名女優、最後の演技までの日々

- 樹木希林 Kirin Kiki -
<遅咲きの主演女優>
 2018年9月15日、75歳でこの世を去った女優、樹木希林。テレビ・ドラマの女優さんのイメージが強かった彼女が、映画界を代表する女優となったのは、その晩年に近かったことは意外です。振り返ると、それは彼女が是枝監督の作品に出演し始めたことがきっかけだったように思います。彼女と是枝監督の対談をまとめた本「希林さんといっしょに。」を読んで、そのことが確認できました。
 彼女が女優という仕事に命を懸けた12年。そして、それ以前の彼女の半生をまとめてみました。

<誕生・成長>
 彼女が生まれたのは、1943年1月15日。太平洋戦争真っただ中、東京の神田に自宅がありましたが空襲によって焼かれる前に、池袋に疎開しています。父親は警察官だった時、神田のカフェで女給として働いていた彼女の母親と出会って結婚。その後、父親は警官を辞め、母親が池袋で天ぷら屋を開店し、家計を支えました。どうやら父親はヒモ的な存在で、家で琵琶を趣味で弾く毎日だったといいます。(琵琶は当時のギターでした・・・内田裕也はヒモではありませんでしたが)
 彼女は4歳の時に家の中2階から転落。その事故のショックと後遺症から、しばらく彼女は自閉症気味の少女になったと言います。幸い小学校4年生の時、鍼灸師が彼女の背骨を治療してくれたことがきっかけで心身共に回復したそうです。
 高校時代、家庭が経済的に貧しかったことから、彼女は手に職を得るために薬剤師を目指すことにします。ところが数学が苦手だったことから、入試に失敗し、そのうえ卒業間近に父親との旅行中、今度は足を骨折。就職活動ができないまま、卒業を迎えることになりました。
 目標のない彼女は仕方なく、募集広告を見かけた文学座の試験を受けることにします。ところが千人もの応募者の中から、演劇経験者でもない彼女がなぜか受かりました。ここで彼女はあっさりと文学座に入ることを決意します。
 後に彼女が、この時なぜ自分が受かったのかを試験担当者にきいたところ、演技の実技試験の時、彼女は自分のセリフだけではなく他の役者のセリフも熱心に聞いていて、それを演技に生かしていたことから「耳の良さ」が評価された、と言われたそうです。

<舞台劇からテレビへ>
 1961年、彼女は新劇の名門劇団、文学座で舞台劇俳優として活動を開始します。ところが、古い体質が残る芝居の世界にすぐに彼女は意欲を失ったと言います。そんな時、彼女にバイトとしてCM出演の話がきます。当時、俳優にとって、最大のステイタスは「舞台劇俳優」であり、次に「映画俳優」、そして「テレビ俳優」でした。当然ながらCM出演の仕事は、俳優の仕事ではないと思われていた時代です。しかし、彼女にとってはテレビは魅力的な世界でした。そして、そこで彼女が文学座で学んだ演技力、創造性を活かすチャンスを掴むことになりました。

 台本は誰だって読める。でもその台本の中で、自分が度の絵の具の色になれば絵がうんと引き立つかを考えないと。素晴らしい演出家ばかりならいいけど、そうでないときいにどう自分を活かすかも含め、キャンバスにおける自分の色の置き場所を考えて台本を読む人です。それを文学座で徹底的に教わった。
樹木希林
 1964年、彼女は七人の孫」というテレビドラマに出演し、森繁久彌と共演。番組のヒットと共に彼女の知名度は一気にアップしました。台本を無視して次々にアドリブを盛り込む森繁の魅力は圧倒的で、彼女もその演技に見事に対応する能力を兼ね備えていました。こうして素晴らし先輩を得て、彼女は舞台とは異なるテレビの世界で輝き始めることになります。

「あの子は頭がよかった。人並外れてよかった。芝居に役に立つ頭の良さで、誰に似ているかと言えば三木のり平ですかね。しかし、いまだから言うけど、のり平も及ばなかった。・・・
 いちばん感心するのはどんな奇矯な恰好をしても、どんな嫌らしい役をやっても、フレームアウトした後に、女の可愛らしさを見ている人の記憶に残すことです。・・・」

森繁久彌

<テレビ黄金時代での活躍>
 彼女は森繁久彌に認められただけでなく、「七人の孫」の後、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー」「ムー一族」とヒット作を連発する人気演出家の久世光彦にも気に入られます。
 彼女の存在を日本中に広めることになった大ヒットドラマ「時間ですよ」(1970年~1973年)は、当初、堺正章と樹木希林の役は、岡本信人と沢田雅美の予定でした。それを無理に変えさせたのは演出家の久世光彦でした。この時点で、彼女はテレビの世界での活躍が約束されていたと言えます。そして、それはもちろん彼女の才能と努力があったからこそでした。

