紅テントから世界を撃て!

- 唐十郎 Jyuro Kara 状況劇場 -

<20世紀演劇界のスーパースター>
 60年代前衛演劇運動のヒーローとして有名なのは、寺山修司、唐十郎、鈴木忠志、佐藤信・・・彼らは第一世代と呼ばれます。70年代になると第二世代として、つかこうへい、山崎哲、竹内銃一郎が登場し、90年代には第三世代の野田秀樹、渡辺えり子、鴻上尚史が現れます。そんな演劇界の変遷の中、第一世代の唐十郎は21世紀に入ってもなお活躍を続ける数少ない存在です。
 しかし、早くにこの世を去った寺山修司が映画や詩、小説などによって、今でも多くの若者にインパクトを与え続けているのに比べると、唐十郎の知名度は寺山ほどではないかもしれません。それは、彼の魅力はその芝居の中に集約されていて、それを生で見なければ伝わらないせいだからかもしれません。(唐十郎の役者としての仕事では、「北の国から」の最終回、純君の結婚相手の漁師役、「世にも奇妙な物語」の中の傑作として名高い「ニュースおじさん」の役が忘れられませんが、そう多くはありません)
 幸い僕は弟が昔、役者(ブリキの自発団)をやっていたおかげで芝居を観る機会が多く、3回ほど唐十郎の芝居を見ることができました。もちろん新宿花園神社の紅テントでも見ることができました。思えば、状況劇場のあの頃の芝居を見た時の感動をどう表現したらよいのか?その魅力の本質がどこにあるのか?当時から気になっていました。そのインパクトは、当時見たどのコンサートよりも、どの映画よりも、強烈だった気がします。それは芝居というジャンルのもつ本質的なパワーのせいかもしれません。
 「唐十郎論 逆襲する言葉と肉体」という本を参考に、改めて状況劇場のもつパワーについて、唐十郎の仕事と人生を追いながら考えてみようと思います。

<生い立ち>
 唐十郎は本名を大靏義英といい、1940年2月11日、東京都台東区下谷万年町の八軒長屋に生まれています。父親は、記録映画などの監督として活躍していた大靏日出栄。母親のミネも詩や小説を書き同人誌などに作品を発表する芸術家でした。しかし、戦争中、家族は福島県に疎開。1945年、父親は仕事もなくなり、家族は食糧にも困ることになってしまい、弟は栄養失調が原因でこの世を去ってしまいます。
 終戦後、家族と共に東京に戻った彼は、下谷区立坂本小学校に入学します。そこで担任の先生の影響で演劇に魅かれるようになり、4年生の時、自ら学芸会用にオリジナル脚本を書き上げました。さらに中学3年生の時、父親が監督した短編映画「この子らに光を」に端役で出演。この時、本格的に映画や演劇の世界に興味をもつようになったといいます。
 1955年、父親からの薦めで彼は医者になるため、東邦医大の付属高校に入学します。しかし、入学後、彼は芝居への思いがつのり、阿佐ヶ谷にあった児童劇団「キューピッド」に入団します。この時、後輩にはすでに子役スターとして活躍していた佐藤信がいました。(彼は1958年に堀川弘通監督作品「裸の大将」で山下清の少年時代を演じています)結局、彼は演劇への思いを断ち切れず、医学部への進学をやめ、明治大学文学部の演劇学科に入学します。そして同じ学科の学生たちからなる劇団「実験劇場」に所属。イプセン原作の「民衆の敵」や三好十郎原作の「廃墟」などに出演します。
 この頃、時代は60年安保闘争真っただ中でしたが、彼はそうした政治運動には違和感を覚えていたようです。

