核兵器の非合法化が現実となった日 |
<世界が変わった日となるのか?>
2017年7月7日は、歴史的に重要な日となりました。しかし、そのことは日本ではそれほど話題にはならなかった気がします。この日が、100年後になって「あの日歴史が変わった」と言われることになるのか?それは定かではないし、実現するかも疑問です。もしかすると、その頃、人類文明は崩壊の危機にあり、「核兵器が禁止されていた」なんて誰も知らないかもしれません。
この日「核兵器禁止条約」がニューヨークの国連本部で採択されました。それが本当に世界を変える力を発揮できるのか?それは先ず、どれだけの国が9月20日から始まる署名に参加するかにもかかっています。
そして、アメリカ、ロシア、中国、北朝鮮などの国々が、いつかこの核兵器の非合法化に賛成し、核兵器を廃棄することになるのか?
現段階ではまったく想像もできないことが現実となるかどうかにかかっています。それでも、どんなお伽噺も、「想像」するところからでないと始まらないし、すべての奇跡は誰かが「想像」するところから始まって来ました。
ジョン・レノンが歌っていたように「イマジン」こそがすべての始まりなのもまた事実です。
<核兵器禁止条約>(要旨)
一、核兵器の使用により引き起こされる破局的な人道上の結末を深く懸念し、核兵器が二度と使われないようにするためには、全廃こそ唯一の方法と認識する。
一、核軍縮は倫理的責務で、緊急に「核兵器なき世界」を達成しなければならないと認識する。
一、核兵器使用による被害者(ヒバクシャ)、核実験に影響された人々の受け入れ難い苦しみと危害に留意する。
一、いかなる核兵器の使用も武力紛争に適用される国際法の規則、人道法の原則に反していることを考慮する。
一、核軍縮の遅い歩みに加え、核兵器への継続的な依存を懸念する。
一、核拡散防止条約(NPT)は核軍縮と不拡散体制の礎石として機能している。
一、平和、軍縮という教育を普及させ、現代および将来の世代に核兵器の危険性を再認識させる。
一、核兵器廃絶という目標達成に向けたヒバクシャの努力を認識する。
一、核兵器の開発や実験、製造、保有、貯蔵を禁止する。
一、直接、間接を問わず、核兵器の移譲を禁止する。
一、核兵器の使用や使用するとの威嚇を禁止する。
一、核開発や核実験などの活動に援助したり、勧誘したりすることを禁止する。
一、被爆者や核実験で悪影響を受けた個人への医療ケア、リハビリ、心理的な支援を十分に提供する。
一、条約の締約国は核兵器の実験や使用により自国が汚染された場合、環境改善に向けた支援を要請できる。
一、条約発効から1年以内に国連事務総長が第1回締約国会議を招集し、その後は2年ごとに会議を開く。
一、事務総長は発効から5年後に条約の再検討会議を招集し、その後は6年ごとに開く。
一、締約国でもない国もオブザーバーとして締約国会議、再検討会議に出席できる。
一、今年9月20日にニューヨークの国連本部で条約への署名を始める。
一、条約は50カ国が批准して90日後に発効する。
簡単にいうと、核兵器を非合法化した国際条約が初めて誕生したということです。
核兵器を廃絶するため、核兵器の開発、実験、製造、保有、移譲のほか、使用や威嚇を禁じています。
あえて、その被害者として「ヒバクシャ」(被爆者)という言葉を使用しています。
思えば、まったく無駄と思われたオバマ大統領が提唱した「核兵器なき世界」もこの条約を後押ししたようです。
交渉に参加したのは、120カ国以上の非核保有国で、核保有国は参加しませんでした。
投票では賛成が122票で、反対はオランダのみ、シンガポールは棄権しました。
さらに唯一の被爆国の日本は、日米安保という「核の傘」に守られていることから交渉に参加せず、NATO(北大西洋条約機構)加盟国も参加しませんでした。(唯一オランダが参加しましたが、条約に反対票を投じています)
現実問題として、核兵器による脅しを受けている日本のような国にとって、この条約は受け入れがたいのかもしれません。ただし、将来的に核兵器を望むという考えがあるのなら、オブザーバーとしての参加は認められているので、単純に不参加とするのは判断が早すぎます。オランダのように参加したうえで反対票を投じるのも間違いではないはずです。
<採択を前にした国連での演説より>
議長ならびに各国代表の皆様
広島について思いをはせる時、私の脳裏に浮かぶのは、4歳だった私の甥です。
彼は被爆し、変わり果てた姿になりました。焼け焦げ、膨れ、溶けた肉の塊と化したのです。
そして弱弱しい声で水を求め続けました。死によって苦しみから解放されるまで・・・
あの幼子の姿が他の子供たちに重なるのです。
世界中の罪なき子らが今この瞬間も危険にさらされています。核兵器がある限り・・・
どうか感じて下さい。
広島と長崎の犠牲者霊魂が我々を見ています。正しいことをして下さい。
知ってください。私たち被爆者は確信しています。
核兵器禁止条約は世界を変えることできると。
ありがとう。
条約の成立後、彼女はこう訴えました。
これは核兵器の終わりの始りです。
世界のリーダーの皆さんにお願いします。
地球を愛しているなら、この条約に署名してください。
