- キャサリン・ヘップバーン Katharine Hepburn -

<元祖クール・ビューティー>
 恋多き女優、映画の中の主人公のように生きた伝説の女優は数多くいますが、一人の人間として男性と同じように闘い生きた女優の物語は第二次世界大戦前にはほとんどありませんでした。それは女性が平等に扱われていなかった時代には当然のことだったのかもしれません。しかし、戦後、女性の社会進出が進む中、女優たちが演じるキャラクターにも新しい「自立した女性像」が登場し始めます。そして、そうした社会状況に合わせるように「自立した女優」たちが映画界でも活躍し始めます。その中の代表的存在がキャサリン・ヘップバーンでした。
 女性のパンツ・ルックを生み出したのがフランスのデザイナー、ココ・シャネルなら、それを一般大衆に広めたのがキャサリン・ヘップバーンだったとも言われています。
 オードリー・ヘップバーンのようにかわいらしいタイプではなく、グレース・ケリーのような正統派の美人でもない彼女は、日本での人気、知名度はそう高くはないはずです。しかし、現在でも母国アメリカでの彼女の人気は非常に高く、特に女優の間での彼女の人気は圧倒的です。なぜそれほどまでに彼女の人気は高いのか?その理由に迫りたいと思います。

<生い立ち>
 キャサリン・ヘップバーン Katharine Hepburn は、1907年5月12日アメリカ東部コネチカット州ハートフォードに生まれています。父親は医者で、夫婦ともに熱心な社会活動家として地域でも有名な存在でした。婦人参政権運動にも積極的に関わっていた彼女の家の家訓は「意志の勝利」だったといいます。しかし、そのために彼女の家は、隣近所から特殊な一族と見られていたようです。だからこそ、父親は家族全員に対し、何事においてもトップに立つことを求め、彼女はそんな父親からのプレッシャーに耐えながら常にトップを目指す努力家の子供になってゆきました。
 彼女の兄トーマスもまたそんな父親からの教えに答えるべく、キャサリン以上に優秀な成績を収め続けていました。しかし、彼にはハンチントン舞踏病という持病があり、父からのプレッシャーと共に彼を押しつぶす原因となります。そして、彼女が16歳になったある日、大学進学を前にした彼は自宅で首吊り自殺をしてしまいました。兄の自殺死体を見つけた彼女は、その衝撃によりしばらくの間、学校に行けなくなりました。現実逃避のために、彼女はその間、映画館に入り浸る日々を過ごすうちに「俳優」という仕事に興味を覚えるようになります。

<結婚と映画デビュー>
 彼女は大学時代に出会ったニューヨークの証券ブローカー、ラドロウ・オグデン・スミスと結婚。経済的に恵まれ、夫からの理解を得て、彼女はブロードウェーの舞台にデビューすることができました。
 1932年25歳の時に舞台での活躍が認められ、映画「愛の嗚咽」でいきなり主役に抜擢されます。彼女は、父親から与えられた家訓を忘れることなく、トップ女優になるための努力を惜しみませんでした。そして、彼女には何より才能があったのでしょう。デビューして一年後、彼女は映画「勝利の朝」でいきなりアカデミー賞主演女優賞を受賞してしまいます。さらに同じ年、彼女は世界的な大ヒットとなった映画「若草物語」に主演し、一気に人気女優の仲間入りを果たします。(この映画のキャサリン役は、男勝りな彼女の少女時代そのものだったともいえます)しかし、スターになるのが早すぎたのか、彼女のその後の俳優活動は上手く行かなくなります。さらに夫との関係も上手く行かなくなり、1934年には離婚。そこからの5年間、彼女の出演作はどれもヒットせず、それまで彼女の魅力のひとつだった男勝りの性格や態度、ファッションに対する逆風が強まってゆきました。世の中とは厳しいものです。そんな時、彼女を救ったのは意外な人物でした。