<演劇活動へ>
 1962年、大学を卒業した彼は、米倉斉加年、観世栄夫らが指導する劇団青年芸術劇場に研究生として入団します。この頃、彼は演劇界における先輩、寺山修司と出会い、寺山の脚本をドラマ化した「一匹」(演出は和田勉)に出演するチャンスを得ています。そして、独自の演劇を追及するために劇団を退団し、仲間たちと「シチュエーションの会」を結成。サルトル作の「恭しき娼婦」(演出は笹原茂峻)を上演しました。
 しかし、新たな演劇を追及するにはオリジナルの戯曲が必要と考え、劇団を一時解散し、メンバーそれぞれが戯曲の執筆を行うことになりました。そして、この頃彼は舞台美術学校に通っていた李礼仙(後の李麗仙)と出会い、彼女を劇団に勧誘しています。

 小劇場運動、またはアングラと呼ばれた彼らの運動に共通していたのは、反新劇という立場だった。1950年代に隆盛をきわめた新劇は、近代主義的ないしは社会主義リアリズム的演劇観を採用し、俳優養成システムから集客組織まで一体となった組織体をつくっていた。それは、戦後の荒廃から立ち上がるための「理想」を必要とした時代には有効だったかもしれないが、60年代の高度経済成長下では、その「啓蒙主義」や「イデオロギー」は批判にさらされざるを得なくなった。小劇場運動の担い手たちは、新劇のテクスト至上主義、演出家- 役者-観客というヒエラルキーを批判し、舞台の現場をつくる役者や観客の重要性を主張したのである。

 寺山修司は、後輩の唐の初演パンフレットにこう書いています。この時、寺山28歳、唐は24歳でした。

 唐十郎という名の奇怪な男がいる。ヌード・モデルを副業としているそうだが、金に困ると肉体労働もやるらしい。しかし、見たところはタフ・ガイではなくて、むしろゲイ風の軟弱な美貌の持ち主である。この、唐十郎の処女作である「二十四時五十三分塔の下行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」という戯曲は一読してアダモフやサミュエル・ベケットを思わせる前衛劇だが、きわめて日本的で(しかも浅草の重喜劇で)その上、詩的でさえある。私はこの上演を楽しみにしており、唐十郎らのグループが野外劇から市街での即興劇、オフステージ、ストリップなど、劇場を飛び出した前衛劇へ発展してゆくことを期待している。
寺山修司「二十四時五十三分塔の下行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」初演パンフの言葉

 しかし、この後、二人は異なる方向へと向かいます。寺山は「書を捨てよ街へ出よう」あたりから、従来型の演劇よりもパフォーマンス色を強めてゆき、演劇を日常空間に持ち出そうとします。それに対し、唐はテント内の芝居にこだわり続け、社会変革よりも個人の感性の変革にこだわり続けたといえるかもしれません。
 ただし、単に対立してただけではなく、お互いに影響を与え合うという関係だったともいえるでしょう。寺山の死後、すぐに唐は、寺山のために追悼作品「ジャガーの眼」を発表しています。

<状況劇場誕生>
 1964年、彼は初の戯曲「24時間53分『塔の下』行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている」を書き上げます。さっそく彼は「シチュエーションの会」メンバーを再結集させ、自ら座長に就任し劇団名を「状況劇場」と改めて上演を行います。こうして誕生した「状況劇場」は、場所の選定から、テントの設営、上演、広告、製作などすべてを担当する演劇集団の先駆でもありました。

 朝日新聞の記者だった扇田昭彦はこの時代の演劇の特徴を下記のように整理しています。
A 演技の変革(役者のキャラクターを考慮した当て書きの重視により、役者の演技よりも個性が重要になった)
B 戯曲構造の転換(従来のドラマの展開を無視した自由な内容)
C 観客参加(観客も共に演劇を作るという発想。その究極の形が寺山修司の「観客席」)
D 劇場構造の変革(テント、座布団、ぎゅーづめの劇場による一体感など)
E 脱劇場(従来の劇場を出て、野外、海外など、まったく違う場所でも芝居を行える可能性)
F 非劇団性(劇団単位の公演ではなく、戯曲中心のコラボとしての演劇)
G 運動としての演劇の復権(政治の時代に呼応した社会を動かすムーブメントとしての演劇)

