悲しみにある人々への覚書

エッセイ「悲しみにある者 The Year of Magical Thinking」
ドキュメンタリー映画「ジョーン・ディディオン ザ・センター・ウィル・ノット・ホールド」

- ショーン・ディディオン Joan Didion -
<最愛の人を失う悲しみ>
 この本の原題は直訳すると「不思議な思考におちいっていた年」といった感じでしょうか。長年共同生活、共同作業を続けてきた最愛の夫を心臓マヒにより突然失った女性作家、ショーン・ディディオンが、自らの混沌した精神状態を丹念に記録したエッセイ集です。
 ほとんどの人が体験する最愛の人との死別をテーマにした小説やエッセイは、今までも数多く発表されてきました。しかし、死別からの一年間をここまで詳細に医学的記録から妄想一歩手前の記憶の混乱まで客観的かつ情熱的に書いた作品はなかったかもしれません。だからこそ、誰にでも起きうるこの体験記は、高い評価を受け、ベストセラーにもまり、全米図書賞まで受賞することになったのでしょう。
 そんな著者ならではの視点は、この本の表紙の写真に見事にとらえられています。カメラ目線で写っている父と娘は、この後、彼女を残してこの世を去ることになります。そして、そんな二人を後ろから見つめる彼女の視線は、まるで将来を予見しているかのように悲し気です。この映画のワンシーンのような劇的な一枚の写真だけでも、僕は彼女のファンになってしまいました。
 そもそも僕は彼女の本を読んだことはなかったのですが、高い評価を受けていたドキュメンタリー映画「ショーン・ディディオン ザ・センター・ウィル・ノット・ホールド」を見て、読者でもないのにファンになってしまっていました。ならば本も読まなければとこの本を購入したわけです。

<ショーン・ディディオン>
 ジョーン・ディディオン Joan Didion は、1934年12月5日カリフォルニア州サクラメントに生まれました。成績優秀だった彼女は、1956年にカリフォルニア大学バークレー校に入学し、卒業後はニューヨークでファッション誌「ヴォーグ」の編集者となりました。そこで2年間働きながら、作家としての活動を開始。処女小説「Run.,River」を出版。1964年にタイム誌のライターだったジョン・グレゴリー・ダンと結婚し、長く活動を共にすることになります。
 子供が欲しかった彼女は、1966年偶然生後間もない赤ちゃんが親を探しているとこを知り、その娘を養女として譲り受け、クインターナと名づけました。
 フリーの作家となった彼女は、1968年には初のノンフィクション作品「Sloucing Towards Bethlehem」を出版。この時期彼女は、夫と娘と共にフラワームーブメントで盛り上がる西海岸に移住し、多くのロック・ミュージシャンやアーティストたちとつき合い、そこから作品が生まれることになりました。
 さらに70年代に入ると、彼女はハリウッドの映画人たちとの交流が始まります。ジョージ・ルーカスやハリソン・フォード、スティーブン・スピルバーグなど、その後の映画界を背負うことになる若き映画人との付き合いから、彼女は夫と共に映画製作の現場に関わることになりました。夫と夫の兄ドミニクと共に映画製作会社を設立。ジェリー・シャッツバーグを監督に迎え、夫との共同脚本「哀しみの街かど」をアル・パチーノ主演で映画化。この映画はカンヌ国際映画祭でキティ・ウィンが女優賞を受賞し高い評価を受けました。
 その後も、大ヒット作バーブラ・ストライサンド、クリス・クリストファーソン共演の「スター誕生」(1976年)の脚本。ウール・グロスバード監督ロバート・デニーロ主演の「告白」(1981年)も脚本を担当。ロバート・レッドフォード、ミシェル・ファイファー主演の「アンカーウーマン」(1996年)の脚本など、映画界にも深く関わりました。
 作家としての彼女の代表作は、小説では「Play It As It Lays」(1970年)、「A Book of Common,Prayer」(1977年)、「Democracy」(1984年)、「The Cast Thing He Wanted」(1996年)。
 ノンフィクションでは、内戦で混乱するエルサルバドルを取材した「Salvador」(1983年)、キューバからの難民が多く住むマイアミを取材した「Miami」(1997年)、「After Henry」(1992年)、「Where I Was From」(2003年)など。
 2005年に彼女は「悲しみにある者」で全米図書賞を受賞しますが、その一年後、一時は回復したクインターナが病死。そのショックから再び立ち直り、「さよなら、私のクインターナ」を発表します。

