル」(1973年)、「夜霧のマンハッタン」(1986年)、「グリフターズ詐欺師たち」(1990年)、「夢を生きた男 ザ・ベーブ」(1991年)、「恋に落ちたら」(1993年)、「青いドレスの女」(1995年)、「レイン・メーカー」(1997年)、「ワイルド・ワイルド・ウエスト」(1999年)、「僕たちのアナバナナ」(2000年)

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