角川春樹の挑戦
- 1980年代日本映画界の革命児 -
<角川映画への愛憎>
 思えば、高校時代は角川春樹氏の仕掛けにすっかりはまっていました。彼が始めた角川の文芸誌「野生時代」が大好きで、森村誠一、つかこうへい、片岡義男、横溝正史、高木彬光などから、僕は日本の小説を読み始めましたともいえます。(それまでは、洋画の原作本や推理小説を読んでいました)今でも、当時買った「野生時代」や「バラエティ」(創刊号)はとってあります。当然、「犬神家の一族」から始まった角川映画も結構見ています。ただし、元々映画のファンだったこともあり、「人間の証明」を見た頃からは、「宣伝の派手さの割に中身がこれじゃなあ?」と不満を感じるようになったのも早かった気がします。
 角川への愛が、映画界を駄目にする戦略への憎しみへと変わっていったのも早かった気がします。でも、もし、あの時代に角川映画が登場していなかったら・・・そう考えると、1980年代の映画界は本当に淋しいものになっていたし、現在活躍する多くの監督たちも、登場のチャンスを失っていたかもしれません。
 芸術的視点からは、ほとんど語られることのなかった角川映画は映画界に何を残したのでしょうか?1970年代から1990年代にかけての角川映画を振り返りながら、もう一度評価し直してみようと思います。

<出版界での活躍>
 角川春樹の挑戦は、あの大ヒット作「ある愛の詩」から始まりました。1970年2月にアメリカで出版され大ヒットしていた小説「ラブ・ストーリー」を読んだ角川春樹は、自らその本を翻訳(ペン・ネームは板倉章)します。その間にも「ラブ・ストーリー」は映画化されて大ヒット、日本でも「ある愛の詩」として大ヒット。その影響で原作の小説も100万部をこえる大ベストセラーとなりました。これが彼のメディア・ミックス最初の成功体験となりました。
 1971年、出版大手の講談社が文庫本市場に参入。それに対して、角川書店は文庫本表紙のカラー印刷化を実施し、文庫本リストの充実を目指します。そこで彼は角川書店のもつ版権のリストから文庫化可能な作品のリストアップを行いました。こうして始まった新戦略の中には、新人作家の発掘と作者の囲い込みのための文芸誌「野生時代」(1974年)の創刊がありました。
 その後、彼がプッシュすることで活躍の場を広げた作家としては、横溝正史、小松左京、高木彬光、大藪信彦、眉村卓、山田風太郎、片岡義男、森村誠一、つかこうへい、半村良、平井和正、西村寿行、夏木静子、阿佐田哲也、赤川次郎、栗本薫、北方謙三がいます。
 1975年、角川春樹は父親の死により、角川書店の社長に就任します。

<映画界への進出>
「犬神家の一族」(監)市川崑(原)横溝正史(出)石坂浩二、高峰三枝子、あおい輝彦
 1976年、彼は角川春樹事務所を立ち上げ、映画の製作に乗り出します。それは次なるメディア・ミックス戦略への第一歩でした。こうして誕生したのが、様々な面で日本映画史に大きな影響を与えることになった大ヒット作「犬神家の一族」です。
 この時に使われたキャッチコピー「読んでから見るか 見てから読むか」は流行語となりましたが、そこには彼の目指す戦略が見事に表現されていました。それまでなかったテレビでの大々的なCMにより、この映画の知名度が高まると同時に原作小説も売れに売れたのです。日比谷映画での先行ロードショーの観客数は、一週間で5万6335人となり、一週間の入場者数の世界記録を作りました。最終的にも、映画の製作費が2億2千万円だったのに対し、この映画の配給収入は15億6千万円を越える大ヒットとなりました。作品に対する映画界での評価も高く、キネマ旬報社の年間ベストテンでは、評論家の投票で5位となり、読者投票では1位に輝いています。

