「見仏記 Visiting Images of Buddha」
- いとうせいこう、みうらじゅん -
<仏像ブームの火付け役>
いとうせいこう、みうらじゅんのコンビ(プラス装丁は安西肇)による仏像ブームの火付け役となった名著です。常に時代の先を行くコンビは、先を急ぎすぎて一周して奈良時代に戻ってしまったようです。面白いのは、二人は現代人としてではなく大昔の旅人の気持ちになって仏像を見る、というコンセプトによるタイムトラベル的な旅行記になっていることです。ただし、「仏像オタク」ではない僕は出版当時はこの本を完全にスルーしていました。
正直、歴史の浅い北海道の住人にとって「仏像」は縁遠い存在です。(高校の修学旅行では京都に行ったのですが・・・)とはいえ、そんな僕でも、この本は面白かった。さすがは「せいこう&じゅん」のコンビです。読みながらクスクス笑いが絶えませんでした。
例えば、中尊寺金色堂入口にて拝観チケットを見ながら、まずみうらさんがこう言います。・・・二人のあうんの呼吸が楽しい。
「この写真からすると、ここにはさ、アバの曲が合うとみたね」
俗的ではあるがよく出来てる、という意味なのだろう。・・・
ただし、この本は面白いだけではありません。「日本文化と海外との関係」、「仏像とは何ぞや?」、「時代と仏像」、「人は死とどう向き合うべきか?」まで、シリアスに考えさせてもくれるからです。ここでは、そんな中から特に気になったところをいくつかご紹介させていただきます。
<仏像はミュージシャンである!>
「ボクの考える仏像たちはミュージシャンたちです。
彼らは極楽浄土からやって来て、お堂でコンサートを開いている。彼らはみなスーパースターで老若男女の心をつかむことで離さない。カッコイイ!!」
メイン・ボーカルは薬師如来像。四天王は警備担当。ビルボードのヒットソング集は般若心経。サイン帳は朱印帳・・・・
いいでしょう?こんな調子で見事な解説が展開されてゆきます。
<仏像は人間ではない!>
「ボッロボロの仏像を修復しないのってさあ、・・・教えかもしれないよ」
”仏像を制作当時の姿に戻せ”という主張を持ったみうらさんが、何を言い出すのだろう。
「いずれはお前らもこうなるんだぞって言ってるんだよ。ボッロボロになるぞって」
「ああ、そういう教えね」
私は笑って答えた。そんな教えのために仏像を作る人はいない。
みうらさんは続ける。
「だって、年とったからってさ、人間は修復出来ないもん」
普段何気なく見ている仏像も、意図して修復しなかったり、過去の姿にリニューアルしたり、いろいろなパターンがあるようです。これは仏像に限らず絵画などの美術作品すべてに当てはまることだし、古典文学の翻訳や改訂についてもいえる問題です。(サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の翻訳は、誰のが面白いのか?オリジナルに近いのか?)
音楽についても、オリジナル作品とスタジオ編集前の録音との関係にもあてはまります。例えば、ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」のオリジナル・バージョンはどれか?(ポールはオーケストラのバックをつけたくなかったといいます)
もし、すべての仏像が完成時の姿に戻されたら・・・たとえオリジナルに近づいたとしてもけっこう田舎臭くてがっかりかもしれません。
<仏像とは宇宙である!>
ここを訪れた者は誰でも、何かしらの”世界”を感じるはずだ。宗教者はそれを宇宙といい、マンダラと呼び、あるいは蓮華と表現するのだろうが、私はひとまず”広大な範囲にわたって枠づけられた、ある緊密なまとまりを持つネットワーク”と名指しておくことにする。
そのネットワークの全貌(世界)を把握することは、おそらく人間の脳に埋め込まれた本能的な快楽だ。それを知の喜びと言い換えてもいい。だが、それ以上に、人は”全貌”の存在それ自体に興奮するのだ、と私は思う。・・・
すぐれた絵画には、作者が生み出した「宇宙」がとじこめられているものです。別に「ゲルニカ」のように巨大な作品でなくても、フェルメールの作品のように世界の一部を切り取った小さな作品でも同様です。そんな視点から見るとお寺とその中に収められた仏像ほど「宇宙」を感じさせる空間はないかもしれません。そう思って、お寺の中をもう一度見直すと見え方はちがってくるはずです。
<土産物屋はタイムトンネルだ!>
「ほら、またBUCK-TICKのポスター。いまだにジェームス・ディーン物もあるんだよねえ。売れるのかね。でもさ、いとうさん。」
奈良出身のみうらさんは力説し始めた。
「結局、寺とか仏像関係のみやげが少ないんですよ。修学旅行狙いっていうのもあるんだけど、京都自体が仏(ブツ)に関心薄いってこともあってさ。むしろ、庭なんだよ、京都は」
「あっそうか。京都にとっての京都のイメージって、当然あるんだもんねえ」
「だから、俺、三十三間堂とか東寺に奈良の匂いを感じるんだよね。奈良臭い。絶対、奈良は欲しがってるね。トレードしたがってる」
みうら氏の土産物屋の品ぞろえに対するこだわりがまた面白い。みうら氏にとっては、お寺と仏像が宇宙を形成しているように、土産物屋はその宇宙と現代を結びつけるタイムトンネルなのかもしれません。それは、それぞれの土地の現在と過去を結びつけるための重要な入口のではないかと、僕は思うのです。