<伝説の大富豪との出会い>
 なんとこの時代、アメリカで最も成功していた大富豪ハワード・ヒューズが彼女にラブコールを送ってきました。当時、彼は事業によって得た有り余る資金をつぎ込んで様々なジャンルに事業展開を拡大させていて、航空産業の分野にも参入しようとしており、「時代の寵児」と話題になっていました。(彼の半生はマーティン・スコセッシによって映画化されました。「アビエーター」)
 彼は次なる目標に映画界での成功を夢見ており、自ら映画の製作に乗り出していました。そんな中、彼はキャサリンと出会い、その性格のたくましさにほれ込みます。家庭の問題や実業界における様々なプレッシャーによって、彼が精神的に病んでいたことはスコセッシの映画「アビエーター」でも描かれていましたが、それだけに彼はキャサリンの強い人間性にひかれ、甘えたくなったのでしょう。逆にキャサリンにとっては、プレッシャーに押しつぶされそうになっていたヒューズが、自分が助けられなかった兄トーマスとダブって見えたのかもしれません。ヒューズはそんな大きな包容力をもつキャサリンとの結婚をのぞみましたが、キャサリンはそれを断わりました。そして、彼女はビジネス・パートナーとしての協力を彼に求めます。
 彼女はこうして得た資金をもとに自らプロデューサーとなり、新たな舞台劇の上演を計画します。それは、結婚か仕事かの間で悩む働く女性の物語「フィラデルフィア物語」で、彼女自身も台本作りに参加しました。それは自らの芸能界人生を賭けた勝負でした。等身大の新しい女性像を提示したこの作品は、予想以上のヒットになると同時に彼女に対する評価が一気に高まりました。当然、この舞台劇は映画化されることになり、ジェームス・スチュアートと彼女の主演によってできた映画版も大ヒットすることになりました。

<プロデューサー兼務の女優>
 こうしてプロデューサーとして評価されるようになった彼女は、その後、自らが作品を選び、相手役も選べるだけの力を得ることができました。(ジョディー・フォスターのように製作や監督を兼務できる女優の先駆が彼女だったわけです!)
 1942年、彼女は自らが企画した映画「女性No,1」の共演者として名優スペンサー・トレーシーを選びました。彼との共演作は、ジャーナリストとして活躍する主人公と同じジャーナリストの夫との関係を描いたもので、「自立する女性」というテーマを描いた先駆的作品でした。(このテーマも彼女がプロデューサーだったからこそ可能になったといえます)
 ちょうど時代は太平洋戦争の真っ只中でした。そのため、多くの男性が戦地に行ってしまったため、その抜けた穴を女性が埋める機会が増えていました。そこに登場したパンツ・ルックの「できる女」は、時代の象徴として受け入れられることになったのです。スペンサーとのコンビ作は、その後、「火の女」(1942年)、「愛はなく」(1945年)と続き、いつしか二人は恋におちます。しかし、スペンサー・トレーシーという名優にもまた心の闇が存在していました。

<名優スペンサー・トレーシーとの恋>
 子供の頃から敬虔なカトリック教徒として育てられたスペンサー・トレーシーは、一時は神父を目指すほど熱心なクリスチャンでした。しかし、その道を捨て、俳優の道に進んだことに罪悪感を抱えていたといいます。その上、彼には妻子がいて子供は耳が聞こえてないという障害をもっていました。障害のある子供とどうやって付き合ったらいいのか、そのことにも彼は悩んでいたようです。そのうえ、カトリック教徒である彼はもちろん離婚することができないので、キャサリンとの愛が深まるほど、彼は罪悪感に苦しむことになりました。そして、酒びたりの生活を続けるうちに、ついにはアルコール依存症になってしまいます。
 そんな彼とその妻子を気遣ったキャサリンは、二人の関係を徹底的に秘密にし、それから20年にわたり表立って逢うことを避け続けました。