 新劇役者とは、もともと、山の手の子供が下町の真似をする、あるいは下部構造の息吹を彼岸として見る、という類いの芸術良民であることを忘れては困る。
唐十郎

 1965年、数寄屋橋公園で「ミシンとこうもり傘の別離」を上演中に警察に中止させられ、彼は警察に連行されました。
        この頃、盟友となる麿赤児(現・赤児)が入団し、麿の紹介により、前衛舞踏の先駆者である土方巽と出会います。
 1966年、土方の依頼でキャバレーで金粉ショー・ダンスを李と共に踊ることになり、北海道のキャバレーを巡ります。そして、そのギャラで杉並に稽古場を借りています。その後も、2年半二人は金粉ショーで活動資金を貯めることになります。

 唐の芝居の原点は故郷である浅草の芝居小屋や見世物小屋にあった。彼が金粉ショーのダンサーとしてキャバレーをまわったのも、単なるバイトではなかった。底辺の見世物に自ら出演することで初めて彼は「特権的肉体論」を生み出せた。

 1960年代は演劇だけではなく音楽(ジャズ、演歌、ロック・・・)、美術、小説や漫画、そして政治までもが肉体重視の時代でした。彼が土方との交流によって、舞踏の要素を取り入れたのも肉体重視の演劇として当然の流れだったのでしょう。

 「特権的肉体論」は、演劇空間をつくるのは、劇作家でも演出家でもなく役者だというテーゼだ。役者から出発した唐の表現者宣言であるとともに、演劇空間が至高のものとなるための役者の在り方を、「特権的肉体」という「劇的イリュージョン」によって規定したのだ。その際、他者の視線が必要だと唐は考えた。つまり、きわめて演劇の現場に則した概念だったのではないだろうか。
麿赤児、四谷シモン、根津甚八、李礼仙、大久保鷹、小林薫、佐野史郎、不破万作、六平直政、渡辺いっけいなどそうそうたる状況劇場の役者たちをイメージして唐の戯曲は書かれていました)

<紅テント誕生!>
 1967年「腰巻お仙 - 義理人情いろはにほへと篇」を新宿花園神社で上演。そのために駐車場用の巨大テントを購入します。この時、「腰巻」なので色を赤にしたのですが、それが状況劇場が「紅テント」と呼ばれる原因となりました。

 テントは(1)移動が可能(2)テントの内と外が可変的(音や光、風の出入りがある)(3)虚構性、幻想性を引き出せる(4)観客との一体感が得られやすい。
(テントを開いて場面を一気に変える演出は感動的です。突然、街が背景になったり、外から侵入者が現れたり・・・と可能性は無限大です)

<映画・テレビへの進出>
 1968年、映画「新宿泥棒日記」(大島渚監督)に彼は劇団員と共に出演。さらに映画「犯された白衣」(若松孝二監督)では主演と脚本を担当。その他、東映映画「日本猟奇地帯」(中島英夫監督)、TBSドラマ「七人の刑事」にも出演しています。

