「カブールの燕たち Les Hirondelles de Kaboul」

- ヤスミナ・カドラ Yasmina Khadra -

<アフガニスタンで何が起きていたのか?>
 1990年代後半にアフガニスタンで起きていた悲劇をリアルに描いた実録小説です。恐ろしい社会を描いた物語は、読んでいて気分がいいものではありません。はっきりいって、これほど気がめいる作品も珍しいかもしれません。でも、眼を背けながらも、なぜか登場人物たちの未来を信じて読み進んでしまいました。どんなに暗い社会でもそこで生きる人々にとっては、そうして未来を信じて生きるしかないのかもしれません。重くても、ずっしりと読み応えのある作品ですから、あなたも是非挑んでみてください。
 まずは、当時のアフガニスタンについて、少しだけ勉強しておいた方がよいでしょう。

<タリバン支配のカブール>
 1996年、イスラム原理主義の神学生を中心とする組織、タリバンがアフガニスタンの首都カブールを支配下におきました。その後、イスラム原理主義に基づくタリバンは、カブール市民に対し過激なまでに厳しいイスラム法を発表し、それに従うことを強制します。内容的には、こんなものがありました。
・男はアゴひげを生やさなければならない。
・医師など特定の職業以外女性の労働は禁止。
・女子校の閉鎖。
・女性の外出時は全身を覆うチャドリを着用する。
・凧揚げ禁止。(天への冒頭だからだそうです)
・サッカー・テレビ・音楽などあらゆる娯楽の禁止。
・・・・・・・・・・etc.

「歌が聴きたいんだ。どんなに聴きたいか、おまえにはわからないだろう。ちゃんと音楽の感じられる歌、全身が震えるような声を。いつかラジオをつけたら、またオーケストラが編成されていて、思う存分聴けるだろうか?」
「神のみぞ知るだ」


 こうして、ブラッドベリの「華氏451」やオーウェルの「1984年」などのディストピア小説で描かれていた世界をも上回る恐ろしい管理社会が20世紀の終わりになって誕生することになりました。
 街中で笑い声をあげただけで宗教警察につかまり、それに反抗すれば暴力を加えられる。そんな社会が実在するとは・・・!そして、すべての娯楽が禁じられたその街で唯一人々が熱狂することが許されていたのが、犯罪者に対する公開処刑でした。それも、単に処刑を歓声をあげて見守るのではありません。聖書にもあるように、人々が自らの手に石を持って投げつけ、処刑するのです。もし、自分がその時代、カブールに生まれていたら・・・そう考えると恐ろしくなってきます。自分なら正気を保てないし、自殺してしまうのではないか?そんなことを考えずにはいられません。どんなディストピア小説よりも恐ろしい世界が今でも地球上に実在しているのです。(2012年時点なら、シリアがまさにそうなっています)

<謎だった著者の正体>
 いったいどんな人物がこの小説を書いたのか?これもまた気になるところです。なぜ、そうした状況を詳細に知り、なおかつそれを作品として発表することができたのか?イギリスに住んでいながら処刑指令を出され、地下生活を余儀なくされている作家サルマン・ラシュディーのことを考えれば、著者がアフガニスタンに住んでいられるとは思えません。
 本書の著者はヤスミナ・カドラといい、アルジェリアに1955年生まれたとされていました。それは女性の名前です。ところが、それが本名ではないことが後に明らかになります。(ペンネームだから、問題ないのですが・・・)その著者の実名は、ムハマド・ムルセフールといい、「ヤスミナ」はその人物の妻の名前でした。
 彼が作家としてデビューしたのは、1984年のこと。(オーウェルの「1984年」と同じ年・・・)アルジェリアで発表されていたその小説が評判となり、地中海を越えてフランスに渡ったのが1997年のことでした。そのデビュー作「Morituri(死にゆく者たち)」は、基本的にはミステリー小説ですが、そこではアルジェリアの政財界についての内幕が暴露され、イスラム原理主義者たちも批判の対象になっていました。結局、この作品はミステリー小説として高く評価され、フランスのミステリー文学賞「トロフェ813」の最優秀賞を受賞しました。しかし、その時、授賞式に本人は現れず、ヤスミナは謎の作家としてさらに注目されることになりました。

