「形見函と王妃の時計 The Grand Complication」

- アレン・カーズワイル Allen Kurtzweil -

<偉大なる混沌>
 この小説の原題は「The Grand Complication」。「偉大なる混沌」といった感じになるでしょうか。図書館を舞台にした異色の推理小説ですが、そこには殺人も強盗も、警察も探偵も出てきません。しかし、本が好きな人にはたまらない小説です。この小説は構造的に複雑で、その混沌さを売りにしているともいえます。そこで、この本の紹介はあえて「あらすじ」を書くように、解説を進めようと思います。もちろん、ネタバレにはなっていないのでご安心下さい。
 先ずは、冒頭に掲げられている文章から。

「読者は書物を失ったことで廃人になってしまった人々、書物を手に入れるために犯罪者となった人々のことを聞いたことがあるはずである。この領域こそは、秩序がなりたつとすれば、極端に不安定なものがバランスを取ることで初めて可能となるところである・・・すなわち、図書館の混沌を一方におけば、他方には図書館の目録の秩序がある。」
ヴォルター・ベンヤミン「イルミナシオン」より

 ある意味この小説は、初めから読者に「本好きであること」を求めているともいえます。そうでない方はご遠慮下さい、ということです。それではこのコーナーもそれをマネしましょうか。図書館を楽園と思わせる人のみ、ここから先をお読み下さい。

「楽園について賢者たちがどういうことを言っているか、承知しているのでね。つまり楽園は人を落胆させ、抑圧し、悲しませることもある - そして裏切ることさえこれまでにあったのだよ」
ヘンリー・ジェイムス・ジェスン三世

 本好きにとっての楽園である図書館、それもニューヨーク公共図書館という世界でも屈指の図書館で働く司書アレクサンダー・ショートがこの小説の主人公です。両親を小さな頃に亡くした彼は、孤独な少年時代に本を唯一の友として育ちました。

「・・・本当の両親が実際に死んでいるのかどうか、長い間疑問に思ってました。その墓に連れていけと駄々をこねたこともあります。当時六歳でした。墓地に着いたとき、その墓まで歩いてゆくのにひと騒ぎ起こしたそうです。上を踏むと向こうが痛いんじゃないかと怖くなったんです。墓石の傍らに座っていたことは今でも覚えています。墓石は開いた本の形をしてました。一時間ほど、そこに刻まれた文字をただ指でなぞっていたはずです」
「それが本についての最初の記憶かね」
その質問には虚を突かれた。
「おそらくは」

ショートとジェスン三世の会話より

 そんな彼にとっての楽園が図書館だったのは当然でしょう。そして、その図書館という迷宮のような場所に完璧な秩序を与えているのがメルヴィルが生み出した分類法です。メルヴィルは彼にとって最初の英雄でした。
(「白鯨」のハーマン・メルヴィルではありません。メルヴィル・デューイ(Melvil Dewey, 1851年12月10日 - 1931年12月26日)は、実在の人物で図書館における書籍の分類法を確立した人物です)

「・・・ルーズリーフ・バインダーを発明したのはメルヴィルですし、縦置型ファイリングも発明してます。それにはもちろん、現在世界中で使われている十進分類法システムがあります。移動図書館のアイデアを発展させたのはメルヴィルだったことはご存知ですか。おそらく知識を広めることに関しては、ビル・ゲイツよりも上でしょう」
アレクサンダー・ショート

 その後、彼は大学で生涯の師となるシャランスキィ教授と出会い彼から与えられた言葉を胸に図書館で司書として働くことになったわけです。

「学問への集中と知識を得る喜びがあれば
 あがきの体験はすべてのものにとっての財産となり
 正義は情熱へと変身する」

ブレヒト

 もちろん「本オタク」なのは彼だけではありません。この小説の面白さは、とにかく登場人物全員が本もしくは何かのオタクであることです。それぞれが個性的で、奥の深い知識をもっていることで、この小説は、深い奥行きと様々な隠し扉や引き出しを持つ立体的なパズルのような構造をもつことになりました。
 その名もズバリ、パラディス(「楽園」)という名の保守点検スタッフは、図書館の地下に寝泊りしているこの施設の主のような存在です。そして、彼は誰よりもこの図書館に納められている本の場所についても詳しい人物です。

