- 笠置シヅ子 Shizuko Kasagi 、服部良一 R. Hatter -

<ブギの女王>
 「東京ブギウギ」で有名な「ブギの女王」笠置シヅ子は、敗戦により沈みきっていた日本社会に元気を与えた戦後復興の象徴として歴史にその名を残しています。しかし、彼女が1955年、40代に入ってすぐに引退した後、けっしてマイクの前で歌うことがなかったことはあまり知られていません。(俳優、芸能人として活躍は続けたのですが・・・)
 「ブギの女王」はなぜマイクを置いたのでしょうか?J−ポップの原点ともいえる存在、笠置シヅ子の人生からは、戦後日本の様々な歴史が見えてきます。彼女が残した録音は、今でも古くなく十分に楽しめます。

<生い立ち>
 笠置シヅ子は本名を亀井静子といい、1914年(大正3年)8月25日香川県大田郡引田町に生まれました。生後すぐに彼女は養女として大阪の薪炭商、亀井乙吉の家に移り住んでいます。小さな頃から歌が好きだった彼女は、小学校を卒業すると後の松竹少女歌劇団の前進、松竹楽劇部の養成所に入り、三笠静子という芸名で活躍を始めます。
 1927年(昭和2年)に13歳で初舞台を踏んだ彼女はすぐに人気者となりました。彼女が芸名を笠置シヅ子と改めたのは1935年に大正天皇の第四子が三笠宮の称号を受けた後のこと。同じ三笠を名乗るのは恐れ多いということで、笠置に改めたとのことです。その後、東京に進出した松竹歌劇団に彼女は移籍。そこで戦後の歌謡界をリードすることになる作曲家、服部良一と出会います。いち早くジャズを歌謡曲に取り入れた作曲家と出会ったことで、彼女の運命は大きく変わることになりました。彼の曲を歌うことになった彼女は、「ラッパ娘」、「センチメンタル・ダイナ」などの曲を歌い、ジャズ・シンガーとして高い評価を得るようになります。

<苦難の時代>
 1930年代後半、日本は戦時体制に入り、しだいに反米感情が増す中で、「ジャズ」は敵性音楽として取締りの対象になり始めます。そして、ついには彼女自身も警察に拘束されたり嫌がらせを受けることになりました。1941年には松竹歌劇団も解散に追い込まれ、彼女は自ら楽団を率いて戦意高揚のための歌を歌はざるをえなくなります。それでも、彼女はその間、高田浩吉主演の映画「弥次喜多大陸道中」(1939年)や全銀座の芝居「鼻の六兵衛」(1944年)に出演したり、俳優としての活動も始めており、それが後に彼女に新たな人生をもたらすことになります。
 暗い時代ではありましたが、彼女にとってこの時代は短くも熱く燃えた恋の季節でもありました。戦火により家を失った彼女は、結婚の約束をしていた男性と一時的に同居することができ、彼の子供をお腹に宿すことになりました。ところが、その男性、吉本興業社長せいの一人息子、頴右は、終戦後、すぐにこの世を去ってしまい、彼女は未婚の母として子供を女で一つで育てることになりました。愛する人の死から一ヶ月後に生まれた子供のためにも彼女は悲しみから立ち上がる必要がありました。出産から4ヶ月後の1947年10月、彼女は日劇の舞台で「東京ブギウギ」を初披露し、新たな人生のスタートを切ることになりました。当時、彼女は子供のためにも、歌手としてなんとしてでも成功する必要があったのです。

服部良一と「東京ブギウギ」>
 洋楽的な日本のポップス第一号ともいわれるこの曲の作曲者、服部良一は、この曲に「何か明るいものを、心からうきうきするものを、平和への叫び、世界へ響く歌、派手な踊り、楽しい歌・・・」など様々な思いをこめていました。この曲はもともとは「ブルース」ナンバーとしてイメージされていたようですが、ある時、彼は中央線の満員電車に揺られていて、そこに8ビートのブギのリズムを感じました。これこそが日本に希望をもたらす曲になる!そう直感した彼はあわてて次の駅で電車を降りると、駅前の喫茶店に飛び込み、店のナプキンに音符を書きつけたのだそうです。

「服部良一が”ポップスの父”と呼ばれる理由はいくつかある。その第一が「東京ブギウギ」に始まる、8ビートのヒット曲の生みの親だったということ。そして、第二は、彼が戦時中でもジャズやブギウギという”洋楽”を書き続けていたことだ。彼は一曲も”軍歌”を書かなかったのである。」
(著)田家秀樹「読むJ−POP」より

