海を愛し続けた男の冒険物語


- ジャック=イヴ・クストー Jacque-Yves Cousteau-
<偉大なる二人のジャック>
 僕が小学生の頃、クストーが活躍する海洋冒険者のドキュメンタリー番組をよく見ていました。1960年代生まれの少年たちにとって、「冒険」といえば、兼高かおるかクストーかだった気がします。夏休みに海に行くと、特に岩場の海岸でクストー気分で海に潜っていたことを思い出します。北海道の日本海側の海は夏でも冷たかったのですが、透明度は半端なく、生物の多様性もクストーの世界そのままでした。水中眼鏡をつけて、海の底まで潜り、そこから青い空を見上げた時の美しさは今でも覚えています。
 そのイメージがあったからこそ、その後、僕は大人になってからスキューバ・ダイビングを始めることになったのかもしれません。だからこそ、僕にとっての偉大なる冒険家といえば、二人のジャック、ジャック・マイヨールとジャック=イヴ・クストーなのです。

「私は私の子供時代の夢を具現化することを欲した。私の青春の夢のすべては、家族の中の唯一の船乗りである曽祖父の航海の数々に想いをはせることにあった。私は海に生きたいと思った。だが海の上を走るだけではなくその底に執着するようになったのは・・・それはなお後年のことによる・・・」

<船と映画が好きな少年>
 ジャック=イヴ・クストー Jacque-Yves Cousteau は、1910年6月11日フランスのジロンド県サン・タンドレ・ド・キャブザクに生まれています。両親は彼を厳格な教育の学校に入れますが、彼が目標としていたのは、船乗り、映画関係の仕事、放射線学者だったといいます。(後に、これらの目標の多くが叶えられます)しかし、そんな彼の望みに対し、堅気の職につかせたいと考える両親は、彼に真面目に勉強することを望みます。そんな両親からの締め付けに嫌気がさした彼は、海軍兵学校に志願して入学。親元を離れま、士官候補生となってジャンヌ・ダルク号に乗り込むと世界一周の旅に出ます。これこそが自分の生きる道と思ったものの、帰国後、彼に与えられた軍の任務は陸の上での事務職でした。当然、彼はそんなお役所仕事に耐えられず、今度は空軍に志願します。冒険好きの彼にとって、より危険と隣り合わせのパイロットは転職だったのかもしれません。ところが、ある日彼は乗っていた戦闘機が故障してしまい、大けが負います。命は助かったものの、医師からは二度と右腕は動かせないだろうと宣告されました。この事故が彼の運命を再び大きく変えることになります。

<水中世界への旅>
 怪我が治りかけた彼はリハビリのため水泳を始めます。その過程で海でのシュノーケリングを覚えた彼は、その楽しさにはまります。そして、より長く水中世界を楽しむための機材の工夫を考え始めます。1936年、彼は同じように水中世界にはまっていたフレデリック・デュマと出会います。しかし、彼らの潜水機材の開発は第二次世界大戦が始まったことで中断を余儀なくされます。彼は海軍士官としてドイツの戦艦を攻撃するため潜水艦に乗り込みますが、海軍が活躍する間もなくフランスはドイツに占領されてしまいます。
 クストーは、幸いにして捕虜となることもなく、フランス南部の港町トゥーロンで軍の生物学研究を名目に潜水装置の開発を続けます。その街で知り合った液体空気の専門家ユージュヌ・ガニャンの協力も得て、1942年、ついにアクアラング aqualung の開発に成功します。そして、友人のデュマと3人で圧縮した空気をボンベに入れた呼吸器を使い潜水実験を行い始めます。この時、デュマはダイバーとして、試作用のアクアラングを使用して62mの深さまで潜ることに成功します。
 さらにクストーは、自分が使っていたライカのカメラを改造して、水中で使用できる撮影機材を開発し、水中での撮影を行い始めます。こうして、最初の短編映画「海底18メートルで」を完成させました。さらに自らが水深50mまで潜り、短編映画「難破船」を撮っています。数多くの水中ドキュメンタリー映画を撮り、映画界にも大きな影響を与えることになるクストーは、潜水機材の開発と同時に水中撮影機材の開発にも当初から力を入れていたわけです。

<水中探索とトラブル>
 第二次世界大戦が終わると、クストーは海軍に所属しながら海底に残された機雷処理を行いながら、さらなる研究を続けます。そして、62m以上潜った時に起こる異常に気づきます。
「私は至福と苦痛との奇妙な感情を味わった。非常に早く、私は酔い心地となり、耳鳴りがしてきた。私は千鳥足の酔っ払いのように海の中を揺れ動いた」
 これはたぶん窒素酔いというやつで、多くのダイバーがこれで命を落としています。一歩まちがえばクストーもこの時期に命を落としていた可能性もあったといえます。この後、酸素にヘリウムを混ぜたものを用いることで、窒素酔いの危険は緩和されることになります。それでも、そうした潜水病の危険に対し、クストーは訓練をつみ経験を増やすことで対応できると考えていたようです。
 1947年、彼はアクアラングの能力を世界に示すため、世界各国の新聞社を招いて、潜水の世界記録に挑む公開チャレンジを行います。当日、彼は自ら90mにまで潜り、さらにファルガという青年に120mへの潜水に挑戦させます。ところが、合図のために結んでいたロープからの信号が突然途絶えてしまいます。あわてたスタッフは急いでファルガを引き揚げますが、それが逆に彼を潜水病の危機に追い込んでしまいます。当時、海軍では潜水病の危険さが明らかになり、浮上のための時間管理を記した時間表も作られていたので、クストーの責任は重大でした。
 クストーはこの事故を機に海軍に休暇願いを出し、それまでに彼が撮った短編映画を様々な場所で公開。それらの作品が驚きをもって迎えられたことで、彼は再び海に戻る決意を固めます。海軍を正式にやめた彼は自らの財産だけでなく、妻や両親の財産もすべてつぎ込んで中古の作業船を購入し、それを改造してカリプソ号と名付けます。いよいよ彼はフリーの冒険家として海の中へと潜ることになります。