「なにか興味のあるものをあげてごらん」
「なんでえ」
「何でもいい、とにかくあげろ」ガキは一瞬考えた。
「ヘヴィ・メタル」間髪いれず、パラディスさんが言った。
「鉱物学の方か、音楽か」ガキがギターを弾くまねをする。
「だったら『ロック・ミュージック』のところで、ロック・ミュージックは781・66じゃ」
「今パラディスさんが言ったのは」ぼくは説明した。
「出されたテーマがデューイの十進分類法であてはまる番号だよ」


 アレクサンダーの調査を助ける同僚の二人、ノートンとスペートの存在も忘れられません。

「・・・しばらくすると、どれも皆同じに見えだした。役に立たない本を数十冊も積み上げたところが、いきなり、ノートンの調査研究の第一法則を地で行っているのを実感した。調べれば調べるほど、学ぶことは少なくなる、という法則だ。」

 こうした様々な人物が登場する物語が展開する「図書館」もまたこの小説の主人公の一人というべきかもしれません。それはまるで複雑な心の内をもち、肉体としての機能もあわせもつ一人の人間のような構造をもつ存在として描かれています。

「書庫と『地獄篇』の間の実際上のつながりは、ぼくがセイバートゥースたちにもらしたものよりも手がこんでいる。ダンテの冥界もわれわれもどちらも九層から成りたっている。どちらも時代を通じて神話上歴史上の名士を封じこめている。どちらも悪行、破廉恥、悪意に満ちた膨大な語句を含んでおり、どちらも言葉をもとに築かれている。しかし、ひとつだけ重要な違いがある。図書館の書庫はダンテの宇宙秩序に厳密に沿うことはできなかった。したがっていわば、われわれは<混沌>でまさっていたためにわれわれの地獄はより非道なのだ。」

 この小説で主人公は、十八世紀につくられたある謎の発明を形見の仕切り函の中に空白を埋めるために調査と推理を展開します。この小説自体が形見函というパズルの空白を埋める物語なわけです。
 そして、この主人公を動かし、その謎に迫ろうとする函の持ち主である謎の老紳士ヘンリー・ジェイムス・ジェスン三世こそ、この物語の中でも最も謎めいた人物です。
 彼は図書館に現れるとアレクサンダーをつかまえて、「秘密の仕切り」という本を借ります。そして、少しずつ彼に近づき、彼の興味を引きながら彼に自分の調査を手伝わせるようになります。

「きみがいま嗅いでいるのは、聖者の香り以外のなにものでもないんだ、アレクサンダー。そして、皮肉な顔をする必要はどこにもない。わたしは心底まじめに言っている。エジプト学者のハワード・カーターはトゥトアンクアメンの墓を掘り抜いた時、その一服を嗅ぎ、そして王朝の熱い空気が吹きかかった。黄金の最初の煌きを目にするより前に、すでに匂いに圧倒されたことを書いている。それに例の農民の少年 - 死海文書を発見した少年はどうだ。洞窟内で粘土の瓶を割った時、同じように人を酔わせる空気が噴出するのを浴びたとい言われている。
「だから、アレクサンダー、もう一度、深く深く嗅いでみるのだ。そして嗅ぎながら、トゥトアンクアメンとクムランの宝物のことを考えるのだ」
 目を閉じ、ぼくは開いた皮の函に屈みこみ、もう一度鼻から息を吸いこんだ。
「今度は匂いがわかるかね。謎の過去の香りがわかるかね」
 ジェスンの弁舌のせいか、信じたいという欲求のせいか、あるいは過呼吸のせいか、ほんの束の間だったにしても、微かな、だが強力な驚異の匂いを嗅いだように思われた。


 もちろん、ジェスン三世もまた「空白」を見つけると、そこを埋めずにはいられないタイプのオタク老人でした。

「不完全な函から生まれれば物語も不完全となり、それはわたしがひじょうに嫌うところだ。単純になにかが欠けていることから空白恐怖症が発生するというだけでも十分にまずいことだ。しかし、なにかが失われた、あるいは消えたことから発生するとなると、これはもうまずいどころではなくなる。わたしの函はかつて全部埋まっていたのだ、アレクサンダー、そして運がよければ再び全部埋まることになろう。・・・」
ジェスン三世

 彼が住んでいるコレクションだらけの家、フェスタイナレンティがまた図書館以上に迷宮的世界になっています。様々なジャンルのコレクションの中に住むこの謎に満ちた老人は、ヘンリー・フォードの血筋に属する廃品回収で財を成した大金持ちを父に持ち、その生い立ちは謎に包まれています。

