「蹴りたい背中」、「インストール」

- 綿矢りさ Risa Wataya -

<さすがは大ベストセラー>
 読みやすいし、面白いし、新鮮だし、売れるのも当然です。と、今さらかよ!と言われても仕方ありません。私し、2012年になって初めてこの本を読みました。
 なぜ、今さら読んだのかというと、高橋源一郎の「ニッポンの小説2」の中で21世紀の新しい小説として取上げられていたからです。すいません。
 確かにこの小説は、それぞれの時代を代表する青春小説の一つとして高く評価されるべき作品だと思います。
 改めて考えてみると、映画やテレビ・ドラマの場合、主人公は決して一人ではなく、視聴者が登場人物の誰にでも感情移入することが可能です。しかし、小説、特に私小説的な作品を読むという行為は、物語の主体となる視点に読者が立ち、主人公となって物語を体験することです。必然的に、この小説を読む時は、誰もが女子高校生になることを求められます。したがって、たとえ50歳を過ぎているおじさんでも、やはり女子高校生にならなければこの小説は読めません。それはかなり違和感のある作業なのですが、それを可能にさせるのが、優れた作家というものです。映画「転校生」のように心と体が入れ替わるという物語には、大きな魅力があります。逆に言うと、それを可能にするからこそ、小説という古い文学形式には未だに魅力があるのかもしれません。
 素晴らしい小説とは、読者を違和感なく別世界に住む、別人へと「変身」させることができる文学のことなのです。優れた描写力によってリアルに描き出すことで、人はゴキブリのような虫にだってなりうるのです。確かに「虫」に変身することを思えば、女子高校生に「変身」する程度は、ごくごく簡単なことかもしれません。
 しかし、カフカに日本の女子高校生を描写させることは不可能です。21世紀の今、女子高校生を描かせたら、やっぱり綿谷りさなわけです。もちろん、21世紀も10年代に入ると、すでに「蹴りたい背中」の世界も古くなりつつありますが、それでもなお、青春小説として輝きを保っているのは、そこに描かれているテーマが「人とのリアルな交流」という普遍的なものだからでしょう。単なる風俗小説と、「人間」を描く目的で書かれた小説との違いはまさにそこにあるのでしょう。

<「インストール」>
 ネット世界を通しての人間関係とリアルな世界の人間関係を描いた綿矢りさの出世作。ネット社会が生まれたばかりで、まだ初期段階にチャット・ルームで風俗嬢の代理として働くことになった女子高生の物語。もとはといえば、その仕事の依頼主が隣に住む小学生の男の子というのがミソ。
 このお話は、21世紀型の「変身」といえます。当時、大人なのほとんどがついてこれなかったネット社会は、「変身」することで現状から逃れることを夢みる若者たちにとって最高の娯楽の場でした。21世紀に入ると、新たな違うスタイルの遊びの場として「ニコニコ動画」のようなネット広場が登場しますが、この時代はまだ「個」の遊び場がネット世界でした。

「まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでセックスも体験していない処女の十七歳の心に巣食う、この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう。歌手になりたい訳じゃない作家になりたい訳じゃない、でも中学生の頃には確実に両手に握り締めることができていた私のあらゆる可能性の芽が、気づいたらごそっと減っていて、このまま小さくまとまった人生を送るかもしれないと思うとどうにも苦しい。もう十七歳だと焦る気持ちと、まだ十七歳だと安心する気持ちが交差する。・・・」
「インストール」より

 彼女は現役高校生としてこの作品を発表。2001年の第32回文芸賞を受賞。一躍注目の作家となった彼女はブームに乗った一発屋ではないことをすぐに証明します。それが次の作品「蹴りたい背中」でした。

<「蹴りたい背中」>
 小説「蹴りたい背中」は、こんな文章から始まります。

「さびしさは鳴る。耳は痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独な音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりもするしね。葉緑体?オオカナダモ?ハッ。っていうこのスタンス。あなたたちは微生物を見てはしゃいでいるみたいですけど(苦笑)、私はちょっと遠慮しておく、だってもう高校生だし。ま、あなたちを横目で見ながらプリントでも千切ってますよ、気怠く。っていうこのスタンス。」