<沈黙の世界へ>
 1951年1月、カリプソ号は紅海に向かって出発。地中海を航行しながら撮影した短編映画「暗礁のまわりで」、「沈黙の光景」などは映画館でも公開され、同時に彼が書いた著作「沈黙の世界」はアメリカでベストセラーとなります。こうして、彼は様々な形で収入を得られるようになりますが、その収入はそのまま次なる冒険や新しい機材のために用いられることになります。
 1954年、カリプソ号は地中海から紅海をへてインド洋へと向かう長い航海へと出発します。この長い航海に彼は、これまでの集大成となるドキュメンタリー映画を撮影するため、新たに二人のプロのカメラマンを同行させます。一人は、映画界ですでに働いていた30歳のジャック・エルトー、もう一人は当時まだ弱冠22歳のルイ・マルでした。彼は当時まだパリの高等映画研究所を出たばかりでした。大実業家の御曹司でもあった彼は、その後3年間に渡りクストーと行動を共にし、世界中の海底の映像をフィルムに収めることになります。
 航海中のある日、カリプソ号のスクリューに小さなクジラがぶつかり大けがをする事故が起きました。クジラはそのまま船にひっかかった状態になり、そのクジラの血の臭いを嗅いだ周囲サメたちが集まり、クジラへの攻撃を始めました。この危険な状況の中、ルイ・マルは自ら鉄のかごに入り、水中での撮影を敢行します。こうしたそれまで撮られてこなかった映像の数々を収めたフィルムを編集し、1956年長編ドキュメンタリー映画「沈黙の世界」が完成しました。この作品はドキュメンタリー映画としては異例のカンヌ国際映画祭グランプリを受賞します。この映画の共同監督となったルイ・マルはこの後、映画監督としてフランスを代表する存在となって行きます。

<さらなる水中への挑戦>
 映画「沈国の世界」の大ヒットにより、資金的にも余裕ができたクストーですが、彼にはやりたいことがまだまだありました。稼いだお金は、すべて次の研究・開発費につぎ込み、そこから水中基地の開発が始まります。1957年にソ連が世界初の人工衛星打ち上げに成功し、米ソによる宇宙競争が激化していましたが、彼は宇宙の前に海こそ、未開拓の貴重な場所であるという思いがありました。

「どうして人類はこんなにも早く、月に向かうことばかり心を奪われているのだろうか?」
「我々の傍にはなお全く神秘的にして未知の世界が存在するのではないか?世界の初め以来、多くの船が海の上を走ったが、だれでも真に海の下に起こっていることに関心を寄せたことがなかった。私は海底の神秘に惹かれる。一瞬も神秘について思いをはせることなく科学について考える学者たちなど、私には無縁なのだ」


 1962年、彼はマルセーユの海底に研究用の住居を作り、そこで5人の男たちを30日間生活する実験を行います。
 1963年、さらなる深さでの実験を行うため、紅海に浮かぶ島から52m下の海中に実験室を設置。そこで一か月にわたる研究を行います。そこを基地として、300mの深海にカメラを降ろして撮影を行いました。光の届かない深海世界を映像は、再び世界を驚かせます。この映像から次の長編ドキュメンタリー映画「太陽のとどかぬ世界」が生まれました。
 前作「沈黙の世界」に比べると、太陽の光が届かない深海が舞台ということもあり、撮影現場の苦労話的な地味な内容の作品でした。しかし、そのために彼は深海用のカメラを開発してとらえた映像は、アポロの月着陸船から送られてきた月面の映像に匹敵する価値がありました。(撮影は、ピエール・グーピル)その苦労が認められ、この映画はアカデミー賞で長編ドキュメンタリー部門の最優秀作品に選ばれます。
 この後も、彼は映画などで得た収入をすべて水中探索のために費やし続けます。しかし、海の中を研究し続ける中で、海洋汚染の深刻さに気付いた彼は、しだいにその活動の方向を海の環境保全活動へと向けてゆきます。特にフランスの南太平洋での核実験再開には強く反対しました。
 1997年6月25日にこの世を去るまで「海の恋人」と呼ばれ続けます。僕も含めた1960~70年代に子供時代を過ごした日本人にとって、「驚異の世界」など海洋冒険もののドキュメンタリー番組の影響は非常に大きいものがあります。「世界で最も愛されたフランス人」と呼ばれていたのは、少なくとも日本では間違いない事実だと思います。 

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