 彼がR・ハッターというペン・ネームを用いて様々な洋楽タイプの曲を発表していたことは、戦後になって公になりました。こうした彼の音楽に対する姿勢は、戦中も戦後も変わることなく一貫していました。

「音楽には、クラシックとかポピュラーといった区別は本質的にはないというのがぼくの考え方で、とにかくいい音楽を大衆に親しんでもらいたいという気持ちからだった。この考え方はぼくの一生を通じて変わっていない」
 彼にとって音楽は最高の芸術であり、作曲もまた神聖な行為であると考えていました。

「音楽は天の与えた妙音であり、作曲とは神が与え給うものである。それに比べれば、絵画や彫刻や他の芸術は、かならずしも直接的に感動して涙ぐむほどの感銘を与えるものではない。ここに、絵画のような静的芸術と、音楽に代表される動的芸術のちがいにあるのだろう。
 真に人の心を打つものは、音楽の神秘性にまさるものはない・・・そこには、いわゆる純音楽と大衆音楽との区別はない。」


 その後、日本の歌謡界を代表する存在となる彼にとっても「東京ブギウギ」は、その生涯を代表する曲となります。当時としては珍しく地声で歌う彼女のユニークな唱法と少女時代から鍛えられてきたダンス・パフォーマンス、そして、自由の国アメリカをイメージさせる日本語の明るい歌詞。(この歌詞の作者、鈴木勝の父親は、なんとあの世界的な仏教哲学者であり禅の大家、鈴木大拙です!)これらを複合させたことで、「東京ブギウギ」は、時代を代表するヒット曲になりました。

「東京ブギウギ リズムうきうき
 心ずきずき わくわく
 海を渡り響くは東京ブギウギ」


 「東京ブギウギ」は翌1948年ミュージカル・レビューとなり日劇で上演されます。その人気は、進駐軍の兵士たちにも広がります。白人、黒人をとわず、彼女の人気は広がり、それが後に彼女のアメリカ公演を実現させるきっかけとなります。
 この後、「買い物ブギー」、「ジャングル・ブギ」、だけでなく「博多ブギウギ」、「大阪ブギウギ」、「北海ブギ」、「名古屋ブギー」・・・などのご当地ものまで様々なブギナンバーが生まれることになりました。
 さらには、彼女の人気にあやかるように一人の少女が「河童ブギウギ」で1949年にレコード・デビュー。それがあの美空ひばりです。さらには同年12歳の少女が「ヘイヘイ・ブギー」や「東京ブギウギ」のカバーで歌手デビュー。後に江利チエミと名乗ることになる久保智恵美です。こうして、「ブギー」の一大ブームは、次なる世代のアイドルたちに登場のきっかけを与えることにもなりました。

<「ジャングル・ブギ」>
 「東京ブギウギ」の大ヒットにより人気アイドルとなった頃、あの映画界の巨匠黒澤明から彼女に出演のオファーがきます。次回作となる「酔いどれ天使」の中で歌を歌ってほしいというものでした。
 映画の中で彼女は、主人公のひとり三船敏郎が足を洗いかけていたヤクザの世界とアルコールの泥沼に再びはまってしまう場面。そこで彼女は「魔性の女」的存在としてバーのステージでブギを歌うという設定でした。黒澤は、そのための曲「ジャングル・ブギ」の歌詞を自ら書き、雌豹のような女性がエロチックに男をつかまえる様子を描いたといいます。しかし、この曲の歌詞を見た彼女は、そのまま歌うことを拒否。歌詞を変更させたといいます。

「高度なモダニズムが高度なモダニズムたろうとするためには、低級な他者とみずからを区別する必要がある。その最たるものがポピュラー文化だ。戦後日本を代表する作家主義の監督という打ち出しのために、黒澤はポピュラー文化の低俗性を、まさしく自分自身をそこから区別するために必要としていた。・・・」
マイケル・ボーダッシュ(著)「さよならアメリカ、さよならニッポン」より