核兵器は常に非倫理的なものでした。
そして今や違法なのです。
<ノーベル平和賞受賞式にて>
<サーロー節子さんの講演より>
広島と長崎の原爆投下から奇跡的に生き延びた被爆者の一人としてお話しする。この会場で、広島と長崎で亡くなったすべての人々の存在を感じてほしい。彼らの死を無駄にしてはならない。
米国が最初の原爆を私が住む広島に落とした朝のことを鮮明に覚えている。私が愛した街は1発の爆弾で完全に破壊された。住民のほとんどは一般市民で、焼かれて灰と化し、蒸発し、黒焦げの炭になった。この時亡くなった4歳のおい、英治は私にとって世界で核兵器によって脅されているすべての罪のない子どもたちを代表している。
私たち被爆者は、この世に終わりをもたらす核兵器について、世界に警告せねばならないと確信し、繰り返し証言をしてきた。しかし、広島と長崎の残虐行為を戦争犯罪と認めない人たちがいる。核兵器は必要悪ではなく絶対悪だ。
今年7月7日、世界の圧倒的多数の国々が核兵器禁止条約を採択した時、私は喜びで感極まった。かつて人類の最悪の時を目撃した私は、この日、人類の最良の時を目撃した。これを、核兵器の終わりの始まりにしよう。
核保有国の政府や「核の傘」の下で共犯者となっている国々の政府に言いたい。私たちの証言を聞き、私たちの警告を心に留めよ。世界のすべての国の大統領、首相に対し、条約に参加し、核による絶滅の脅威を永遠に除去するよう懇願する。
<フィンICAN事務局長の講演より>
われわれは核兵器をこの世界に定着したものとして受け入れることを拒否し、自分たちの運命が数行の核兵器発射コードによって縛られていることを拒否する人々を代表している。われわれの選択こそが唯一、可能な現実だ。他の選択肢は、考慮に値しない。
核兵器の物語には、終わりがある。どのような終わりを迎えるかは、われわれ次第だ。核兵器の終わりか、それとも、われわれの終わりか。
今日、核兵器が使われる危険性は冷戦が終わった時よりも大きい。世界にはより多くの核武装国があり、テロリストともいれば、サイバー戦争もある。すべてがわれわれの安全を脅かしている。イラクやイラン、カシミール、北朝鮮で、核兵器の存在が、核競争への参加をあおっている。核兵器は紛争を生み出している。
核兵器禁止条約は、世界的な危機の時において、未来への道筋を示している。暗い時代の一筋の光だ。すべての国に条約への参加を求める。
核兵器の傘の下に守られえいると信じている国々に問う。あなたたちは、自国の破壊と、自らの名の下で他国を破壊することの共犯者となるのか。すべての国に対し、われわれの終わりを選ぶよう呼び掛ける。
化学兵器、生物兵器、クラスター爆弾や対人地雷と同様、核兵器は今や違法となった。その存在は非道徳だ。その廃絶は、われわれの手の中にある。
「北海道新聞2017年12月12日朝刊より」
「ICAN」とは、「Intrernational Campaign To Abolish Nuclear Weapons」
「ヒロシマへの誓い- サーロー節子と共に-」 The Vow from Hiroshima(D) (監)(製)(脚)スーザン・ストリックラー(アメリカ)
(製)(脚)ミッチー・タケウチ(編)ジャッド・ブレイズ(撮)ジェニファー・ハーン(音)ダラス・クレーン
(出)サーロー節子、竹内道13歳で被爆し、その後、美唄での教会建設ボランティアで知り合ったカナダ人と結婚。
戦後初の日本人留学生となった彼女はソーシャル・ワーカーを目指します。
アメリカで彼女はビキニ環礁での第五福竜丸の被爆を知り、アメリカの核実験を批判。
そのためにアメリカで多くの批判を受けますが、それをバネに反核運動を始めることになります。
アメリカで原爆資料展を開催し、被爆体験を語る活動を開始。
ICANによる核兵器禁止条約制定のための運動に参加。
それが国連で採択され、ノーベル平和賞を受賞するまでの密着ドキュメンタリー。
原爆によって失われた300人の同級生たちの無念の思いへの「怒り」
平和のために活動する自分たちの運動への「確信」
爆発によって校舎の下敷きとなり、そこから這いだし生き残った「実体験」
それらから生み出される「言葉」の力強さは圧倒的な力を持っています。
「カリスマ的」と言われる存在はこうして生まれるのだと感じさせられます。
魂のスピーチに何度も泣かされました。多くの人に見て欲しい。
もう一人、節子さんを支える被爆二世、竹内道の祖父が医師として広島で働いた日々も描かれます。<ノーベル賞授賞式でのスピーチより>
・・・私は13歳の少女でした。焼けくすぶるガレキに閉じ込められ、ただ前に進み続けました。
光が差す方へ。そして生き延びました。
核兵器禁止条約は今の私たちの光です。
広島のガレキの下で開いた言葉を繰り返します。
”あきらめるな 動け 前に進み続けろ”
”光が見えるだろう。そこまで這っていけ”
今夜 私たちはオスロの通りを行進します。たいまつを掲げます。
その光に続いてください。
核の恐怖という闇夜を抜け出しましょう。
どんな障害が立ちはだかろうとも、動き続けるのです。進み続けるのです。
そして皆で光を分かち合いましょう。
今こそ誓いましょう。
この唯一無二の素晴らしい地球を守ることを。