「人間の証明」(監)佐藤純弥(原)森村誠一(出)松田優作、三船敏郎、岡田茉利子
 1977年、「人間の証明」は日本映画界初の本格的な海外ロケ作品となりました。俳優、スタッフに現地のアメリカ人を雇い、ニューヨークの街中で撮影を行いました。
 さらにこの作品では、西條八十の詩をもとにしたオリジナルの主題歌が作られ、俳優として出演もしているジョー山中が歌いました。その曲「人間の証明のテーマ」は、51万7千万枚を売り上げる大ヒットとなりました。もし、この時、ジョー山中が大麻取締法違反により逮捕されず、テレビやラジオに出演できていたら、この曲は100万枚を超えるヒットになったかもしれません。
 この作品もまた22億円の配給収入となり、キネマ旬報での評価は評論家が50位と不評、読者投票で8位でした。
  
月刊誌「バラエティ」創刊
 1977年8月月刊誌「バラエティ」を創刊します。その内容は、角川映画の広報誌的なものでした。ただし、その後は角川映画のアイドル女優たちのファン雑誌的なものに変化してゆくことになります。

「野生の証明」(監)佐藤純弥(原)森村誠一(出)高倉健、薬師丸ひろ子
 1978年、「野生の証明」は初めて高倉健という当時の大スターを主役に起用。彼と共演する女優には、あえて新人の薬師丸ひろ子を抜擢しました。この時、オーディションで彼女を強引に選んだのは、製作者の角川で、この映画への適正ではなく今後の将来性で選んだといいます。彼女のその後の活躍を見れば、彼の選択は間違っていなかったといえそうです。
 この作品の配給収入は21億5千万円。キネマ旬報での評価では、評論家が40位、読者投票が7位でした。

1979年
作品名 スタッフ・出演者  配給収入 キネマ旬報ランキング
評論家投票・読者投票
 
コメント
「悪魔が来りて笛を吹く」 (監)斉藤光正(原)横溝正史(出)西田敏行   7億3000万円    金田一探偵を西田敏行に変更(常に変更)
「白昼の死角」  (監)村川透(原)高木彬光(出)夏八木勲   6億1000万円    実際にあった東大生による詐欺事件がモデル
「蘇る金狼」  (監)村川透(原)大藪晴彦(出)松田優作、風吹ジュン  10億4200万円  (評)38位(読)8位 松田優作こだわりの作品
「戦国自衛隊」 (監)斉藤光正(原)半村良(出)千葉真一、夏八木勲  13億5200万円   その後何度もリメイクされたタイムスリップ・戦争SF

「復活の日」(監)深作欣二(原)小松左京(出)草刈正雄、オリビア・ハッセー、ジョージ・ケネディ、グレン・フォード
 1980年、「復活の日」は22億円の製作費の内、8億円をTBSテレビが出資した、日本初のテレビ局との提携作品でした。さらにこの映画では、世界で初めて南極でのロケが行われ、世界的な話題作となりました。それに合わせて、多くのハリウッド俳優も出演。スケールの大きな世界破滅型SFの大作となりました。
 しかし、映画の評価はいまひとつで、配給収入が23億9500万円となるものの、利益はごくわずか。キネマ旬報での評価では、評論家が19位、読者投票が4位でした。