 いきなり読者は先制パンチを浴びせられ、一気に高校の教室へと引き込まれてしまいます。えっ?何ですか?この文章は?でも、面白そうだからいっか。
って、スタンスで。
 ここで描かれている高校生たちのように、人との間隔をとることに不慣れな著者たちが、とりあえず、笑顔でファースト・コンタクトをとるのは、今も昔もそう変わらないこと。ただし、昔よりも今の方が、より繊細。それは彼らが、自分たち同様に繊細な親たちによって育てられたからです。繊細な人々による繊細な育て方は、さらなる繊細な人々を生み出しています。このことは我が子を見ていても思います。だからこそ、彼らは瞬時にそんな繊細さが生み出す表情の変化を見逃さないのです。

「自分がやっていたせいか、私は無理して笑っている人をすぐ見抜ける。大きな笑い声をたてながら眉間にしわを寄せ、目を苦しげに細めていて、そして決まって歯茎を剥き出しそうになるくらいカッと大口を開けているのだ。顔のパーツごとに見たらちっとも笑っていないからすぐ分かる。絹代は本当はおもしろい時にだけ笑える子なのに、グループの中に入ってしまうと、いつもこの笑い方をする。あれを高校になってもやろうとする絹代がわからない。」

 そして、彼らは自分たちが親や先生たちよりも繊細であることを知っています。「繊細な世代」として生まれてきた彼らは、そのことを早くに自覚しています。しかし、繊細であることは、決して生きるために恵まれた才能とはいえないかもしれない。そのことも、彼らは早くから認識しているはず。

「・・・先生は女子が寄ってくるのが嬉しいんじゃなくて、人間が寄ってくるのが嬉しいんだ。私には分かる。人間に囲まれて先生が舞い上がる度に、生き生きする度に、私は自分の生き方に対して自信を失くしていく。・・・」

 繊細であるがゆえに、彼らにとっては暴力以前のちょっとした身体の接触までもが、殺人事件なみに衝撃的な意味を持ちうるのです。憎しみも、悲しみも、喜びも、どれもがより熱い熱をおびるのは、青春時代ならではのこと。そして、その制御法を知らない若者たちにとっては、その暴走は致命的な結果をもたらすことにも成りかねません。
 幸いな事に、この小説ではそうした悲劇が起こることはありませんでした。「蹴り」だけですむのなら、もっとみんな「蹴り合えば」いいのです。そうすれば、世の中からどれだけ不幸な事件が消えることか。

 それぞれの時代に自分たちの世代を代表して小説を書き続ける作家がいてくれることは幸せなことです。しかし、彼らには常にきついプレッシャーがかかることでしょう。小説家の仕事はたいへんです。それに比べれば、「読む」ことのなんとお気楽なことか・・・。せめて、時々、僕も異なる世代のアイドル、綿矢りささんの小説にお付き合いさせていただきます。

「川の浅瀬に重い石を落とすと、川底の砂が立ち上がって水を濁すように、”あの気持ち”が底から立ち上がってきて心を濁す。いためつけたい。
 蹴りたい。愛しさよりも、もっと強い気持ちで。・・・・・」

「蹴りたい背中」より

<追記>
 先日(2013年4月)彼女のインタビューを偶然見ました。この後、彼女は長きにわたるスランプに陥り、完全に小説が書けなくなり、ファンション系の店で販売員をしたりしていたといいます。やっとスランプを脱したとのことです。良かった良かった。いきなり凄い作品を書いてしまったプレッシャーは、大変だったと思います。
 ・・・って、我ながら、なにを偉そうなこと言ってるんだか。

「インストール」 2001年
(著)綿矢りさ
河出書房新社

「蹴りたい背中」 2003年
(著)綿矢りさ
河出書房新社

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