<二つの悲劇>
 夫との二人三脚で共に成功を収め、公私ともに幸福の絶頂だった彼女を襲ったのは最愛の娘の病いでした。一時は脳死に近い状態になりますが、なんとか危機を脱したかと思った矢先に、夫が突然心臓マヒでこの世を去り、彼女は不幸のどん底に突き落とされます。連続して訪れた二つの悲劇により一時は、夫はまだ生きているという妄想を抱くほど、彼女の心理状態は混乱してしまいます。
 そんな危機的状況を克服するために彼女が本能的に始めたのは、自らの心理状態や日々の行動記録を文章化すること。そしてそれらに関わる問題について調べ、学ぶことでした。そこから明らかになったのは、「愛する人を失った悲しみ」は「心の病」と考えるべきだということです。そして、そのための治療法として選んだのが、この本を書くということだったわけです。

 困った羽目に陥ったなら、読書し、学び、調べ、文献にあたれと、私は子供の頃から躾けられていた。情報を得れば、収拾をつけられる。悲しみが今でもいちばん一般的な感情だというなら、それについての文献はひどく貧弱に思えた。

<死のショックから葬儀へ>
 混乱の中、彼女は、葬儀についてのこんな文章まで記録しています。
「できるだけ静かに教会に入ること。葬式では案内係はいないので、おおよそこの辺りかというところに腰かけなさい。本当に親しいお友達だけが、中央の通路沿いの席のずっと前の方に腰かけるべきです。・・・」
「コックは普段食欲をそそられるものをいかがですかと言うかもしれませんが - ただ、一度にほんの少しだけ供されるべきです。というのも胃の中は空っぽなのですが、口が受けつけないからです。・・・」
エミリー・ポスト著「エチケット」より

 彼女は夫の死のショックから葬儀の後、やっと少し落着きを取り戻しました。そして、次なる段階である「哀悼」の状態が訪れます。

 2004年4月30日
 私はまだ仕事に取りかかる集中力はたくわえていなかったが、家のなかを整頓することはできたし、・・・開けていないメールの処理もできた。
 私の頭には、今となって哀悼の段階に入っているところだ、という考えは浮かばなかった。それまで私は悲しむことができただけで、哀悼することはできなかったのだ。悲しみは受動的だ。悲しみは生じてくる。だが、悲しみを処理する行為である哀悼には注意力が必要だ。
・・・

<哀悼について>
 「哀悼とメランコリー」でフロイトは、悲しむという行為は「人生への正常な態度からのゆゆしい離脱を伴う」と述べている。
「私たちは、悲しみを病理現象とみなして医学的な治療に回そうとすることなど思いつかないのだ」その代わりに、私たちは「一定の時間が過ぎると悲しみを乗り越えられること」をあてにする。


「哀悼する人間は実際に病気であるが、こうした精神状態はありふれていて私たちにはとても自然なものに思えるので、私たちは哀悼を病気と呼ばない。・・・・私の結論を言えばこうなる。哀悼のあいだは、自我は、変化を被った一時的な躁鬱状態を経験しそれを乗り越えると」
メラニー・クライン「哀悼とその躁鬱状態との関係」より

 最愛の人を失った後、生きる希望を失い、後を追うようにこの世を去る人が多いのは誰もが知っていることです。それにも生理学的な根拠があるようです。
「配偶者を失った者の、失って最初の年の優位性を持つほどの高い死亡率」の原因は何か?
「現在までの研究から次のことが示されている。他のたくさんのストレス因子と同様に、悲しみはしばしば、内分泌、免疫、自律神経、心血管系における変化につながる。そうしたものはすべて、基本的には脳の機能や神経伝達物質に影響されるのだ」
「死別 - 反応と展開とケア」アメリカ科学アカデミー医学研究所(編)

<後悔の段階>
 哀悼の段階が訪れた後も彼女の苦しみは続きました。彼女は夫の死は、自分がもう少し注意していれば防げたのではないか?と思うようになり始めます。そんな思いの中、夫が書いた過去の文章に目が行きます。

