昭和の男を演じ続けたカリスマ


- 高倉健 Ken Takakura -
<昭和日本の象徴>
 「昭和の日本映画」というよりも「昭和日本の男」を象徴する存在。それが高倉健さんだと思います。60年代には、ヤクザ屋さんだけでなく過激派の学生からも支持され、誰もが男の生き様としてこうなりたいと思わせる男性像を演じ続けました。映画界の誰もが「健さん」を慕い、そのカリスマ性は唯一無二だったと言えます。そして、様々な謎を残したまま、彼はこの世を去りました。

<高倉健誕生>
 高倉健は、1931年(昭和6年)2月16日福岡県中間市に生まれで、本名は小田敏正といいます。戦時中海軍の軍人だった炭鉱労働者の監督の父親と教師の母親のもと、九州らしい厳格な家庭で育てられました。ただ少年時代は住んでいた環境のせいか病弱で肺を患う病弱な子供でした。戦時中、中学生だった彼はギリギリ戦争に行かずにすみ、14歳の時に終戦を迎えましたが、多くの知り合いを戦争で亡くした思いは強く残りました。
 戦争が終わると、多くの進駐軍兵士が街に現れたことから、英語に興味を持ち始めます。そして、東筑高校に入学すると、学内に英語部を創設するほど英語にはまりました。その後、明治大学の商学部に入学し、東京へ向かいます。
 大学では、合気道部に入部して体育会系の青年に変身し、女郎屋通いまでする遊び人になっていたとか!ちょっと驚きの青春時代だったようです。
 しかし、大学卒業後、まだ終戦後の不景気が続いていて就職先がなく、一時は福岡に戻り、実家が始めていた採石業を手伝うことになりました。ところが、学生時代からつき合っていた恋人との結婚を両親に反対されたことから、再び家を出て東京へと戻ります。
 1955年(昭和30年)、大学時代の知人の紹介で美空ひばりなどが所属する新芸術プロダクションのマネージャーとなるため、事務所近くの喫茶店で面接を受けることになりました。ところが、その喫茶店にたまたまいた東映東京撮影所の所長だったマキノ光雄が、彼を見て俳優にスカウト。こうして、東映第二期ニューフェースとして、彼は俳優としてデビューすることになりました。

<いきなりスター俳優へ>
 高倉健のデビュー作は、1956年公開の「電光空手打ち」というアクション映画でいきなりの主役でした。合気道だけでなく、ボクシングや相撲の経験もあった彼は、時代劇のスターではなく、現代劇のスタートして華々しい活躍を開始します。デビューして一年目で、アクション映画だけでなく、コメディー映画、刑事ものなど様々なジャンルの11作品に出演しています。
 「流星空手打ち」、「大学の石松」シリーズ、「血まみれの決斗」、「台風息子」シリーズなどの他にも、美空ひばりの相手役として「青い海原」、「娘十八ご意見無用」、「希望の乙女」などにも出演しています。
 1959年、彼は同じく大スターとして活躍していた江利チエミと結婚します。夫婦仲は円満だったようですが、その後1971年に江利チエミの異父姉の横領事件がきっかけとなり離婚に至ります。その後、彼は二度と結婚しませんでした。
 その間も、彼は映画界で大車輪の活躍を続けていますが、映画界は少しづつ斜陽の時代に突入。彼の役柄はしだいにヤクザ者へと偏り始めます。
 「静かなる凶弾」、「獣の通る道」、「天下の快男児 万年太郎」シリーズ、「暴力街」、「ジャコ萬と鉄」、本格的な仁侠映画「日本仁侠伝」などに出演。助演作品の「人生劇場 飛車角」は大ヒットしました。