1980年
「野獣死すべし」 (監)村川透(原)大藪信彦(出)松田優作、小林麻美   7億3000万円  (評)24位(読)6位  大藪信彦によるハードボイルド小説の代表作
1981年
「スローなブギにしてくれ」 (監)藤田敏八(原)片岡義男(出)浅野温子、古尾谷雅人   3億8500万円  (評)11位  片岡義男は「野生時代」でデビューしたまさに「角川作家」、浅野温子初ヒロイン作
「魔界転生」 (監)深作欣二(原)山田風太郎(出)沢田研二、千葉真一  10億1000万円  (評)31位(読)10位 史実を無視した歴史ファンタジー・アクションの先駆作 
「ねらわれた学園」 (監)大林宣彦(原)眉村卓(出)薬師丸ひろ子、高柳良一  12億6700万円  (評)38位 薬師丸ひろ子がブレイク!
主題歌の「守ってあげたい」は69万枚の大ヒット。
ここからユーミン黄金時代が始まることになります。
「悪霊島」 (監)篠田正浩(原)横溝正史(出)鹿賀丈史、岩下志麻   9億3000万円   石坂浩二、古谷一行、西田敏行に続く新・金田一
「蔵の中」 (監)高林陽一(原)横溝正史(出)松原留美子    主演女優にニューハーフを採用!
「セーラー服と機関銃」 (監)相米慎二(原)赤川次郎(出)薬師丸ひろ子、渡瀬恒彦  22億8000万円  (評)18位  「快感!」の名セリフと共に薬師丸人気ピークに! 
1982年
「蒲田行進曲」 (監)深作欣二(原)つかこうへい(出)風間杜夫、平田満、松坂慶子 17億6300万円 (評)1位(読)1位 東映京都で撮影した松竹映画(角川だからできた)
角川映画で最も映画ファンに受けた作品 
「この子の七つのお祝いに」 (監)増村保造(出)岩下志麻、根津甚八     
「汚れた英雄」 (監)角川春樹(原)大藪晴彦 
15億2500万円 
  角川春樹初監督作品
「伊賀忍法帖」 (監)斉藤光正(原)山田風太郎(出)渡辺典子、真田広之   渡辺典子のデビュー作。真田広之のブレイク作
1983年
「幻魔大戦」(アニメ) (監)りんたろう(原)平井和正、石森章太郎 10億5900万円   大友克洋によるキャラクターデザイン
いち早くアニメ映画に進出!
「探偵物語」 (監)根岸吉太郎(原)赤川次郎(出)薬師丸ひろ子、松田優作 28億400万円  (評)25位(読)10位 根岸吉太郎を監督に起用
「時をかける少女」 (監)大林宣彦(原)筒井康隆(出)原田知世、高柳良一  (評)15位(読)3位 原田知世のデビュー作
「里見八犬伝」 (監)深作欣二(原)鎌田敏夫(出)薬師丸ひろ子、真田広之、千葉真一 23億2000万円     
1984年
「晴れ、ときどき殺人」 (監)井筒和幸(原)赤川次郎(出)渡辺典子、太川陽介  3億9000万円  井筒和幸を監督に起用
「湯殿山麓呪い村」 (監)池田敏春(原)赤川次郎(出)永島敏行    
「メイン・テーマ」 (監)森田芳光(原)片岡義男(出)薬師丸ひろ子、野村宏伸 
18億5500万円 
 
「愛情物語」 (監)角川春樹(原)赤川次郎(出)原田知世、倍賞美津子     
「麻雀放浪記」 (監)和田誠(原)阿佐田哲也(出)真田広之、鹿賀丈史 5億1000万円  (評)4位(読)3位 和田誠初監督作品!
「いつか誰かが殺される」 (監)崔洋一(原)赤川次郎(出)渡辺典子、古尾谷雅人     
「Wの悲劇」 (監)澤井信一郎(原)夏木静子(出)薬師丸ひろ子、世良公則、三田佳子 
15億4200万円 
(評)2位(読)2位 原作を大幅に変更したことが成功
「天国にいちばん近い島」 (監)大林宣彦(原)森村桂(出)原田知世、高柳良一    
1985年
「早春物語」 (監)澤井信一郎(原)赤川次郎(出)原田知世、林隆三 
12億5000万円 
 
「2代目はクリスチャン」 (監)井筒和彦(原)つかこうへい(出)志穂美悦子、岩城滉一     
「友よ、静かに瞑れ」 (監)崔洋一(原)北方謙三(出)藤竜也、原田芳雄、倍賞美津子 1億3500万円 (評)14位   
1986年
「キャバレー」 (監)角川春樹(原)栗本薫(出)野村宏伸、鹿賀丈史  9億5000万円  (評)30位 映画「コットンクラブ」の日本版を作りたかったとか
「彼のオートバイ、彼女の島」 (監)大林宣彦(原)片岡義男(出)原田貴和子、竹内力  (評)24位 原田貴和子のデビュー作!
1988年
「花のあすか組!」 (監)崔洋一(原)高口里純(出)つみきみほ、武田久美子       
「ぼくらの七日間戦争」 (監)菅原比呂志(原)宗田理(出)宮沢りえ      宮沢りえのデビュー作!
1988年
「天と地と」 (監)角川春樹(原)海音寺潮五郎(出)榎木孝明、津川雅彦  51億5000万円   
1993年
「REX 恐竜物語」 (監)角川春樹(原)畑正憲(出)安達裕実、渡瀬恒彦 22~25億円    恐竜ブームに乗る!