<仏像はガイジンである!>
渡来したものが、その違和の力を保ち続けている。そう思って、私は愕然とした。いかにも日本的なイメージをまといつつ、その実、仏像は帰化しないガイジンであり続けているのである。それなのに、誰もがそれを忘れ、ガイジンを見つめて古都の情緒にひたっている。変だ。絶対に変だ。
自らの国を限りなくエキゾティックに彩ることで、まず自分の心の中のガイジンを満足させ、今度はそれを日本固有の伝統による文物だと言い張って自己確立しているのである。・・・
日本人の西欧に対するコンプレックスは今も昔も変わりません。しかし、昔の日本人は西欧ではなく最強の文明国である中国にコンプレックスを持っていました。そんな中国への憧れの象徴が仏像だった考えられます。
<明治時代に訪れた廃仏毀釈の時代背景について>
「ベンチャーズみたいなもんってことだよね、仏像は」
すごい簡略化である。思わず引き込まれた。
「何度も来日してくれるとさ、日本人は喜ぶじゃん。ガイジンがこの国を好きになってくれたって思って。でも、日本に住んでるらしいぜってとこまでくると、こんな国に住んでるなんてダサイって思うんだよね。向こうはやっと受け入れて愛してくれたって思ってもさ、その時点でもう日本人は内心馬鹿にしてるの。・・・・・」
ほとんど触れるようにして、私は宝冠阿弥陀如来像を見た。この土地(東北)の人たちも昔からこうして、触れるような距離の中で願い事をしたのだろう、と思った。その仏への近さは、”伝来もん”のエキゾティシズムとは違う気がしてた。
”伝来もん”には、必ず距離が必要なのだ。物理的な距離によって示される心理的な距離が、である。その距離こそがエキゾティックな感覚を保持するからだ。その意味では、奈良や京都の仏像が必ず拝観者から離されて置かれているのは、本来仏像保護のためでも、威厳を保つためばかりでもないのではないだろうか・・・
すなわち、伝来好きの風土(エキゾティズム)が、その配置を作り出したのである。
<仏像観光のルーツはガイコクジン?>
「一番重要なのは、いつから観光になったかってことだよね。
”ディスカバー・ジャパン”が当たったあたりかなあ。みうら説ではどうなの、そのへん?」
「っていうかね、最初は全体的な信心じゃん。それがさ、この病気にはこの仏とか、一対一の対応になってくる。それがさらに、フリーになった瞬間があるはずなんだよ。好きだから見るっていうような」
「つまり、俺たちの言葉で言えば”見仏”になった時ね」
確かに!かつて日本人は何かをお願いするために仏像を訪れたのです。それがいつの間にか観光を目的にして仏像を訪れるようになりました。
そのきっかけとなったのは、「ガイコクジン」の視点でした。明治初期にフェノロサなど西欧から来た文化人が美術作品の傑作として仏像を高く評価。これが海外(西欧)から注目されようになります。それにより、海外から日本の美を発見するために訪れる人が増えたために寺社仏閣を観光するルートを外国人向けにまとめたといいます。なんとそれが「お寺観光」という日本における観光コースのルーツとなったらしいのです。どうやら昔も今も「クール・ジャパン」ブームは海外からもたらされ、日本人はその後、外国人の後追いで仏像を作品として眺めるようになっていったようです。
戦前になるとやっと日本人自身による寺社仏閣の再評価が行われ始めます。和辻哲郎や亀井勝一郎などの評論家が日本人の立場から寺を巡りながら、それを作品として発表し始めたのです。 その後、1970年に国鉄が仕掛けた「ディスカバー・ジャパン」ブームと翌年の「アンノン族」登場によって、観光としてのお寺観光が旅行の定番コースとして定着することになり、現在に至っています。
旅行代理店大手の「JTB」も、もともと外国人の日本観光用の代理店としてスタートした企業なのだそうですから、日本の観光産業は外国人からの視点抜きにはあり得なかったのです。現在の世界遺産指定による観光ブームも、やはり外国人の目から見た観光の新しいコースといえるでしょう。
<仏像とは微笑みである!>
表情や様子は大切なもので、その形は人間の感情を支配する。気持ちがなごむから微笑むのではなく、微笑むから気持ちがなごむこともある。まるで奇妙な鏡のように、その如意輪は私に微笑みの形を教えているのだ、と思った。確かに、顔を見ると形を教えているのだ、と思った。確かに、顔を見ると途端にこちらの頬がゆるむ。なるほどなあ、とひとりごとが出た。これが仏像の力だったんだ。
”心”があふれ過ぎているからこそ、今こそブツ(仏)を見直しませんか。
そうなんです。仏像とは「微笑み」そのものなのです。だからこそ、それを見ることで、我々は「幸福」を感じることができるのです。そう考えると、常に微笑みをたたえている人は、生きながら仏の領域に迫っている人であり、多くの子供たちもまた「仏様」なのです。(機嫌のいい時は・・・という条件が付きますが)
残念ながら、僕はまだまだその領域には程遠いようです。なにせ「笑えない」時が多すぎます。
あなたはいかがですか?
もし、あなたが僕と同じように「微笑み」が不足していると思うなら、あなたもこの本を手に「見仏」に是非お出かけください!
「見仏記 Visiting Images of Buddha」 1993年
(著)いとうせいこう、みうらじゅん
中央公論社
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