 追悼会は終わって、駐車場係が私の車を持って来た。私たちがドライブしている間に妻が言った。
「お医者さんは何ですって?」・・・・・
「奴は俺を脅えで打ちのめしてくれたのよ、君」
「彼は何て言ったの?」
「俺は致命的な心臓発作に襲われる候補者だとさ」・・・・・
「告白」ジョン・グレゴリー・ダン
 私はこのことを覚えていないか、さもなければ覚えておかないことを断固として選んだのだ。
 私は、その重大さをろくすっぽ理解していなかった。



 私は「不運」がジョンを死なせ、クインターナに打撃を与えたとは信じなかっただけでなく、実際にそれとはまるで反対のことを思っていた。私は起きたことはどれも、この私が防げたはずだったのにと信じていた。サンタモニカ空港のタルマック舗装の滑走路の上にとり残され夢を見た後になってようやく、自分が実際に責任を持てないレベルというものがあるんだという考えが心に浮かんだ。それで私は、ジョンとクインターナの側に責任があると考えたが、これは発想の大転換だった。ただし、その大転換をもってしても、私が必要とする境地に達することはできなかった。

<悲しみを越えるために>
 誰もが人生で何度か体験することになる愛する者との死別。その悲しみの度合いは人それぞれですが、その人への愛が深ければ深いほど、その悲しみは深く、立ち直りまでには長い時間を必要とします。その対処法は、これもまた人それぞれですが、彼女はその実例を丹念に記録し公開してくれました。同じような苦しみを抱える人の心を癒す効果がきっとあると思います。

 悲しみは、自分がそこに到達するまでは誰一人として知っていない境地だということが結局わかる。私たちは予期している - 私たちに近しい者が死ぬかもしれないことを。けれども、私たちはそうした想像していた死のすぐ後の数日間、数週間のさらに先については思ってみない。私たちは死のすぐ後のその数日間、数週間についてさえ、その性格を誤解している。私たちは、死はショックを感じようにも突然襲ってくるのだろうと考えたりする。けど、私たちはこのショックが閉塞的なもので、心身の調子を狂わせるものだとは予期しない。・・・・・
 私たちが想像する悲しみのバージョンでは、モデルとなるのは「癒し」だ。何らかの前向きの活動が勝ることになる。最悪の日々は最初の日々なのだ。私たちは自分にとってのいちばん厳しい試練の時は葬式だろう、そしてその後は想定された癒しが生じるだろうと想像する。・・・
 私たちには葬式自体が痛みを和らげるものであり、他者のいたわりと儀式の持つ重みや意味とに包まれた、ある種の催眠効果を伴った退行現象であると知る由もない。ましてや私たちは、葬式のさらに先に控えるものを知る由もないのだ - 葬式に続く果てしない不在の感覚、空虚な感じ、まったく意味を感じられぬこと、そう、無意味さそのものを経験するのに身を晒すという容赦のない瞬間瞬間が延々と連なるということを。



 私は私たちがなぜ死者を活かしておこうとするかが理解できる。私たちは彼らに私たちと一緒にいて欲しいがゆえに生かしておこうとするのだ。
 私にはまた、もし私たちが自分自身生きてゆこうとするならば、死者に固執するのをやめ、彼らを手放し、亡くなったままにさせねばならないときが訪れるのも、わかっている。
 彼らをテーブルの上に置かれた写真にするのだ。



「悲しみにある者 The Year of Magical Thinking」 2005年
(著)ショーン・ディディオン Joan Didion
(訳)池田年穂
慶応義塾大学出版会

ドキュメンタリー映画「ジョーン・ディディオン ザ・センター・ウィル・ノット・ホールド」 2017年
Joan Didion : The Center Will Not Hold 
(監)(製)グリフィン・ダン(アメリカ)
(製)アナベラ・ダン、メアリ―・ルシーン他
(撮)トム・ハーヴィッツ、リード・モラーノ、ウィリアム・レクサー
(編)アン・コリンズ
(音)ネーサン・ハーペルン
(出)ジョーン・ディディオン、ジョン・G・ダン、クインターナ・R・ダン、ハリソン・フォード、バネッサ・レッドウレープ、アナ・ウィンター、グリフィン・ダン 

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