 「寺内貫太郎一家」でのおばあさん役での出演について、彼女はこう語っています。
「…だから衣装…扮装が八割」
「体型で演じるということですね」
「体型です。それはもう絶対体型です。歳をとるというのはそういうこと。だから私は顔にシワとかを描いたことがないの。いつも体型なんです。歳をとっていくとだんだんと身体が小さくなっていく。それだけ」

(このドラマでは彼女がいつも手袋をはいていました。それも手にメイクするが面倒だったからとのこと)

「俺ら演出家はさ、気持ちがわかっているのがひとりいりゃいいんだよ」
久世光彦

 久世光彦、向田邦子、そして樹木希林のチームは、ここからテレビドラマの黄金時代を築いて行くことになります。

 当時、久世さんはたぶん、希林さんと一緒に遊んでいたんだよネ。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー」「ムー一族」なんかを僕ら子供が観ていて面白かったのは、大人が本気で遊んでいる感じがしたから。そのことにワクワクしたんです。
是枝裕和

 さらに彼女の存在を日本中に知らしめたのは、あの有名なTVCMでした。彼女が出演し日本中で話題となった富士フィルムのCMです。

「美しい人はより美しく、そうでない人はそれなりに・・・」
 この大ヒットCMのコピーは、なんと彼女が作ったものでした。当初、このCMのコピー担当だった川崎徹が考えたのは「フジカラー・プリントは、美しい人は美しく、美しくない人も美しく写ります」だったそうです。この変更の効果は絶大でした。
 1978年、勢いに乗る彼女は郷ひろみとのデュエット曲「林檎殺人事件」を大ヒットさせ。「ザ・ベストテン」で4週連続1位の快挙を達成しています。当時の彼女は、女優の枠を完全に飛び出す存在でした。そして、そんな芸能界という特殊な世界を彼女は楽しんでいたようです。

 芸能界というのは本当に凄まじいくらいの色とか欲とかがザーッと流れているけれど、一方ではすごく静謐な、綺麗なものがザーッと流れていることもある。それらがあざなえる縄の如くある中でどうやって生き残っていくか、という世界なんです。
樹木希林

 しかし、そんなテレビの黄金時代は少しずつ下降線を歩み出していました。そして、彼女と久世、向田の関係も終わりを迎えようとしていました。
 脚本家として久世作品を支え続けていた向田邦子は、癌に冒されたことを機にテレビ界でのハードな生活を辞め、小説家としての道を歩みだします。
 1979年1月「ムー一族」の打ち上げで、彼女は久世の不倫とその相手が妊娠していることを暴露。この大スキャンダルは、久世を離婚に追い込んだだけでなく、TBSテレビを去らせることにもなりました。自業自得とはいえ、この事件で久世と希林は絶縁状態となります。
 その後、久世は「向田邦子新春シリーズ」という特番ドラマを成功させテレビ界に復帰しますが、二度とコメディ・ドラマは作らず、樹木希林の出演する機会は生まれませんでした。
 さらに彼女は演技や脚本へのこだわりが人一倍強く、そのために撮影中様々なトラブルを生み出す存在でもありました。それが「樹木希林は危険な女優」というイメージを生み出したようです。当時の人気脚本家、山田太一のドラマ「今朝の秋」(1978年)では台本にないセリフやカツラをの着用などを勝手にして、その後、二度と彼のドラマには呼ばれなくなりました。
 さらに彼女は先輩女優であり演劇界の大御所である森光子に対しても、ダメ出しを躊躇しませんでした。

 「時間ですよ 昭和元年」だったかな、私が演じた婆さんが死にそうになって倒れているところへ、森さんがやってきて、一生懸命、涙ながらに「お婆ちゃん!なんでこんなことするのよ!」と言うシーンがあったの。カットがかかってすぐ、森さんに「ぜんぜん気持ちが伝わってこないんですけど」と言った。
樹木希林

<女優復帰>
 事件の影響もあり、彼女の仕事は急減してしまいました。そんな彼女に女優として新たなスタートを切らせた作品が、吉永小百合の代表作ともなったNHKの連続ドラマ「夢千代日記」です。
 1981年から始まった早坂暁脚本の名作「夢千代日記」でシリアスな役どころで新たな面を見せた彼女は、女優業に目覚めたかのように活躍を再開します。
 1986年にはNHK連続テレビ小説「はね駒」の主人公の母親役など、多くの作品に出演し始めます。しかし、当時は癖のある個性派の脇役が基本であり、主役級の役どころを演じることはありませんでした。
 実はこの時期、彼女が主演することになったのは、ドラマではなく記者会見の場だったと言えます。
 ロック界の大御所内田裕也との結婚はそれ自体驚きでしたが、その後、何度も起きたトラブルを彼女が赦し、叱り、赤裸々に会見で語る姿は彼女の人間としての強靭さを示したと同時に近づきがたい存在にしていったかもしれません。

