再発見され続ける18世紀日本画の奇才

- 伊藤若冲 Jyakuchu Ito -

<ロックなアーティストたち>
 このサイトのタイトルは、当初「ロック世代のポピュラー音楽史」といいました。「ロックの黄金時代をリアルタイムで感じられた世代から見た20世紀音楽史」というコンセプトでした。ところが、音楽が好きなら、それに関わる映画や文学にも興味をもつようになるのは当然のこと。気がつけば、「20世紀映画史」、「20世紀文学史」などへの広がることになりました。今ではいよいよオールジャンルで20世紀を扱うようになっています。
 ただし、当初の「ロック世代」というこだわりは、今もなお続いています。ここで取り上げている作品や人間は、僕にとって「ロック魂」を感じてしまう存在がほとんどです。冒険家の植村直己、サッカー選手の伊藤壇マーチン・ルーサー・キング牧師ネルソン・マンデラパブロ・ピカソ村上春樹・・・みんな「ロック魂」を感じる人々です。映画「ワイルド・バンチ」、小説「イワンデニーソヴィッチの一日」、事件「ベルリンの壁崩壊」・・・様々な作品や事件にも「ロック魂」を感じます。
 じゃあ、「ロック魂」とは何ぞや?
 僕が思うに、それは「破壊と創造に挑み続ける不屈の意思」のことです。誰でも、青春時代に一度は父親や教師や社会に反発したことはあるはず。そこで反抗の意思を何かの形で表わしたら、それは十分にロックな芸術活動です。でも、そんな反発心を生涯持ち続け、それをエネルギー源として、創作活動を続けることができる人はそうはいません。そのためには、そうとうなモチベーションが必要なはずです。しかし、そうしたモチベーションを保ち続けた一握りの英雄たちによって、時代は動かされてきたともいえます。
 もちろん、そうした存在はどんなジャンルにも存在していたし、20世紀以前にも存在していたはずです。そして、そんな中には21世紀に入ってもなお輝きを放つ存在もいます。だとすればたとえ、それが18世紀のアーティストだったとしても、ここで取り上げてみたい。そんなわけで、「ロック魂」の再発見、再評価をしようと、過去のアーティストにも目を向けて見ることにしました。そんなわけで日本画の世界で「異能の天才」と呼ばれる江戸時代、18世紀の画家、伊藤若冲を取り上げようと思います。
 では、彼のどこに「ロック魂」を感じるのか?
 日本画界の主流である狩野派とは異なる道を一人で歩み続けたこと。
 独自の画法を生み出し続けた挑戦者だったこと。
 反主流派だったがゆえに、マイナーな存在であり続けたこと。
 当時ほとんどの画家が描いていた寺社仏閣や山や海、人物などを描くことなく、植物や昆虫、鳥、犬、魚、象など様々な生き物たちを好んで描いたこと。
 18世紀日本画界の鬼才、伊藤若冲について調べてみました。

<副業の画家、若冲>
 伊藤若冲は、1716年2月8日(江戸時代、正徳6年)今も京都の台所として有名な錦小路の青物問屋「桝屋」の主人、伊藤源左衛門の長男として生まれました。商売人の子でありながら人付き合いが苦手な彼は長男でなければ後を継ぐことはなかったはずです。しかし、源左衛門が40代でこの世を去ってしまったため、彼は23歳で早くも問屋の主人として働き始めます。その頃、彼はすでに趣味として絵を描き始めていて、商売よりも絵を描くことに生きがいを見出していたようです。そのため、彼は仕事の合間をぬって大阪に住む狩野派の絵師から個人授業を受けながら技術を身に着けていました。
 1755年、彼は39歳になり弟に家督を継がせて隠居します。そして、ここから彼はいよいよ画業に専念し始めます。隠居の身とはいえ、彼は実家のおかげで生活に困ることはなく、そのことが彼の作品に良い影響をもたらしています。第一に、生活費を稼ぐためのを描く必要がないため、彼は好きな題材を好きなように描くことができました。それに絵具や紙、筆などの画材に高級なものを使用することができたため、彼の作品は年月を経てもなお劣化が少なくてすんでいます。美しい色を21世紀の今も保ち続けているからこそ、彼の評価はいまだに高いのです。
 彼のような普通の町人が芸術家としての人生を歩めるようになったのは、江戸時代になってからでした。しかし、彼の生きた時代にも1788年には「天明の大火」が起き、京都の市街地がほとんど消失。彼は自宅を失っています。彼が長生きをし、好きな絵を描き続けられたのは、実家の商売があったおかげだったともいえます。
 正式に彼が画家となり「若冲」の名を絵に署名するようになったのは、1752年ごろ。彼の作品を評価してくれた相国寺の住職に「老子」の記述からその名前を選んで名付けてもらった時からでした。

<生き物たちを描く>
 彼は独学で画法を習得するため、中国の水墨画を模写したり、家で鶏を飼いながらそれを観察することで生物を描く訓練をしていました。彼は生き物を見つめるうちにその生き物の持つ「神気」が見えてくるようになるといい、そうすればもうどんなポーズも自由に描けると考えていました。彼は基本的に自分の目で実際に見た生き物や植物を描いていましたが、そうでない場合は資料や図像などを調べて正確に描こうと考えていたようです。しかし、そのわりに彼が描いている動物たちの表情は、どれもくりっとした目を持つ優しいものばかりです。それは、もしかすると作者の優しさの表れだったのかもしれません。「虎図」(1755年)、「百犬図」(1799年)、「雨龍図」(1770年頃)などは、そんな優しい表情もつ生き物たちの絵です。
 彼は殺生を嫌い、動物の肉をいっさい食べなかったといわれますから、筋金入りの優しさの持ち主だったようです。ついでにいうと、彼は男と女の愛欲の場面も描いていません。どうやら、彼は同性愛者だったらしく、性的嗜好の面でもアウトサイダーだったようです。やはり優れた芸術家の多くは、昔も今もストレートではなかったのかもしれません。ただし、江戸時代は現代のよりもよほど同性愛は社会で受け入れられていたので、現在よりは生きやすかったかもしれません。とはいえ、彼の作品にとって、そうした彼の人間性が大きな意味をもったことは明らかでしょう。