<戦う演劇集団へ>
 1969年、新宿花園神社での上演を断られたため、新宿西口中央公園で「腰巻お仙 - 振袖火事の巻」を無許可で上演。公演中、機動隊に囲まれ、終演後、李、笹原と共に逮捕されます。この頃、新宿西口はフォーク・ゲリラによる反体制派の拠点になっており、状況劇場はそのシンボル的存在として警察のターゲットになっていたようです。その後、状況劇場は新宿西口の駐車場でトラックの荷台を使って上演活動を行い、沖縄まで旅をしながら上演活動を続けます。
 「少女都市」の上演中、寺山修司の「天井桟敷」のメンバーとの乱闘事件を起こし、再び警察に逮捕されています。
 1970年、「少女仮面」で唐十郎は、第15回岸田國士戯曲賞を受賞。東宝映画「銭ゲバ」(和田嘉訓監督)、ATG映画「修羅」(松本俊夫監督)に唐は主演。いよいよ彼は時代の人となります。
 1972年3月、状況劇場は戒厳令下韓国のソウルで詩人、金芝河の協力を得て「二都物語」を上演。帰国後は上野不忍池を玄界灘に見立てて紅テント公演を実施。この後、「二都物語」を全国各地で上演しました。そして、再び海外へと旅立ちます。
 1973年、彼らは食糧危機のバングラディッシュに行き、ダッカ、チッタゴンの街で「ベンガルの虎」をベンガル語で上演します。帰国後、中村敦夫主演の連続ドラマ「追跡」(市川崑が総監督で脚本は石堂淑郎)の第一回「汚れた天使」を初監督しますが、放映中止となります。
 1974年、今度は中東のレバノン、シリアのパレスチナ難民キャンプにて「パレスチナの風の又三郎」をアラビア語で上演。帰国後、「唐版 風の又三郎」を上演。

 私共、状況劇場は、三年前から、韓国そしてバングラディッシュと紅テントを背負って、日本人の深層心理に脈々と流れる悪夢の結節点を河原者の肉体に依って逆襲来、あるいは演劇化してまいりました。それはまぎれもなく、今日のアジアで、日本の演劇人である我らに何が出来るかという問いかけでありました。しかし、世界がかくも拡散、逆集合されるこの状況に於いて、アジアという範疇に偏ることは意味なく、かえってアジアでもなく、西欧でもない世界の十字路であるアラブ・パレスチナに、夢と現実のダイナミズムが直截に孕まれていることは申すまでもありません。文化とは闘争の結果であり、その記憶のパノラマだと信じる我らは、日本河原乞食として培った紅テント劇場の総体と内容を、パレスチナの人々の前に暴虎馮河の勇気をもって提出したいと願っております。
唐十郎のパレスチナ出発前の挨拶より

