
- カレル・チャペック Karel Capek (前編)
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<時代を越えた作家>
アメリカを代表する作家のひとりカート・ヴォネガットは、SF作家の仕事を「炭坑で危険防止のために使われていたカナリア」に例えました。人間よりも臭覚が敏感で有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせてくれるカナリア。SF作家もまた同じように、人類が危険にさらされる前に、いち早くそのことを作品によって知らせるのが重要な使命であるということです。そういう意味では、ジョージ・オーウェルの「1984」やフィリップ・K・ディックの諸作、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」などは、特に有名な作品と言えます。そして、ここに取りあげるカレル・チャペックの「山椒魚戦争」もまたそれらの作品群に匹敵する歴史的傑作です。
それは「山椒魚戦争」が他の歴史的名作同様1936年という古い作品ながら、今読んでもまったく古さを感じさせず、時代を越えて普遍的を価値を保ち続けているからです。
「カフカ、ハックスリー、チャペック、ステープルドンなどは、いわば世界観のかたまりなのだ。そして、その極みにおいて彼らはそれを突破して一種の普遍性を獲得し、その著書は、彼らが属する時代を越えうるものとなるのである。時代精神(ツァイトガイスト)を身につけることを、彼らは拒否している」ブライアン・オールデイス(小説家、評論家)
<チェコが生んだ偉大な作家>
チェコが生んだ偉大な作家カレル・チャペックの物語は、20世紀前半のチェコの歴史と重なり、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の激動と混乱のヨーロッパ史とも深くつながっています。当然彼の作品は、どれもその時代の影響を受けており、作品と時代、そして彼の人生を知るうちに、僕はまるで一本の映画を見ているような気になってしまいました。
それも単に激動の時代に翻弄された悲劇の作家の物語ではなく、自らの主張を貫きながら、同時に人生を味わい尽くした幸福な男の物語として見ることができるのです。
<消えかかっていた国、チェコ小史>
チャペックの物語を始める前に先ずは彼の母国チェコについて、その簡単な歴史を抑えておきたいと思います。
チェコ語という独自の言語をもつ東ヨーロッパのチェコ民族がチェコ王国として独立を保っていた時期は、意外に短期間にすぎません。19世紀初め、チェコはオーストラリア・ハンガリー帝国の属国に過ぎませんでした。そのため、大部分の支配層や貴族たちだけでなく一般市民もドイツ語を話しており、チェコ語は田舎で農民たちが話すための方言のひとつになりかねない状況でした。
こうして、絶滅しかけていたチェコ民族でしたが、19世紀後半になるとオーストリア・ハンガリー帝国の属国だったチェコ周辺が産業革命の波に乗り、一躍工業地帯として栄えることになります。この急激な経済発展は市民生活にも及び初め、いつしか芸術の分野にも波及するようになります。なかでも、音楽の分野では、「新世界」で有名なアントニーン・ドヴォルザークや「モルダウ」などで有名なベドジフ・スメタナが登場しています。そして、文学の世界では、1883年チェコの首都プラハにフランツ・カフカが生まれ。1890年には、マレー・スヴァトニョヴィッツェという山の中の小さな町に、今回の主人公カレル・チャペックが生まれました。
<チャペック家の人々>
チャペックの父親は医師として鉱山と温泉で働くために山中の小さな町に住んでいました。豊かな自然に恵まれたその土地で彼は幸福な少年時代を過ごすことができました。そして、町と自然を愛する素晴らしい田舎医師である父親から得た豊かな感受性と強い責任感が後の彼の生き方に大きな影響を与えることになります。
ただし、繊細な心を持つがゆえに精神的に不安定だった彼の母親は異常なほど一番下の子カレルを愛し、そのことが息子にも悪い影響を与えることにもなりました。そのため、女性に対し母親のような強い愛を求める一方、愛され過ぎることも恐れる傾向になってしまった彼は、女性関係に苦労し、結婚も自らの死が近づくまで踏み切ることができませんでした。
もうひとり、彼の芸術との関わりのきっかけとなり、その後も長く行動を共にすることになる兄のヨゼフも、重要な存在です。彼は弟より長生きするものの、ナチスドイツの支配時代強制収容所に送られそこで死を迎えてします。ある意味、彼は弟を支えるほどの才能を持ちながら、日の目を見ることのなかったチャペック以上に悲劇的な人物かもしれません。