<赤狩りの嵐の中で>
 1940年代後半、ハリウッドでは赤狩りの嵐が吹き荒れていました。非米活動委員会が共産主義に関わっている映画人をリストアップし、映画界からの締め出しを行いました。エドワード・ドミトリクやドルトン・トランボら「ハリウッド・テン」と呼ばれた映画人は、その犠牲となり映画界から追放されてしまいます。そうした動きに対し、共産主義者だけでなく、アメリカの自由主義を信じる人々からも批判の声があがり、3万人近い人を集めて行われた反対集会が開かれました。しかし、そこに登場した映画人もまたブラックリストに加えられることになるのは明らかでした。それでも、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコールらの自由主義者たちは、あえてその集会に出席。そして、キャサリンもまたそこに出席し、演説を行いました。

「私は今日、文化に向けられた攻撃について話したいと思います。文化人のひとりとしてではなく、アメリカ人のひとりとして話したいと思います。私は自由を奪おうとするあらゆる攻撃に抵抗します。すでに手にしている自由を守るために闘うのではありません。私たちの自由をさらに意義あるものに、さらに価値あるものにするために、私は闘うのです」

 しかし、こうした活動は彼女の仕事にも影響を与え始めます。彼女自身は共産主義者ではなくても、周りはしだいに彼女を敬遠するようになります。そして彼女への仕事のオファーは一気に減り始めます。それでも彼女は、同じように赤狩りに抵抗した映画監督フランク・キャプラやスペンサー・トレーシーとともに映画「愛の立候補宣言」(1948年)を撮りますが、まったく興行的には不発に終わります。再び不遇の時代を迎えた彼女にチャンスが巡ってきたのは、それから3年後のことでした。

<「アフリカの女王」>
 彼女は名匠ジョン・ヒューストン監督の映画でハンフリー・ボガートと共演します。アフリカを舞台にした冒険アクション・コメディー映画「アフリカの女王」(1951年)は、見事に世界中で大ヒットします。スタッフはみな彼女のことを認めてくれるメンバーで、なおかつハリウッドを離れて撮った映画が、彼女を再びスターの座に押し上げてくれました。しかし、彼女はこの後もあえて入りウッドに凱旋することを良しとせず、海外での映画出演にその後もこだわります。自分を追い出したハリウッドの映画界を彼女は簡単に許す気にはなれなかったのです。
 1961年、スペンサー・トレーシーが出演した大作「ニュールンベルグ裁判」が公開された頃、ついに彼のアルコール依存や暴力、そして妻との別居の事実がマスコミによって報道されてしまいます。(彼がこの映画に出演する際、彼女が撮影現場に送り出さなければ、彼は現場から逃げていたとも言われています)
 1963年、スペンサーはついに心臓発作で倒れ入院してしまいます。するとキャサリンもまた突然映画界から姿を消してしまいます。この時、彼女は大切な恋人スペンサーを看病する生活にその後の人生を捧げる決意を固めていたのでした。そんな彼女の強い意志のおかげもあり、スペンサーの健康は無事に回復し、映画に再び出演できるところまで復活します。こうして誕生したのが、もうひとつの名作「招かれざる客」です。

<「招かれざる客」>
 映画「招かれざる客」は、あるリベラルな白人家庭に娘が婚約者となる黒人の男性(シドニー・ポワチエ)を連れてくるところから始まります。まさか自分の娘が黒人と結婚するとは!と驚く両親。人種差別意識などもたないはずの家族が、現実と向き合い悩まされることになるという人種差別の問題を真正面から扱った内容の作品です。
 その主人公夫婦役をキャサリンは、病気から回復したスペンサーとともに演じ、彼女は二度目のアカデミー主演女優賞を受賞しました。しかし、スペンサーは、この映画の完成版を見ることなく、心臓麻痺によってこの世を去っています。自らの死をある程度覚悟していた彼にとって、それは幸福な最後だったかもしれません。
 とはいえ、見事な復活となるはずが、それを上回る大きな悲しみによって、喜びを奪われた彼女は愛する男性の死と共に女優としての活動も休止。一時は引退するのではないかとも言われました。しかし、やはり彼女にとって俳優という仕事は人生そのものだったのでしょう。再び、映画界にもどります。