 1975年、「唐版 滝の白糸」を主演俳優に沢田研二を迎えて上演。海外での公演活動もそうですが、なんだかんだで、彼は話題性も考えていたのです。彼の芝居はあくまでもエンターテイメントであって、難解なだけの前衛的な芝居ではけっしてありませんでした。
 1976年、彼はATGの映画「任侠外伝 玄界灘」を監督。撮影中、元ヤクザの俳優として有名だった安藤昇と共に本物の拳銃を使用したとして銃刀法違反の罪で逮捕されています。
        石橋蓮司、緑魔子らの劇団「第七病棟」の旗揚げ公演のために戯曲「ハメルンの鼠」を書き上げています。
 1977年、「蛇姫様 - 我が心の奈蛇」を全国で上演。九州、田川での初日公演は、暴風雨の中、ボタ山の上で行われ話題になりました。
 1978年、NHKの大河ドラマ「黄金の日々」に劇団員たちと共に出演。小説集「海星・河童」で第六回泉鏡花文学賞を受賞しています。
 1980年、ブラジルのサンパウロでテントにより「女シラノ」を上演。
 1982年、パリで恋人を殺害し、その肉を食べたと言われる殺人犯との手紙のやり取りから生まれた「佐川君からの手紙」により第88回芥川賞を受賞。
 1984年、唐十郎作の「安寿子の靴」がNHKでドラマ化。三枝健起が演出を担当しました。「あるタップ・ダンサーの物語」の全国公演開催。(見ました!)
 1985年、寺山修司の追悼作品として「ジャガーの眼」が上演されます。
 1986年、唐十郎作の「匂いガラス」がNHKでドラマ化。再び三枝健起が演出を担当しました。この年は代表作「少女仮面」が全国規模で再演されています。(見ました!)
 1987年、スタジオ・ジブリの名作「風の谷のナウシカ」をモチーフにした「湯毛の中のナウシカ」を上演。
 1988年、最愛の妻、李礼仙と離婚。同時に状況劇場も解散。代わって、劇団唐組を立ち上げます。
        バブル真っただ中の勢いもあり、安藤忠雄設計による仮設劇場「下町唐座」を浅草に建てます。
 1989年、萩原美和子と再婚。唐組として初の紅テント公演を開催。ファミコンゲームの「ドラゴン・クエスト」から発想を得た「電子城」を上演。
        色川武大原作のTVドラマ「離婚・恐婚・連婚」(演出は森崎東)に主演。「セルロイドの乳首」の全国公演
 1991年、フジテレビのヒットシリーズ「世にも奇妙な物語」の中の傑作「ニュースおじさん」に主演。(これは傑作でした!)
 1992年、台湾の台北で「ビンローの封印」を紅テントにより上演。その後、「ビンローの封印」で全国を回りました。
 1993年、「桃太郎の母」全国公演。
 1994年、「作家の自伝・唐十郎 - わが青春浮浪伝」発表。「匂いガラス」全国公演。
 1996年、映画「海ほおずき」(林海象監督)の脚本・主演。「模造柘榴」で全国を公演。
 1997年、韓国済州島、ソウルにて「海の口笛」を紅テントで公演し、その後日本各地を公演。
        今村昌平監督作品の「カンゾー先生」に出演。
 1999年、「眠り草」で全国を公演。
 2000年、小説「蛇行」発表。
 2001年、「闇の左手」で全国を公演。第一回花園文化賞を受賞
 2002年、フジテレビの大ヒットシリーズ「北の国から - 2002遺言」(倉本聰脚本、杉田成道演出)に出演。
 2003年、「泥人魚」で全国を公演。
 2004年、「泥人魚」で第38回紀伊國屋演劇賞受賞。さらに第55回読売文学賞を受賞。
        TVドラマ「ヤンキー母校に帰る」(荒井光明演出)、TVドラマ「海峡を渡ったバイオリン」(杉田成道演出)に出演。「津波」で全国を公演。
 2005年、近畿大学文学部演劇科客員教授に就任。これが「唐十郎演劇塾」に発展します。
 2006年、TVドキュメンタリー「情熱大陸」に登場。
 2007年、NHK[わたしがこどもだったころ 唐十郎篇」(倉内均演出)に出演。
        ドキュメンタリー映画「シアトリカル - 唐十郎と劇団唐組の記録」(大島新監督)が全国で上映。
 2008年、上記作品「シアトリカル」が映画批評家大賞ドキュメンタリー作品賞を受賞。
 2009年、インタビューを収めたDVD「演劇曼荼羅 - 唐十郎の世界」発売。
 2010年、「百人町」各地で公演。
 2011年、「音版 唐組 - 紅テント劇中歌集」CD化(劇で使用された音源をCD化したもの)
        横浜にて「大唐十郎展」開催。

 唐十郎の仕事の凄さは、こうして並べた仕事の量からも明らかではないでしょうか?毎年、毎年、新たな芝居、新たな土地での上演、新たなジャンルへの挑戦に挑み続けたことこそ、彼の仕事の凄さなのだと思うのです。

 そこで一つ思ったことは、今も昔も強度を持って芝居創りをしていることだ。唐組も状況劇場もタフな精神力を持つことこそ、その原動力であるという意味で同じということだった。「屈しない力」。それが体制や社会や自然や天候であったりしても負けない。負けるときは、とことん負けるけど、本音では負けない。
久保井研(唐組メンバー)

 他者に何か「できる」わけではない。あるいは他者と「出会える」わけではない。しかし、芝居はやる。人々の中に入っていってどんな状態でもやる。このそぎ落された思考は、実は混沌とする二十一世紀の世界で、政治や社会を根源的にみつめ、独力で表現することの可能性を語っているのではないだろうか。

<参考>
「唐十郎論 逆襲する言葉と肉体」
 2012年
(著)樋口良澄
未知谷 

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