 2001年、ヤスミナは自伝を発表。そこで彼は自分が男性であり、アルジェリア軍の上級将校だったことを明らかにしました。もちろん、その自伝を発表した時、すでに彼は軍を退職しており、家族とともにフランスへ移住していました。それでも、アルジェリアという国はイスラム圏の中でもまだフランスに近く、アフガニスタンやイランほどイスラム原理主義が勢力をもっているわけではないので、亡命程度ですんでいるのかもしれません。

<リアルな混沌の街>
 イスラム圏の軍人とはいえ、彼がアフガニスタンについてそう詳しいとは思えません。にも関わらず、彼のカブールの街の描写は実にリアルに感じられます。それはやはりイスラム原理主義の怖さとイスラムの人々の生き方については、彼の方が我々よりもはるかに詳しいのでしょう。でも彼の文章が実にリアルに感じられるのは、単に現実をそのまま描写しているのではなく、まるで詩人のように言葉を選び、その残虐さを美しく描写している点にあるのかもしれません。そんな彼の文章力を象徴しているのが、この作品の冒頭部分です。

 雨という奇跡、春という夢幻を信じる者はだれもいない。ましてや穏やかな明日の黎明など考えられない。人々は狂気に走っている。昼に背を向け、夜に向き合っている。守護聖人たちは任を解かれた。預言者たちは死に、彼らの亡霊は子供たちの額に磔にされている・・・・・。
 だがそれでも、よどんだ沼に睡蓮が花開くように、石ころだらけの土壌の沈黙と夢の静寂のなか、渇いた土地と干からびた心に囲まれたこの地で、この物語は生まれた。


 主人公のひとりがまるで何かにとりつかれたかのように引き寄せられていった公開処刑。まさか誰でも石を持って処刑者になれるとは・・・!なんという恐るべき社会でしょう。こうして誰もが加害者となり、殺された者たちから恨みをかうことで、それが終わりなき恨みのサイクルを生み出してゆくことになるのです。

「アラーフ・アクバル!(アラーは偉大なり!)」
群集席のほうから叫び声が上がる。
 ムラーは厳かに手を上げて叫び声を制した。彼はコーランの一節を朗誦してから判決文らしきものを読み上げ、ベストの内ポケットに紙片を戻すと、短い黙想のあとで、石を取るように群衆を促した。これが合図となった。なんとも形容しがたい人波が、数時間前のこのために広場に置かれた石ころに飛びついた。たちまち、石の雨が死刑囚に降り注ぐ。猿ぐつわをされた女は悲鳴ひとつ上げず、襲いかかる衝撃に震えている。・・・・・


 残虐という表現ではおさまりきらない恐ろしさを感じるのは、その「暴力」がヤクザによるものでもなく、軍隊によるものでもなく、ついさっきまで通りを歩いていた一般市民によるものだからかもしれません。そして、そんな市民を煽るのがタリバンの若者たちと彼らによって選ばれた宗教指導者たちです。彼らの講話(演説、アジテーション)の力強さにもまた読んでいて圧倒されます。その上、彼らが語っていることが真実なのかもしれないと思えるのも事実です。

「西洋は滅びた。もう存在しない。西洋が愚かな者たちに示した手本とやらは道を誤った。その手本とは何か?西洋が解放、近代性とみなしているものは、正確に何なのか?西洋が足しを踏み入れた道徳観念のない社会、利益が第一とされ、良心の呵責、信仰心、隣人愛は無駄とみなされ、価値といえば金銭上のことに限られ、金持ちは暴君に、給与生活者は奴隷になり、企業が家族に取って代わって、個人を孤立させて従わせ、いきなり解雇する、女は悪徳に染まった地位を楽しみ、男同士が結婚し、体が公然と売り買いされてもだれも動じない、全世代が落伍者と貧困化からなる原始的な生活に封じ込められている、そんな社会なのか?そんなものが、西洋が誇り、その成功とみなしている手本なのか?いや、善良な信者たちよ、流砂の上に建物は築けない。西洋は偽りの世界だ。・・・・・」

 あまりにも救いのない展開のため、読者はこれでは何かの救いが訪れるなどありえない・ただただ救いのない悲劇が続くだけではないか。途中でそう思ってしまうかもしれません。しかし、そんな地獄のような街カブールでも奇跡は起こりつつある。この小説はそんな奇跡の物語をけっしてインチキ臭くなくリアリティーをもって構築してみせてくれます。もちろん、その奇跡がハッピーエンドにつながるとはかぎりませんが、そこに本物の「愛」が生まれたことだけは確かです。