1993年8月29日角川春樹はコカイン密輸の疑いで逮捕されます。
これにより、彼は角川書店の社長を辞任し、すべてを失うことになりました。しかし、角川映画は彼が去った後も活動を続け、数こそ多くはないものの、数々のヒット作を生み出し続けています。
「失楽園」(1997年)
「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」(1997年)
「不夜城」(1998年)
「金融腐蝕列島 呪縛」(1999年)
「沈まぬ太陽」(2009年)

 角川映画の基本路線は、原作本は角川書店で出版している中から選び、映画と共にその本もベストセラーにすことにありました。そのためには、原作者と主演俳優を共にお抱えのスターにしたい。それにより、映画と本以外にも、テレビ、音楽ソフト、アイドル誌、グッズ販売など様々な分野で収益をあげることが可能になる。そう考えられたわけです。ただし、そうなるためには、作品が大衆受けする作品でなければなりません。
 かつて映画の黄金時代、大映は海外の映画祭で賞を獲るため大物監督たちに芸術性の高い映画を撮らせ、ヒットを求めませんでした。しかし、時代は変わり、斜陽産業となった映画界は異なるビジネスモデルを求めていました。そのためには映画だけの収益ではなくプラスαが必要と考えたのが、たまたま映画オタクの出版社社長だったわけです。
 彼は多くの作品を世に送り出すために、多くの新人監督に活躍の場を与えました。ディレクターズ・カンパニーのメンバーでも、井筒和幸、池田敏春、相米慎二、根岸吉太郎がチャンスを得ています。
 彼は製作者として、大衆受けする作品だけではなく、私的な好みに基づく作品を作ることもしています。ついには自ら監督をするようになったのも当然だったといえます。そうなると、彼もまたヒットするかどうかは関係ないと考える場合もあったようです。

「・・・あの映画は実は「角川映画」ではなく、「角川春樹映画」なんです。製作費の振込人は角川書店でも角川春樹事務所でもなく、春樹さん個人の名義でした。
 それで僕は理解しました。この映画は、僕と春樹さんという二人の足長おじさん - というのはおこがましいので「胴長おじさん」 - が原田知世にプレゼントする映画なんだ、そういうプライベート・フィルムなんだと。だから、角川春樹ひとりが観てくれれば、それでいい。観客動員なんて関係ない。」

大林宣彦(「時をかける少女」について語った言葉

 しかし、そうした映画への熱い思いが理解されることは少なかったのも現実でした。たとえば、1980年に黒澤明監督作品「影武者」のプレミアショーの時の事です。プレミアショーに招待されていた角川春樹が、上映の後で、黒澤監督に握手を求めようとして無視されるという事件がありました。黒澤監督に憧れていた彼にとって、それは衝撃的な事件だったでしょう。映画界では、マスコミも含めて、角川映画へのバッシングが常識になっていました。大人げない対応をした黒澤監督もまた、日本国内で製作資金を集めることができなかっただけに、娯楽映画に巨額の資金を投じる角川映画のやり方に反発を覚えるのもしかたなかったかもしれません。

 角川春樹の仕事は何を残したのか?
(1)映画界に新たなビジネス・モデルを持ち込んだこと。(本、映画、テレビなどのメディア・ミックス)
(2)アイドル女優の育成によるスターシステムの復活
(3)B級プログラム・ピクチャーの復活(新人監督の登用)
(4)ハリウッド映画への挑戦(「人間の証明」、「復活の日」)
(5)巨費を投じた広告戦略(テレビとのタイアップ、自社系情報誌の立ち上げ)
 その多くは、映画界だけでなく他の業界人にとって領海侵犯的なものだったため、批判的にとられるのも当然でしたが、実際に角川春樹と仕事で関わった人々にとっては、最強のパートナーだったかもしれません。

<参考>
「角川映画 1976 - 1986 日本を変えた10年」
 2014年
(著)中川右介
KADOKAWA

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