「生まれ変わっても、もう一度内田裕也三と結婚するか?」に対し
「もう出会いたくない。出会ったらまた好きになるから」と答えたんですよね?
「誰が言ってんの、それ」
「希林さんが言ったんですよ」
「それは口から出まかせだな。いまはちょっと・・・やっぱり変わりますから、人間は。でもね、確かに言えることは、内田裕也みたいな人が夫であることで、重しになっているんですよ」
「重し!」
「うん、私の重し。あの人がいなかったらもっと野放図な、困った人になっていると思うのよね。・・・」

是枝&希林

「何で俺の部屋には風呂がないんだ?」
「ロックはシャワーでしょ!」
「ロックが湯船につかっちゃ駄目でしょ」

希林&内田

 彼女はそんな時代でもなお、テレビのバラエティー番組などへの出演を続けていました。そのことについて彼女はこう語っていました。
「自分が芸能人として、今の時代にどれだけ意味や価値があるのか試してんのよ」
 逆に考えると、彼女はその時点ではまだ女優とし、出演作品を支えるような重要な役割を担う覚悟をまだ持っていなかったのかもしれません。

<乳がんの発見>
 2005年、彼女は乳がんの手術を受けました。
 無事に手術を終えた後、彼女は女優としてその後の人生を変えることになる作品「トウキョウタワー~オカンとボクと、時々、オトン~」に出演します。当初、その作品は絶縁状態にあった久世光彦がテレビドラマとして映像化することになっていました。しかし、彼がこの世を去ったために企画は流れ、彼女は映画版に出演することになりました。主人公の母親役という重要な役を受けることになったのは、久世監督の導きがあったからなのかもしれません。
 さらに運命的な出会いが続きます。当時、日本映画界を代表する存在になりつつあった是枝監督から出演のオファーがきたのです。

 希林さんも久世さんと離れた後、がんを患われて、それまで主役として作品を背負うことをたぶん意識的に避けられていたところを「東京タワー・・・」で一気に踏み込んだ。自分が作品を支えていく側に回る覚悟をもたれた。三人それぞれが自分のキャリアを更新させていくタイミングが、ズレながらも重なっている感じがするんです。
是枝

 『向田邦子の恋文』(2004年)をつくった当時、久世さんが意識していた「死者」は間違いなく向田邦子だったろう。そして、僕と出会ったころの希林さんにとっては恐らく前年に亡くなった久世さんだったのではないかと思う。そして希林さんと出会った当時の僕にとってもそれは間違いなく母であった。
是枝

 この頃から、彼女は女優として多くの名作に出演し、映画界をけん引する存在となり始めます。

「サイドカ―に犬」2007年(監)根岸吉太郎(原)長嶋有(出)竹内結子
「悪人」2010年(監)李相日(原)吉田修一(出)妻夫木聡

「わが母の記」 2011年
(監)(脚)原田眞人(P)石塚慶生(原)井上靖(撮)芦澤明子(美)山崎秀満(編)原田遊人(音)富貴晴美
(出)役所広司、樹木希林、宮崎あおい、ミムラ、南果歩、キムラ緑子、三浦貴大、赤間麻里子、菊池亜希子、真野恵里菜、三國連太郎
<あらすじ>
少年時代母親に伊豆のお妾さんに預けられた作家、井上靖は母親に捨てられたと思い続けてきました。
そんな母親と忙しい作家生活を続ける息子との日々を昭和の風景と共に描いたクロニクル。
母親はしだいにボケ始めますが、とことろころで過去の思いを吐露し、彼が捨てられたわけではないことが明らかになって行きます。 
母親役の樹木希林はこの作品で日本アカデミー賞主演女優賞を受賞。
井上が少年時代に書いた本人すら忘れていた詩を暗唱するシーンは圧倒的迫力です!
撮影も素晴らしく美術も見事に1960年代を再現。
伊豆や軽井沢の風景は特に見事で、自然の移ろいと母親の老いる変化がシンクロしているようで美しい!
主人公を囲む女優陣も地味ながら実に味わい深い演技です。
それにしても井上靖という人物の人間性が母親ありきだともわかります。


「駆け込み女と駆け出し男」2015年(監)原田眞人(原)井上ひさし(出)大泉洋
「あん」2015年(監)河瀨直美(原)ドリアン助川(出)永瀬正敏

<是枝監督との日々>
「歩いても歩いても」 2008年
(監・脚・原・編)是枝裕和(撮)山崎裕(衣)黒澤和子(音)ゴンチチ
(出)阿部寛、夏川結衣、YOU、高橋和也、原田芳雄、樹木希林
「歩いても歩いても」は母を亡くしてすぐに書いた脚本だったので、書いているときも撮っているときも、母についての映画だと思っていた。しばらくして観直してみると、父についての映画だったことに気付いた。・・・
 だから『海よりもまだ深く』では中心に母を置いてみた。・・・ほぼ母の実話であるが、決して特別な物語ではない。特別な感情でもない。・・・だからこそ希林さんがどうしても必要だったのだ。

