- 喜納昌吉 Shoukichi Kina -

<沖縄に生まれて>
 喜納昌吉は、1948年沖縄県のコザ市に生まれました。戦後生まれといっても、彼の青春と戦争は切っても切れないものがあります。コザ市と言えば、ベトナム戦争、朝鮮戦争においては、その前線基地としての役割を果たした街であり、わずかに時代をさかのぼれば、この島ではアメリカ軍と日本軍が島民を巻き込んだ戦争を行っているのですから。彼が高校時代に作った沖縄を代表する大ヒット「ハイサイおじさん」も、実は太平洋戦争によって社会からドロップ・アウトした飲んだくれのおじさんの歌なのです。

<父、喜納昌永への反抗>
 彼は沖縄民謡界の第一人者喜納昌永を父にもちながら、保守的な民謡界に反発し、父から民謡の知識を受け継ぐことを拒否し、独学で作曲活動を行いました。そこから彼の独自性が生まれ、民謡へのエレキ・ギターの導入やロック・スタイルの応用など、新しいスタイルを生み出す原動力となったのです。(こうした、トラッドな音楽を電気楽器によって復活させる動きは当時世界各地で起きていました。イギリスのフェアポート・コンベンションによるエレクトリック・トラッドも同じ動きでした)そして、そんな彼の活動が生んだ最初の結果が、1970年代初めの「ハイサイおじさん」の大ヒットでした。しかし、この曲は奇をてらった民謡のロック・ヴァージョンとではなく、彼が地道に各地をコンサートで回りながら、少しづつ育てていった曲であり、新しい沖縄のポップスの登場を告げる重要なヒット曲となりました。

<喜納昌吉&ザ・チャンプルーズのメジャー・デビュー>
 いよいよ彼は正式にバンドを結成、1977年いよいよメジャー・デビューを果たします。アルバム・タイトルは、ズバリ「喜納昌吉&ザ・チャンプルーズ」。このアルバムにおいて特徴的なのは、デビュー作にも関わらず、いきなりライブ・アルバムだったということです。これこそ、ライブで叩き上げてきた沖縄のバンドらしい登場の仕方であり、演奏の方も完成された素晴らしいものでした。
 大ヒット「ハイサイおじさん」の楽しさと「番長小(バンチョー・グァー)」の徹底した風刺精神(ロッキード事件が題材)、そして、「東崎(アガリサチ)」(海が好きな人にとって、この曲は聖なる歌です!)の美しい大自然に対する愛情、どれをとっても、彼の魅力のすべてがそこにはすでに存在していました。

<世界にはばたく琉球サウンド>
 1980年発売のセカンド・アルバム「ブラッド・ライン」は、ハワイで録音が行われました。ゲストには、すでにワールド・ワイドな活躍を始めていた久保田真琴細野晴臣に加えて、ライ・クーダーが参加しました!この時すでに、彼のサウンドは、沖縄だけでなく東アジアを代表するサウンドとして、世界の注目を浴びる存在になっていたのです。もちろんアルバムの内容も素晴らしく、今やアジア全土で歌われている永遠の名曲「花 -すべての人の心に花を-」も、このアルバムに収録されています。もちろん、ライ・クーダーのスライド・ギターとマンドリンの演奏つきです!(2000年アクト・アゲインスト・エイズ・コンサートで桑田佳祐氏は、この曲を、僕が1番目か2番目に好きな曲です、と紹介していました。桑田さん!やっぱり貴方はセンスが良い!)

<スピリチュアルな音楽へ>
 続いて発表されたサード・アルバムは、前作で登場した名曲「花」をまったく異なるバージョンとして収め、「祭り」というタイトルとして、今までとは違うスタンスで作られたものでした。このアルバムあたりから、彼の音楽におけるスピリチュアルな部分が前面に出てくるようになってきたと言えるでしょう。さらに、音楽的にも矢野誠のアレンジによるシンセサイザーを中心とするサウンドが、「いやし系サウンド」の原点とも言える独自の音楽世界を生みだしていました。
 僕は、このアルバムを落ち込んでいるときに、友人の家で初めて聞きました。その時の心が洗われるような感動は、今でもはっきりと思い出すことができます。良い歌とグッド・タイミングで出会えることは、本当に幸いなことです。

<琉球サウンド・ブームの中>
 1980年代に入り、ついに琉球サウンドのブームがやって来ました。りんけんバンドネーネーズの活躍は海外でも評価され、ザ・ブーム「島唄」のような外からのヒット曲まで現れました。(しかし、そこにはバブルの香りが漂っていたことも確かでしたが…)喜名昌吉は、琉球サウンドの代表者として長年かついでいた重荷を下ろし、1991年には久々にリラックスしたアルバム「アース・スピリット」をパリ録音で完成させます。

<偉大なる島人、ウチナーンチュ>
 かつて、「レゲエと言えばボブ・マーレー」と言うのと同じように「琉球音楽と言えば喜納昌吉」と言われていました。アジア全域での「花」のヒットやライ・クーダーとの共演、彼自身のカリスマ性など海外からの注目度の高さは、本土の他のどのミュージシャンをも超えるものでした。しかし、彼の活動がミュージシャンとしての枠を越え、自然保護や沖縄の基地問題など、社会活動の方へ向かって行くに連れ、彼独特のカリスマ的でアジテーション的なしゃべり方は、多くの人々から胡散臭く見られるようになってきました。(それにしても、オウム真理教の影響は大きい。考えてみたら、ジョン・レノンが、オノ・ヨーコとパフォーマンスを始めた当時も似たような評価をされました)
 そして、せっかく沖縄の音楽が評価されるようになったのに、その時の話題の中心は、りんけんバンドやネーネーズ、安室奈美江、スピード、Kiroroなどでした。やはり先駆者というのは、孤独なものなのでしょうか?
 でも、少なくとも僕は、「花」を初めて聞いた時の感動を忘れないし、ライブを見たとき、それがテレビだったのにも関わらずその新鮮さに驚いたことも忘れません、いつでも彼のアルバムを聴くとその感動を甦らせることができます。彼が、多くの人の心に咲かせた花は、けっして枯れることはないでしょう。

<締めのお言葉>
島についての4箇条
(1)島は物のようで、財産のように見える
(2)「自分の島」は、多くの人の夢をかなえる
(3)島は人を後戻りさせる
(4)島の境界はけっして定まらない

ジェームス・ハミルトン・パターソン著「7/10」より
もうひとつ加えるなら
(5)島は素晴らしい音楽を生み出す

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