 ジョセフィン・ベイカーらのエロチックでソウルフルな音楽とパフォーマンスにより、ジャズのもつ魔力を表現したい黒澤の狙いに彼女は反発したようです。これは21世紀になった今でも変わらないことですが、女性アーティストはどんなに優れたパフォーマンスを見せても、そこに性的商品としての評価を受けざるを得ないという事実が存在しています。そうでなくとも、「未婚の母」でありセックス・シンボルでもあった彼女は、パンパンや米兵の間で人気が高かったのですが、本人は古風なタイプの女性であり、そうした見られ方に不満を感じていたようです。「酔いどれ天使」を見るとわかりますが、その中の彼女のパフォーマンスは、決してエロティックでもセクシーでもないと思います。大きな口を開けて歌う彼女の歌い方は、なんだかわざとセクシーさを拒否しコメディー・タッチの演技をしているように見えます。こうした、セックス・シンボル的な扱いは、彼女にとって重荷となり、それが後の引退につながったとも言われています。

<「買い物ブギ」>
 1949年、彼女はミュージカル映画「銀座カンカン娘」(監督は島耕二)に主演し、高峰秀子らと共演。本格的に女優としても活動するようになります。そして、彼女はブギの大ヒット曲となる「買い物ブギ」を発表します。この曲が異色なのは、大ヒット曲のほとんどが標準語であるのに対して,この曲はあえて大阪弁を用いています。そのうえ、この曲は、ほとんどの歌詞が欲しい商品の名前の羅列という不思議な曲でもあります。この曲のシングル盤は3分程度の長さですが、ライブで彼女はアドリブによりそれを6分程度にまで伸ばしていたといいます。
 「ブギウギ」という音楽がアメリカからの輸入で、そこに当時日本の女性たちが夢見ていた「買い物熱」を注ぎ込むことで、この曲はこれから日本が向かうことになるアメリカ式の大量消費社会を暗示していたともいえます。
 1950年、彼女は服部良一とともにアメリカ・ツアーを行います。公演は、ハワイをへてカリフォルニアへ、さらにアメリカを横断してニューヨークでも行われました。帰国後、彼女はその旅をネタにした曲「ロスアンゼルスの買物」を発表します。「アメリカでおみやげに買った品物が安くて良かった、と思いながら製品表示をみると、どれもメイド・イン・ジャパンだった」というオチのその曲は、まさに彼女ならではのノベルティ・ソングです。

<突然の引退>
 当時、海を渡ってアメリカで公演を行うというのは、今では考えられない偉業でした。文句なしに彼女は日本を代表する歌手だったといえます。ところが、1955年、彼女は突然歌手を引退します。ブギウギ・ブームは去り、マンボやチャチャチャ、それにR&Bのブームへと時代は変化していましたが、彼女ならそうした流行の変化についてゆくことは可能だったでしょう。しかし、彼女は歌手を引退し、バラエティー・アイドル、俳優として生きてゆく道を選びました。
 「さよならアメリカ、さよならニッポン」の中でマイケル・ボーダッシュは、彼女の引退は作り上げられた「ブギの女王」のイメージと自分自身のギャップの大きさに耐え切れなくなったからで、かつて山口百恵が自らのイメージを嫌ってあっさりと引退してしまったのとに似ていると書いています。さらに彼はこうも書いています。

「肝心なのはユーモアのようで。笠置は曲のなかでくり返しセクシャルな肉体を演じるが、同時にぼくらは彼女がその役割から距離を置き、笑っているのを感じ取ることができる。・・・」

 僕は、彼女が引退してから、いろいろなバラエティー番組などに出演しているのを見ましたが、まさに「大阪のオバチャン」といったキャラクターでした。そして、それこそが彼女の自然体だったのでしょう。歌と踊りが大好きな大阪のオバチャンは、40歳という年に普段着の自分にもどったということなのかもしれません。
 「大阪のオバチャン」といえば、ジャズ界の綾戸知恵がなんだか似ているように思えるのですが、・・・彼女の場合、「大阪のオバチャン」キャラと「ジャズの女王」キャラをステージの上で見事に演じ分けています。それができるのは、ジャズという音楽が大人の音楽として十分に認知されるようになったからかもしれません。現代は、カリスマ的なアーティスト不在の時代かもしれませんが、その分、アーティストは自分に正直に生きることができるということかもしれません。

<参考>
「さよならアメリカ、さよならニッポン」 2012年
(著)マイケル・ボーダッシュ
(訳)奥田祐士
白夜書房

「オリジナル盤による懐かしの針音 笠置シヅ子」ライナーノーツ 1985年
(著)池田憲一
日本コロンビア

「読むJ−POP」 2004年
(著)田家秀樹
朝日文庫

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