是枝

 いまや映画やドラマを観ても、事件が起きた!また起きた!で埋め尽くされているでしょう?そういう特別な出来事がないとテレビではない、映画ではないと勘違いされていくのは恐ろしいこと。何も起きない日常があっての人間の世界だと思うし、それこそが魅力的なんだと改めて観客に教えてくれた作品だと思います。
「歩いても歩いても」について
樹木希林
「奇跡」 2011年
(監・脚・編)是枝裕和(撮)山崎裕(音)くるり
(出)前田航其・旺志郎、橋本環奈、オダギリジョー、大塚寧々、橋爪功、夏川結衣、原田芳雄、樹木希林 

「そして父になる」 2013年
(監・脚・編)是枝裕和(撮)瀧本幹也出)福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキー、風吹ジュン、夏八木勲、樹木希林 

「海街 diary」 2015年
(監・脚・編)是枝裕和(撮)瀧本幹也(原)吉田秋生(音)菅野よう子
(出)綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず、大竹しのぶ、堤真一、風吹ジュン、リリー・フランキー
 希林さんは、「海街diary」の撮影中、綾瀬はるかを気に入ったようで、ある日彼女にこう話しかけていたそうです。
「あなた・・・、美しいっていうのは何よりの才能よ」

 そして撮影中、共演した大竹しのぶにケイタイの番号を聞かれた時の返事。
「嫌よ。なんであなたに教えなくちゃいけないの?」
「えー、だって一緒にご飯とか・・・」
「アタシ、あなたとご飯なんか食べないわよ」
「えー、なんでですか?」
「あなたのこと好きになりたくないのよ」

 やはり大竹しのぶは自分にとって最大のライバルの一人と思っていたのでしょうか?

「海よりもまだ深く」 2016年
(監・原・脚・編)是枝裕和(撮)山崎裕(音)ハナレグミ
(出)阿部寛、真木よう子、小林聡美、リリー・フランキー、池松壮亮、古澤太陽、橋爪功 、樹木希林

「万引き家族」 2018年
(監・脚・編)是枝裕和(撮)近藤龍人(音)細野晴臣
(出)リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、池松壮亮、城桧吏、佐々木みゆ、高良健吾、池脇千鶴、樹木希林

 すでに死期を悟っていた希林さんにとって、是枝監督との最期の作品となった「万引き家族」。
 最初に撮影を行った海水浴のシーンで希林さんは、最期のセリフとして「ありがとうございました」と言っていたといいます。(音声はなかった)
 この奇跡のシーンについて、是枝監督はこう語っています。

 でも、希林さんがそこに投げ込んでくる台詞や芝居は、『モリのいる場所』もそうだし、『万引き家族』の「ありがとうございました」もそうだけど、たぶん全体を見ながら、何が欠けているか、それに対して自分がどういう一言を言えたら補えるか、非常に演出的な目で見ていると思うんです。
是枝

 「万引き家族」公開初日の舞台挨拶の後、彼女は是枝監督にこう話したそうです。
「もうお婆さんのことは忘れて、あなたはあなたの時間を若い人のために使いなさい。私はもう会わないからね」
 そして、これが本当に最後の言葉となりました。

<希林さんへの弔辞より>
 私にとってあなたとの時間はもちろんそれ自体とても楽しいものでしたが、やはりどこか人生の中で実の母と過ごせなかった息子としての時間とその後悔をなんとか取り戻したい。やり直したいという叶わぬ思いを希林さんと過ごすことで埋めようとしていたのかもしれません。
是枝

「現在を見る眼と、過去、あるいは、未来を同時に見る眼を持つ。だから、この女優は、神秘であり、怖いのだ」
ある韓国の映画評論家の言葉

 この世に生まれ、天職に出会う人間はそう多くないはずだ。そんな中、この二人は、間違いなく「監督」と「役者」という使命を持って生まれてきたのだろう。奇跡的にも同じ国に生まれ、多少の時期はズレていても、同じ時代を生き、交換した盟友。
内田也哉子

「悠木(希林さんの本名)、お前のあとにみんなお前の芝居を追ってきただろ。桃井かおりだろ、田中裕子だろ。でも現時点でお前を超えているのはひとりもいないな」
勝新太郎

<参考>
「希林さんといっしょに。」
 2019年
(対談)是枝裕和×樹木希林
スイッチパブリッシング

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