
おそるべきその裏側は明らかになるのか?
- ジャニー・H・喜多川 Johnny H Kitagawaと息子たち
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<ついに真実は明らかに>
2023年3月、ついにBBCの特別番組でジャニー・喜多川による性暴力が暴露されました。
正直言って、それほど驚きではなく、ある意味、これで多くのことが納得できた気がします。
2007年時点の裁判ですでに彼の性暴力は裁判所によって有罪を判断されていたことを僕は知りませんでした。
その事実が見事に歴史から消し去られていた事実の方がもっと恐ろしい。今回の報道はその事実がジャニーズに与える影響の大きさは計り知れません。
安部元総理の死から始まった統一教会に関する報道と批判。これとまったく同じことが今、始まろうとしているのかもしれません。
でもこの問題で何が恐ろしいって、ここまで事実が明らかになりながら、どの放送局もマスコミも(文春以外)中立公正なはずのNHKですら、一切報道をしていないことです。
今や、大河ドラマも紅白歌合戦もジャニーズ抜きでは考えられないNHKは、裏ではきっともめているのでしょう?
マイケル・ジャクソンの性被害も事実でありながら今でもそれも見て見ないふりをするのと同じ構造がここにもありそうです。
これは戦時中の軍上層部に対する意識にも辿りつく、大衆の精神的依存構造が生み出したものかもしれません。
この構造が安倍政権時代にも機能していたと考えるとマスコミへの信頼はもう限りなくゼロと言わざるを得ません。
テレビ離れの最大の原因は、ここにあると言われても仕方ないでしょう。
<ジャニーズって何?>
以前から、ジャニーズって何?と疑問でした。別にキムタクのファンではないし、フォーリーブスもどうでもよかったのですが、ジャニーズ事務所所属のアーティストがいなくなるとテレビ界が成り立たないように思えます。その影響力は、吉本興業の比ではないでしょう。かつては、ナベプロやホリプロなどの芸能事務所が一時代を築いていた時期もありましたが、今やジャニーズのひとり勝ちといっていいでしょう。なぜ、そんなにも勢いがあるのか?気になっていました。
芸能界最大のメンズ・アーティスト帝国ジャニーズの存在抜きにJ−ポップと歌謡曲、そしてエンターテイメントの歴史は語れない。それだけの貢献をしているのではないか?そう思いつつジャニーズの歴史を追ってみたいと思います。
<ジャニー喜多川>
ジャニーズの歴史は、1950年代の終わりに近い東京の代々木公園から始まりますが、先ずはその主人公であるジャニー喜多川こと、喜多川擴(ひろむ)の生い立ちから始めたいと思います。ジャニー喜多川の「ジャニー」はアルファベットでは「Johnny」。「ジョニー」と発音しないことからも、彼がネイティブ・スピーカーだとわかります。
彼は1931年に真言宗高野山の導師だった父親と日本人の妻の間に生まれています。しかし、出生地はアメリカのロサンゼルス。父親が布教のために渡米していたために、彼は日米二つの母国をもつことになったのです。太平洋戦争が始まったため、家族は一度日本に帰国しますが、戦後再びアメリカに戻ったため、彼はロスの高校に通うことになりました。当時、彼はアルバイトでロスの有名なアニーパイル劇場で雑用係をしていて、そこで本場アメリカのエンターテイメントの魅力と厳しさを知りました。
戦後、米軍によって占領されていた日本では、エンターテイメントの新たな目標はアメリカのショービズ界となり、そのために様々なアーティストがアメリカ仕込のエンターテイメントを学びステイタスを得ようとアメリカに渡っていました。その多くのアーティストが、彼の実家とも言えるロスの高野山ホールでステージを行っていたことから、彼はそれらの日本を代表するスターたちと親しくなる機会を得ていました。(古賀政男、笠置シヅ子、田中絹代、山本富士子、美空ひばり、ディック・ミネ・・・)このときのつながりは後に彼の仕事にとって大いに役立つことになります。
朝鮮戦争が始まると、アメリカ国籍をもつ彼は徴兵され、韓国で兵役を終えた後、日本で在日米軍軍事顧問団の通訳として働き始めます。そして、そこで運命的な出会いがあり、ジャニーズが誕生することになります。
<ジャニーズ誕生>
彼が住むワシントン・ハイツのすぐそばに代々木公園がありました。彼は休日によくそこで野球をしていたのですが、いつしかそこで野球をする少年たちに野球を教えるようになります。ついには彼が自らスポンサーとなって、野球チーム「ジャニーズ」を結成します。都内の野球チームとの試合では圧倒的に強かったようです。同じ頃、彼の姉メリー喜多川が四谷でバーを開業。その店はアメリカ直送の音楽をかけ、食べ物を提供し、繁盛店になりつつありました。
ある時、彼はチームのメンバーの何人かを姉のバーに連れてゆくと、彼らはそこに広がるアメリカ的な世界に魅せられ、今度はそこで本場アメリカ仕込みのダンスを彼から学ぶことになります。こうして彼のもとでダンスを学び始めた4人、飯野おさみ、真家ひろみ、あおい輝彦、中谷良によって、日本初の男性ダンスヴォーカルチーム「ジャニーズ」が結成されました。(当時、歌と同時に踊りも披露するというスタイルはまったく未知の領域でした)
もともとショービズの世界に興味があった彼は、ジャニーズでそれまで未開拓だった「男性アイドル」というジャンルに挑戦しようと考えました。当時の歌謡界をリードしていたナベプロも渡辺プロも、「男性アイドル」に関してはほとんど手を出していなかったのです。当時、日本の経済行動をリードしていたのは、現在のように若い女性たちではなく、働き盛りの男性でした。そのため、若い女性をターゲットにすることは、まだ早すぎたのかもしれません。しかし、彼はあえてその隙間にチャンスを見つけたわけです。
ジャニーズの特徴のひとつ、「ユニゾンの歌唱」(ハモらない)は、当時から今まで変りません。それはなぜ?