<「網走番外地」シリーズ>
 そして、彼の人気をトップに押し上げた石井輝男監督作品「網走番外地」(1965年)が公開され、シリーズ化。どの作品もヒットしたため、シリーズは18作まで続くことになりました。当初、この作品は2本立て映画のオマケ的作品として製作されたため、予算が少なく、カラーではなくモノクロでの撮影になりました。さらに北海道でのロケーション撮影も予算削減のために厳しいスケジュールが組まれ、スタッフは寝る間もない忙しさと厳寒の中、過酷な撮影が実施されました。しかし、健さんも含めスタッフ一同は、そんな逆境に逆にやる気を出し、それが迫力のあるアクション映画を生み出す結果に結びつきました。
 彼はこの映画で主演だけでなく、主題歌まで歌いますが、その歌「網走番外地」は歌詞がヤクザを美化した内容であると批判され、ラジオでの放送が禁止されました。それでも映画館での予告編で使用されて話題になり、有線放送で火が付き売り上げが急増。映画のヒット共にレコードも売れ、最終的には200万枚を売り上げる大ヒットとなりました。

<義理と人情の男>
 健さん主演の正統派の仁侠映画「昭和残侠伝」(監督は佐伯清)も大ヒット。これもまた全9作のシリーズとなり、仁侠役者としての健さんのイメージを決定づけることになりました。このシリーズのテーマ曲となった「唐獅子牡丹」もまた大ヒット。矢野亮と水木一狼による歌詞は、子供にまで浸透することになりました。
「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界・・・・」
 いよいよ健さんは、「義理と人情」が失われゆく日本において、近代化によって失われつつある日本的美意識の象徴としてカリスマ的存在になって行きました。映画館を出る観客たちの後姿がみな肩で風を切る仁侠風ウォーキングになっていたのが、まさにこの頃でした。
 不条理な仕打ちに耐え続けながら、なんとか筋を通そうとする健さん演じる主人公。そんな彼が最後の最後に暴力に訴えるしかなくなる展開に対し、映画館の左翼学生たちがそろって「異議なし!」と叫んだのは有名な話です。偶然ながら、仁侠映画のブームは学生運動が行き詰まった1970年代に同じように終わることになりました。そして、健さんの出演作品も数が限られるようになります。
 「ゴルゴ13」や「新幹線大爆破」などの新路線への挑戦も行われますが、映画界自体が大不況時代に突入したため、出演作が激減。彼はヤクザから足を洗うために東映を離れる決心をかためます。こうして彼は1976年長くお世話になった東映を離れ、自らのキャラクターを生かせる映画を自ら選んで出演できるようになります。そのため、数は少なくとも多くの名作に出演することができました。
「君よ憤怒の河を渡れ」、「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」、「野生の証明」、「冬の華」、「動乱」、「遥かなる山の呼び声」、「駅 STATION」、「海峡」、「南極物語」、「居酒屋兆治」、「夜叉」、「ブラック・レイン」、「あ・うん」、「ミスタ―・ベースボール」、「忠臣蔵四十七人の刺客」、「鉄道員 ぽっぽや」、「ホタル」、「単騎 千里を走る」、「あなたへ」
 いずれも興行的にもヒットし、質も高い作品です。

 2014年11月10日、健さんは悪性リンパ腫により83歳の生涯を閉じました。彼はこの間、ごく一部の親しい人以外には入院したことも告げなかったと言います。彼はプライベートだけでなくその死まで秘密にしたのです。秘密はそれだけではありませんでした。彼の死後、隠されていた養女の存在も明らかになっています。昭和最後のカリスマ俳優には、まだまだ謎が残されているようです。

 高倉健は、亡びゆく日本の悲しい風景のなかに身を置いた。一人、すっくと立った。その姿にはいつも悲しみがにじんでいた。それは大仰に言えば、日本の近代史が背負った悲しみそのものと重なる。
 ヤクザとしての罪を背負い、様々な役柄でそれぞれ罪を背負った高倉健は、その罪をつぐなうために亡びゆく土地に住む人々のために働く役目を果たしてゆきます。

川本三郎「映画の戦後」より

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