<「冬のライオン」、「黄昏」>
 1968年、彼女は映画冬のライオンで三度目となるアカデミー主演女優賞を獲得します。そして、その後も、歴史劇の名作「トロイアの女」(1971年)、ジョン・ウェインと共演した西部劇「オレゴン魂」(1975年)など、本数は少ないものの名作に出演続けます。そして、彼女は4度目となるアカデミー主演女優賞を「黄昏」で受賞することになります。
「黄昏」(1981年)
(監)マーク・ライデル(出)キャサリン・ヘップバーン、ヘンリー・フォンダ、ジェーン・フォンダ
 この映画もまた、映画史に残る名作となりましたが、その裏にはそうなるべき真実のドラマが隠されていました。
 この映画の撮影が始まる時、すでにヘンリー・フォンダは余命わずかといわれていました。そして、そんな父親を支えるべき娘のジェーン・フォンダは、かつて自分の母親を自殺へと追い詰めたヘンリーの不倫に対する恨みから、家族としての絆を断ち切ったままでした。それだけに、彼女にとってこの映画は家族の絆を取り戻す最後のチャンスだったのです。キャサリンは、そうしたヘンリーの家庭の問題も知っていただけに、この映画の撮影でも彼女の仲立ちは重要な役目を果たしたようです。映画の撮影後、ヘンリー・フォンダは長い俳優生活で初のアカデミー主演男優賞を受賞することになりますが、その授賞式に彼は出席することなくこの世を去りました。彼の死を知ったキャサリンは、すぐにジェーン・フォンダに手紙を書いています。

「親愛なるジェーンへ、長い闘病の末、とうとう人生の幕が下ろされたのですね。心を引き裂かれる思いでいることでしょう。でも一方で、ヘンリーに平和が訪れたことに感謝しているのではないでしょうか。あなたがヘンリーに、喜びと尊厳を与え、彼が、あなたへの愛に満たされていたことは、なによりも素敵なことだったと思います。・・・・・」

 この手紙を書いた時、彼女はすでに自分自身も74歳になっていました。男勝りでありながら、実は誰よりも優しい心配りのできる女性だったキャサリン・ヘップバーン。彼女はこうして生きながら映画界の伝説となり、2003年6月29日96歳という高齢まで生き、その長い人生にピリオドを打ちました。
 4度もアカデミー賞を獲得していながら、彼女に対する怨みやバッシングの声はまったくなかったようです。それ以上に彼女は多くの女優たちにとって目指すべき最高の俳優であり、女性として生きる人々にとっても生きる目標のひとつとして輝き続けているのです。
 誰もがこんなにかっこよくて優しい人間になれたら・・・世界はどれだけ変わることでしょう。どんなに偉大な男性とも違う生き方を彼女は示したのかもしれません。正直、僕はこんな女性が大好きです。(最近ならマドンナがそんなタイプの女性かな?)

<男性より女性から支持された最初の女優?>
 ハリウッドの女優さんたちは、長い間、男性優位社会の中で、男性ファンから支持を得ることでスターとして認められてきました。その意味で、彼女は男性よりも女性から支持されることで、スターになった最初の女優かもしれません。そのため彼女が活躍し始めた当初は、その人気は今一つで、彼女が出演する映画は当たらないというレッテルを張られた時期もありました。それは彼女が、当時の男子たちが求める女性像とはまったく異なっていたせいかもしれません。

 実際、彼女の魅力は、男に追いかけられるのではなく、男を追いかけてつかまえてしまうところにあるのだ!1938年のハワード・ホークス監督の「赤ちゃん教育」は、そんなキャサリン・ヘップバーンの魅力が最高度に発揮された抱腹絶倒喜劇だ。その追いかけぶりたるや、男の後を追っているかと思いきや、いつの間にかすばしこく男の前にまわって罠を仕掛けているという早業である。・・・映画は当然のように当たらなかった。戦前のキャサリン・ヘップバーンが、1933年の映画出演第三作「勝利の朝」でアカデミー主演女優賞を受賞しながら、ヒット作に恵まれず、「Box-Office Poison 興業の毒」女優とまで呼ばれてハリウッドから敬遠されて、一時は追放されてしまうのも、そんなところに原因があったのかもしれない。
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