「わたしが何者かそれほど知りたいのであれば、周りを見てみたまえ。わたしの一生はわたしが蒐めたものの中になによりも雄弁に語られている。わたしはあの函を作った無名の人物によく似ている - 手元においているもの門地に規定されている」
「門地?」
「ものの背景にある物語だ。より典型的な言葉を使えば由来だな」

ジェスン三世

 こうして、ジェスン三世の助手として、謎の空間について調べ始めた彼は、その函の版画を収めた著者不明の著書「時間の書」を発見します。そして、その本からその空白に納められていたのは、あのフランスの王妃、マリー・アントワネットの懐中時計だったことが明らかになります。
 今、その時計はどこにあるのか?
 アレクサンダーは、その持ち主だった人物で時計オタクのサー・デヴィッド・サロモンズの存在をつきとめますが、その幻の時計は1985年に盗まれていたことがわかります。(この時計は実在しており、盗難事件も実際にあったことのようです)

「優れたブレゲ携帯時計を持ち歩くことは、天才の頭脳をポケットに忍ばせているように感じる」
サー・デヴィッド・サロモンズ

 誰がその時計を盗んだのか?アレクサンダーはその調査を始め、そこからマリー・アントワネット・オタクのクリストファー・ライオンズが浮上。さらに調査を進めるとその先にコンピューター関連の技術で巨額の財を成した人物フレデリック・R・シュトルツという人物の存在が明らかになります。
 彼は民営の科学技術博物館として世界最大規模となる施設<フレドリック・R・シュトルツ旧式機械アーケード>をオープンさせようとしていました。
 彼こそが真犯人なのでしょうか?
 もちろん、話はそう簡単ではありません。
 なぜ、ジェスン三世はアレクサンダーを助手に選んだのでしょうか?
 どうやら彼はジェスン三世の後継者として目をつけられたようです。

「何の後継者ですか?」
「わたしが持っているすべてのものと、わたしにないたくさんのものの後継者だ。つまり、わたしが埋めたいと思っていた空白はあの形見の函の空の仕切りだけだはなかった、と言っているつもりなのだ」

 それにしても、この小説はよくできています。謎の函の空白を埋める物語は、登場人物たちの心の空白を埋める物語でもあり、ジェスンという謎の老人の後継者を埋める物語でもあったわけです。
 しかし、最後にジェスンはその空白を埋める作業の中断についてこう語ります。

「今は、その必要性は和らいでいる。函が完成するということは、旅の終わりであることがわかりはじめたのだ。そして、わたしはわれわれの旅を続けたい」
<閲覧室>を出る時。、ぼくは目を上げて、壁に刻まれた引用句を指さした。
「アベント・スア・フォッタ・リベリ」 ジェスンが読んだ。
「ホラティウスは正鵠を射ています」 ぼくは言った。
「すべての本はそれぞれに宿命があるのです」


 この小説は、著者アレン・カーズワイルにとって、第二作となる長編小説で、処女作は1992年に「驚異の発明家の形見函 A Case of Curiosities」として発表されています。僕はそちらは未読ですが、どうやらこの第二作とつながる部分もあるようです。(もちろん、一作目を読んでいなくても十分にこの小説は楽しめます)
 そうそう、この小説は王妃の時計をテーマにしていることから、時計の針の一周360度に合わせて360ページの本になっています。(日本語訳もちゃんと360ページになっています!)

 ふと気が付いたことがいくつかあります。
 「時間」にこだわっているこの小説の主人公を救うことになる恋人の名前はニック。「ニック」といえば「Nick of Time きわどいところで」となり、映画や曲のタイトルでも有名なフレーズです。
 では主人公のショートは、「Short of Time 時間不足」となり、友人のノートンは「Naught ゼロ、無」、同じ友人のスペートは「Spate あふれるような、多量の」と見ることもできそうです。
 ジェスン三世の「ジェスン Jason」は、ギリシャ神話に登場するアルゴ探検隊を指揮して「黄金の羊毛」を持ち帰った英雄の名前に由来するのではないでしょうか。伝説的なコレクターというわけです。
 読む方も、ついつい深読みしたくなるこの本は二回は読みたくなり、そのたびに何かの発見があるはずです。本が好きな方は是非ご一読を!そうそう最後にこの本の仕掛け人とも言えるジェスン三世からお言葉を頂戴して終わります。

「絵を描くのは見る者
 本を書くのは読者
 タルトに味を与えるのはくいしん坊
 菓子職人じゃないんだよ」

ジェスン三世

「形見函と王妃の時計 The Grand Complication」 2001年
(著)アレン・カーズワイル Allen Kurtzweil
(訳)大島豊
東京創元社

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