こうして、彼は父親の勤勉さに加え、母親の病的なまでの感受性を合わせ持つ青年へと成長して行きました。
<フランス文化に魅せられて>
常に成績優秀だった彼はプラハのカレル大学へと進学し、文学、美術、哲学を専攻します。そして、兄のヨゼフとともに前衛派の建築家や画家たちの集まり「造形芸術家集団」に参加します。この時点でのチャペックは画家としても優れており、その方向性は定まっていなかったようです。
1911年、彼はパリのソルボンヌ大学に留学し、そこでゲルマン学を学びながら、芸術の都のエネルギーをたっぷりと吸収しました。フランス文化に魅せられた彼は、その後チェコに戻って最初の仕事としてフランス語の優れた詩を翻訳発表することになります。こうして、発表されたフランスの詩に感動した若者たちの中からは、その後チェコ語の優れた詩を書く詩人たちが現れ、これがチェコの現代詩文化の基礎になったも言われています。
<戦乱の始まりとナショナリズム>
1914年、サラエボでオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人青年に暗殺される事件が起きます。そして、これをきっかけに第一次世界大戦が始まります。
目が悪かった兄のヨゼフと脊椎のリューマチという慢性の病に冒されていたカレルは、ともに戦場で死ぬことはまぬがれましたが、この間に多くの友人たちが戦場で命を落としました。
しかし、この戦争でドイツとオーストリア・ハンガリー帝国が破れたため、チェコスロバキア共和国が念願の独立を果たし、長く支配され続けていたチェコ民族にとっては、夢のような出来事となりました。チェコの人々は理想の民主的国家を目指し、新たなスタートを切りました。ところが、このつかの間の自由の平和の時はそうすぐに終わりを向かえることになります。
<独裁者を生む時代>
第一次世界大戦を終結させたヴェルサイユ条約が、チェコ共和国の消滅につながる次なる戦争、第二次世界大戦の導火線に火をつけてしまったのです。歴史上もっとも愚かな条約とも言われるヴェルサイユ条約はすべての戦争のツケを敗戦国に負わせることで、新たな戦争の火種となる「独裁者」と「過激なナショナリズム」を生み出しつつあったのです。
国の崩壊と混乱が過激なナショナリズムとコミュニズムという反対方向の勢力に勢いをつけ、それが危険な独裁者を生み出す、というのはこの時だけではなく近代史が何度となく証明してきた事実です。
フランス革命の後のナポレオンの登場、ロシア革命後のスターリン、第一次大戦後のヒトラーとムッソリーニ、ベトナム戦争後のポルポト、最近でもイラクのフセインやアフリカ各地の軍事独裁政権などなど、数限りなく現れています。
<第一次世界大戦が与えた影響>
第一次世界大戦は経済的損失意外にもヨーロッパに大きな影響を与えています。それは産業革命以後、発展を続けていたヨーロッパ諸国にとって、科学技術の進歩がもたらす新しい社会が人々に幸福与えると考えられていたことが、現実には幻影だったことが明らかになったことです。
戦車や飛行機、毒ガスなど、科学技術の発達は新しい兵器を次々と登場させました。そのために戦争による死者は増え、科学の発達=人類の幸福というユートピア的な発想は過去のものとなったのです。そんな影響のもとで、チャペックはこんなことを書いています。
「人間は多くの悲しみに打ちひしがれたあげく、最後には力の勝利を賞賛することになるだろうということが、ぼくにはすごくたまらないのです・・・。芸術だって力に奉仕してはなりません。・・・」
「芸術のみが不屈です。そしてそれ以外の不屈さとか力は、ぼくには何も訴えません」
「カレル・チャペックの闘争」より
<哲学者としての顔>
多様な顔の中でも、彼にとって哲学者としての顔は非常に重要です。なぜなら、後の彼の作品群の多くは、彼の哲学を具体的にストーリー化したものとも言えるからです。
ストーリー・テラーとして、優れた能力を持っていた彼ですが、人間を描くという部分ではけっして超一流ではありませんでした。と言っても、彼の書いた作品では人間像を描き出すことよりも、人間たちが作り上げたロボットや未来の社会システムや究極の兵器などを詳細に描き出すことの方が重要だったのかもしれません。
彼にとっては、自らの哲学に基づく人類の未来像を描くことこそが最大の関心事だったのです。そんな彼のもつ哲学とはいったいどんなものだったのか?実は、それはいたって簡単な俗にプラグマティズム(実用主義)と言われるものでした。
<プラグマティズムとは?>
プラグマティズムとは何か?