現在ではカラオケで歌われるために、その親しみやすさから選択されているとされますが、直接的には、当時大人気だったグループ・サウンズの影響だったという説があるようです。
<フォーリーヴスと郷ひろみ>
ジャニーズを結成した彼は、4人のデビューをアメリカでと考えました。やはりそれはアメリカでデビューすることで、いっきに彼らの知名度とステイタスを上げようという作戦だったのでしょう。しかし、その作戦はタイミングをのがしてしまい、アメリカでのデビューは流れてしまいます。結局、この失敗がそのまま尾を引くことになり、ジャニーズは大きな成功をしないまま解散することになります。しかし、ジャニー喜多川はスタートさせた夢の実現に向け、次なるグループを登場させます。それがジャニーズのバック・ダンサーだった4人からなるフォーリーブスでした。(北公次、江木俊夫、青山孝、ありも政夫)
フォーリーブスは、大ヒットこそなかったものの男性アイドル・グループとして初めて成功。そして、フォーリーブスがまだまだ活躍していた1972年。彼は早くも次なるスターを生み出します。それは、ジャニーズにとって最大のソロ・スターとなった郷ひろみです。当時、西条秀樹、野口五郎とともに一時代を築いた郷ひろみの活躍により一躍ジャニーズは人気プロダクションの仲間入りをし黄金時代を迎えます。
当時も今もジャニーズは、ジャニー喜多川の美的センスとメリー喜多川の経営能力に支えられていますが、それは弱点にもなりうる部分です。彼らが引退もしくはこの世を去っても、ジャニーズ事務所は存続できるのか?これはけっこう難しいかもしれません。企業として、なんとかやってゆくのかもしれませんが、上手く行くかどうかはかなり疑問です。そして、その不安が現実となったのが、この時代に起きた郷ひろみの独立問題です。
事務所の忙しさのせいもあり、ジャニー喜多川が病気で入院。その間に郷ひろみのコンサートがあり、その構成を喜多川に代わり郷自らが行いました。しかし、その出来に満足できなかった喜多川は、郷の仕事を批判。それがきっかけとなり二人の間に亀裂が生じてしまい、ついには郷はジャニーズ事務所と決別。事務所は稼ぎ頭を失い経営的にもピンチに立たされることになりました。
<たのきんトリオ>
ジャニーズ事務所最大の危機を救ったのは、のちに「たのきんトリオ」と呼ばれる少年たちでした。彼ら、田原俊彦、近藤真彦、野村義男は、歌手としてデビューするのではなく俳優としてデビューしていました。(あの「3年B組金八先生」です)実は、郷ひろみも歌手としてデビューする前にNHKの大河ドラマ「新・平家物語」でデビューしており、フォーリーブスの江木俊夫も子役としてデビューしていました。こうした、俳優としていち早くお茶も間の知名度を上げておいてから歌手デビューさせるという戦略は、ここでいよいよ大成功したわけです。「金八先生」の一大ブームに乗るように彼ら3人は歌手として次々にデビューを飾り、一気に人気アイドルとなります。
<光GENJIのブレイク>
ジャニーズ系アイドルのほとんどは、先ずダンス・グループであるジャニーズ・ジュニアのメンバーとして先輩たちのバック・ダンサーを務めるところから活動を開始します。そこで彼らは芸能界を身体で体験しながら様々なことを勉強してゆくことになります。そして、その中からジャニー喜多川が自らの判断でメンバーをピックアップしてグループを結成。彼らにデビューのチャンスを与えます。
たとえば、1987年結成の光GENJIは、ある時、ジャニー喜多川が、この中でローラー・スケートをやってみたい人はいるかい?と問いかけたのに「イエス」と答えたメンバーから生まれました。(諸星和己、山本淳一、赤坂晃、佐藤敦啓、内海光司、途中で脱退した大沢樹生、佐藤寛之)このグループは、それまでにない7人編成のグループということで、ジャニーズにとっては新たな挑戦だったといえます。その試みが成功したことは、彼らがジャニーズ系アーティスト最大のヒット曲を連発したことで証明されたといえるでしょう。時代は、この頃、ピタリとジャニーズの挑戦と一致したといえそうです。「STAR
LIGHT」、「ガラスの十代」、「パラダイス銀河」、「DIAMOND
ハリケーン」、「剣の舞」・・・彼らこそ、21世紀の音楽界を席巻する「モーニング娘」や「AKB48」などの多人数ガールズ・グループだったといえそうです。
ちなみに1995年結成のV6は、バレーボールをやるために選ばれたグループだったとか?