<メジャー・デビュー>
 1758年、彼は恩義のある相国寺の住職に寄進するための大作を制作し始めます。それが彼の初期の代表作といえる3枚の「釈迦三尊像」と30枚の「動植綵絵」です。「動植綵絵」で描かれているのは、木や花などの植物群、魚たち(サヨリ、シュモクザメ、タコなど)、虫たち、鳥たち(鶏だけでなくオウム、鶴、孔雀など)など様々で、見る者を飽きさせません。しかし、その作品の中には人間も仏様も地獄も描かれてはいません。その意味では仏間にかける絵には思えません。さらにいうと、そんな絵を描く方も描く方なら、それをずらりと並べて飾ったお寺もお寺です。
 さらに細かい点で注目すべきは、彼が描いた植物、特に葉の中には部分的に枯れたものがあることです。それまでの日本の絵画においては描かれる題材はどれも美しい理想的な姿であり、リアリズムは無視されていました。まして、仏間に飾る絵の植物が枯れかかっているなどありえないことでした。ここにもまた若冲のこだわりが見られます。巨視的な神の目ともいえます。
 1759年、彼は町人あがりのフリー画家としていきなりの大作を任されます。あの金閣寺のある「鹿苑寺」から書院の障壁画を依頼されたのです。彼の作品のファンだった相国寺住職の後押しのおかげだったようですが、それにしても大きな仕事でした。幸いなことに、当時の京都は江戸に対する対抗意識もあり、文化について自由で独創的なものを求める傾向があり、彼のような一匹狼を育てる条件がそろっていたようです。主流派に対する「アンチ」を認める文化人が多かったのです。そのおかげで、彼はすぐに関西でも三本の指に入る人気画家となりました。彼の作品はけっして前衛的な芸術作品ではなく大衆から支持されるポップなものでした。

<様々な作品、作風>
「菊花図」(1763年)
 彼の作品の特徴として、図鑑のように精密な植物ががありますが、それだけではなく墨のにじみを利用した独自の水墨画による植物も独自の美しさをもっています。
「石灯籠図屏風」
 石灯籠を点描画として描いています。(その他の部分は点描ではない)
「鳥獣花木図屏風」
 なんと1980年代になって発見された作品です。167cm×376cmの作品6枚からなるセット2組からなる超大作。この作品はモザイク画のように細かな正方形の桝目によって構成された不思議な絵です。どうやら織物の下絵として描かれたためにそうなったようです。しかし、わずか1.2cmしかない正方形をひとつひとつ着色することでできあがったその絵にかけられた労力は脅威としか思えません。(まるで山下清です)
 この他にも、彼は多色ずりの花鳥版画など版画作品でも数多くの名作を残していますが、これなど京都の染物職人たちから技術を学び独自の手法に仕上げたといわれます。現在もなお彼の評価が高まっているのは、彼の未知の作品が今でも発見され我々を驚かせてくれているせいもありそうです。2000年にも彼の作品として唯一のカラー絵巻「葉虫譜」が発見されました。栃木県佐野市の旧家の蔵に眠っていたというこの作品により、再び若冲は新たな世界をみせてくれました。まだ、どこかに彼の作品が残されている可能性は高そうです。

<「天明の大火」以後>
 1788年(天明8年)「天明の大火」が起き、京都全域が焼野原になりました。「応仁の乱」以来の大火事により、相国寺や若冲の家など街のほとんどが焼けたといわれます。そのため、彼は初めて自分の作品を売ってお金を稼ぐ必要に迫られました。
 彼は京都のはずれにある石峰寺の門前に隠居してそこで、絵を米に換えるなどして生活していたといいます。それでもその間に彼は自らの下絵を描いたものを石工に彫らせることで五百羅漢像をつくり、石峰寺の裏山にそれを並べてゆきました。もうこの頃、彼は70代になっており、当時としてはかなりの長寿でしたが、まだまだ制作意欲は衰えていませんでした。
 80代になっても、彼は作品を作り続け、死の直前まで描き続けました。当時は年号の書き方が統一されていなかったこともあり、作品によっては彼が死んでから発表された作品までもが存在するくらいです。彼がこの世を去ったのは、1800年(寛政12年)9月8日(または10日)84歳の時といわれています。そのギリギリまで彼が制作活動を続けられたのは、お金があっても遊びまわるのではなく節制した暮らしを続け、その中で常に新しい技法や題材に挑戦し続けたからでしょう。生きることと、新作に挑むことは、彼にとって同義だったに違いありません。
 彼もまた「転がり続ける石」(Like A Rolling Stone)でした。
 そういえば、彼の名前「若冲」とは、老子の言葉からきています。
「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも基の用は窮まらず」(本当に満ち足りているものは、なかが空虚のように見えるが、それを用いて尽きることはない)
 まるで「禅」の言葉のような名言です。でもこれって「ロックですよね」

<参考>
「異能の画家 伊藤若冲」
 2008年
(著)狩野博幸、森村泰昌ほか
新潮社 

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