「・・・ここじゃなくてほかの土地だったら、あなたの混乱ぶりを見て、町じゅうの人は優しい気持ちになるはずよ。でもカブールはこんなふうな混乱をあまり理解しない。それはカブールがそういうものを捨てたからよ。だから何をやってもうまくいかないの。喜びも、苦しみも・・・。
 アティク、愛してるわ。あなたは祝福されてる。自分の心の声を聞きなさい。心の声だけがあなた自身のことを話してくれるわ。真実を握っているのは心だけよ。どんな理屈も心も言い分には負ける。自分の心を信じなさい。心に導いてもらうのよ。そして絶対に怖がっちゃだめ。今夜のあなたはほかでもなく、人を愛している男なのだから・・・」


<あらすじ>
 アティク・シャウカトは、公開処刑される女性囚人専用の拘置所の看守をしています。友人が力のある軍人だったこともあり、その職を得ることができたものの、彼には大きな悩みがありました。妻のムサラトが病に苦しんでいるのに医者に見放され、何もできずにいたからです。彼女は、かつて彼が戦争で死にかけていた時、彼の看病をしてくれた恩人だっただけに、彼はつらい思いをしていました。友人たちは、さっさと離縁してしまえばいいと言いますが、彼にはそんなことはできませんでした。
 同じ頃、もうひと組の夫婦にも苦難の時が訪れていました。インテリで、ブルジョア階級出身の青年モフセンは、戦乱の中で財産をすべて失い、職もなくふらふらと街を歩いている途中、石による公開処刑の場に遭遇します。一般市民が石を持ち、女性犯罪者に迫る姿に恐怖を感じた彼ですが、いつのまにか彼もまたそうした群集たちの「怒り」に飲み込まれ、自ら石を手にとっていました。家にもどった彼はかつては女性解放運動の中心人物だった元司法官の妻ズナイラにそのことを打ち明けます。まるで拘束衣のようなチャドリを着ることを嫌う彼女は、家から出ずにいましたが、精神的に危機的状況の夫を見て、久しぶりに街に散歩に出ることにします。
 しかし、この散歩中にまた事件が起き、夫婦の関係はいっきに崩壊してしまいます。そすいてズナイラは夫婦喧嘩の末に夫を押し倒し、そのために死んでしまいます。こうして死刑囚となった彼女は、看守のアティクと拘置所で出会うことになります。そして、そこで二人の間に不思議な関係が・・・。

<今も続く悲劇>
 あまりに悲劇的な物語ですが、こうした状況は架空のものではなく今もイスラム圏の国々の多くで実際に起きている可能性があります。しかし、そうした救いのない物語にも関わらず、この小説は読むものを最後までひきつけます。そこには、かすかではあっても確かに「救い」が存在しているように思えるからです。

「あなたが今体験していることこそ、人生に価値を与えてくれるものなのよ。愛しているときは、野獣でも神々しくなるものよ」

 どんなに現実をリアルに描いていても、その文章に「救い」がなければ、著者にとっても、読者にとっても、それは不幸の追体験にしかなりません。同じ不幸を背負う人を増やすことにもなりかねないのです。かつて「冷血」というノンフィクション・ノベルの傑作を書き上げたトルーマン・カポーティがその作品の「闇」に飲み込まれたかのように作品をかけなくなってしまったのは有名な話です。
 この作品からは、雲間にのぞく青空のような「救い」が垣間見える気がします。もちろん、この小説にハッピーエンドなどありませんが、それでもなお「希望」を見出せることが救いとなっています。ただ、この小説をカブールの人々が読めるわけではなく、多くのイスラム諸国ではこの本が出版される可能性すらないのが現実です。
 21世紀イスラム諸国は西欧との対立を強めながら、さらなる宗教的厳格化を強めることになるのでしょうか?それとも、「アラブの春」がイスラム諸国全体を変えてゆくのか?そこには、未来の地球の運命を左右する重要な分かれ道が存在しているように思います。

「カブールの燕たち Les Hirondelles de Kaboul」 2002年
(著)ヤスミナ・カドラ Yasmina Khadra
(訳)香川由利子
早川書房

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