初期のジャニーズは、彼が念入りにメンバーを選びぬき、性格的、年齢的な組み合わせなどを考慮してグループを結成していました。そこでは同じ年齢や特徴の少年を集めるのではなく、あえて個性的にも年齢的にもバランスを考えてのメンバー構成を行っています。
ジャニー喜多川のセンスは、彼がつけるニック・ネームにも生かされています。芸名はもちろんのこと、彼はそれぞれのメンバーのニックネームまで考えているといいます。たとえば、ヨッちゃん、トシちゃん、モッくん、ヒガシ、マッチなどなど。このニックネームこそ、彼らがアイドルとしてファンから愛される最初のきっかけともいえます。恐るべき完ぺき主義です!
<SMAP>
1991年、光GENJIのバック・ダンサーからスタートしたのがSMAPです。(SMAPとは、Sports
Music Assembled Peopleのことだとか・・・)なぜ、彼らがブレイクしたのか、いつブレイクしたのか?意外にはっきりしない気がしませんか?もともと彼らはデビュー当初はぱっとしない存在でした。いきなり大ヒットを連発した光GENJIとは大違いでした。彼らもまたジャニーズにとっては異色の存在だったようです。
SMAPのブレイクは、それぞれのメンバーを歌以外の場で自由に活躍させることから始まったようです。たとえば、マスコミ向けのインタビュー番組で自由すぎる発言をすること。バラエティー番組で女装してしまうお笑いキャラの披露。キムタクの「あすなろ白書」のようにテレビドラマでの俳優としての活躍。それまでは事務所のしっかりとした管理ももとで活動していたところを、バラバラに自由に活動させることでメンバーの個性を際立たせ、メンバーそれぞれの人気を盛り上げ、それが総合されることでグループ全体の人気も必然的に上げる。この仕掛けは、今では当たり前のことですが、その最初の成功がSMAPだったのでした。
<雪だるま式のファン拡充作戦>
SMAP以後の、嵐、TOKIO、Kinki Kidsなども、当然そうした路線を踏襲しています。こうして、メンバーそれぞれのファンをつかみ、それをグループとして拡張することで、ジャニーズ全体のファン層はさらに厚みを増すことになります。そうなると新人アイドルにも早くからファンがつき、そのファンは親子で応援してくれるようになり、その中から未来のジャニーズ・メンバーが生まれるかもしれません。こうなると、ジャニーズはファンもマスコミも一つになって巨大なエンターテイメント帝国を形成することにもなるのです。
基本的にジャニー喜多川という人物は、ジャニーズを武器にしてお金儲けをしようと思っているわけではありません。そこが他のプロダクションとは大きな違いかもしれません。彼は、自らのセンスで選び育て上げたアイドルたちが一人前のエンターテナーとして活躍してくれることに大きな喜びを感じているのであって、彼らから得た利益は、次なるアイドルの発掘と育成につぎ込んできました。ある意味、これはアメリカン・エンターテイメントとは異なる方式かもしれません。彼の仕事は、他人にはマネのできない職人的な技の世界といっていいと思います。データの集積などによってカバーできるような仕事とは思えません。
彼の後継者は育てられているのでしょうか?たぶんそれはないでしょう。となれば、この後、彼がこの世を去った後、ジャニーズはどうなるのか?これがまた大いに気になるところです。
<主なアーティスト>
嵐(2000年結成:桜井翔、大野智、二宮和也、相葉雅紀、松本潤)
V6(1995年結成:坂本昌行、井ノ原快彦、長野博、森田剛、岡田准一、三宅健)
Kinki KIds(1992年結成:堂本光一、堂本剛)
SMAP(1991年結成:木村拓哉、稲垣吾郎、中居正広、香取慎吾、草薙剛)
TOKIO(1990年結成:国分太一、城島茂、松岡昌宏、山口達也、長瀬智也)(結成時は国分、城島、松岡の3名)
光GENJI(1987年結成:諸星和己、山本淳一、赤坂晃、佐藤敦啓、内海光司、途中で脱退した大沢樹生、佐藤寛之)
少年隊(1985年結成:東山紀之、錦織一清、植草克秀)
そのほか,田原俊彦、近藤真彦、野村義男、郷ひろみ、ひかる一平、シブがき隊(本木雅弘、薬丸裕英)、男闘呼組、忍者、TOKIO、関ジャニ・・・
<参考>
「不滅のアイドル王国」 2002年 (著)天馬飛呂志(発)ブックマン社
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