それは先ず、終わりのない形而上学的議論をどのように解決するか?そのための方法論の一つと言えます。そしてそれはあくまでも実用的、具体的で実行可能な範囲で人間、世界、地球をとらえ、問題を解決しようと言う考え方です。
「チャペックの寓話は古典的アレゴリーや寓話の一義性とは区別される。つまり相対主義的なのである。彼の寓話はそのほとんどが自分が正しいと信じている者たちの固定観念や過度の自身を揺るがそうとしている。・・・」
イヴァン・クリーマ(チェコの作家)
<新聞社への就職>
大学を出たチャペックは、翻訳の仕事などを手がけましたが、それだけでは生活は困難でした。幸い医者として現役の父親からの仕送りもありましたが生活のため彼はチェコ人貴族の家庭で家庭教師をするなどしていました。
しかし、1917年やっと彼は安定した仕事につくことができます。それは新聞への執筆というその後、彼が一生続けることになる仕事の始まりでした。彼が就職したのは、当時独立前のチェコで唯一発行が許されていた新聞「国民新聞」。そこで彼は論説文を執筆することになりました。
チェコの独立後、国内の経済が悪化、社会的不満が増大するとともに社会民主党内で共産主義勢力が急激に力をのばし、ついには革命を起こすための闘争を始めました。結局この運動は政府によって抑え込まれますが、逆に政府は民族主義的、右派的な方向へと向かうようになります。
こうした政府の動きに対し、左派勢力に批判的な記事を書いていた彼もしだいに不安を感じるようになります。そのため、保守的な姿勢を強める「国民新聞」にも嫌気がさした彼は1921年兄とともにチェコでは唯一、自由主義的で客観性を保ち続けていた新聞、「民衆新聞」に移籍をしました。彼はこの新聞社での仕事を愛し、経済的に余裕ができて以後も執筆を続け、死ぬまでここに籍を置くことになります。
<劇作家チャペック>
チェペックのもうひとつの顔、それは劇作家として演出家としてプラハのヴィノフラディ劇場で働く演劇人としてのそれです。1920年、彼は戯曲「愛の盗賊」を発表。そして、ちょうどこの頃彼は生涯続くことになる複雑な恋のドラマの相手役17歳の女優オルガ・シャインプフルヴァーと出会いました。彼女との恋の物語は13歳もの年齢差やチャペックの女性への恐怖心、さらには彼が抱えた不治の病など、数々の問題によって紆余曲折を繰り返します。
しかし、何度かの別れと再会の後、ついに二人は結婚を決意します。残念ながら、結婚後彼に残された時間はわずかでしたが、二人にとってハッピー・エンドを迎えることになった恋物語によってチャペックの人生が幸福なものとなったことは確かです。そんな二人の恋の物語が始まって以降、カレル・チャペックは次々と戯曲や小説、エッセイを発表。その中から歴史的名作が生まれることになります。
1920年、彼が発表した戯曲「R.U.R.」は、そうした名作の中でも特に有名なものです。邦題ともなった劇中に登場する「ロボット」は、その後現実のものとなり、その名前は人類共通の言葉として歴史に刻まれることになります。
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