「物語」から「近代小説」へ
- 「小説」の進化史 -

「東京大学で世界文学を学ぶ」

- 辻原登 Noboru Tsujihara -
<文学の歴史・疑問に迫ります>
「『小説』とは、街の噂話ののことだった」
「『もの』に『かた』を与えるために『物語』が生まれた」
「西欧人は神を殺すことで近代小説を生み出した」
「近代小説は『ドン・キホーテ』によって完成した」
「『ボヴァリー夫人』の嫉妬こそ、すべてのドラマの原点である」
「人は物語の中で死してこそ、永遠となる」
「すべての近代小説は探偵小説である」
「日本人はなぜ、『私小説』という独自の文学を生み出したのか?」
「『悪魔の詩』の著者はなぜ死刑を宣告されたのか?」
「小説こそ、世界を変えられる最高の手段である」

 なかなか興味深いテーマばかりです。
 これらは、どれも東京大学で小説家の辻原登氏が行った「世界文学」の授業で取りあげられたテーマです。文学好きならきっと気になるのではないかと・・・。僕も大いに気になりました。
 そんなわけで、辻原さんの「東京大学で世界文学を学ぶ」を読みました。以下にそこからの抜粋と解説を書きました。
 気になる方、もっと深く知りたい方は、「東京大学で世界文学を学ぶ」を是非ご一読下さい!

<「物語」の誕生>
 そもそも、小説以前の存在である「物語」(口伝えによる「言い伝え」から発展)とは、いかにして誕生したのでしょうか?
 実は、世界最古の小説とも呼ばれる紫式部の「枕草子」を生んだ日本において「物語(ものがたり)」という言葉には、ちゃんと意味があります。

 では、「物」というのは一体何なのか。普通、我々は「もの」というと、目に見えるもの、英語で言うとthingだとかgoodを考えます。日本語でも「もの」と言ったときはこういうものではない。どんなふうに使うかというと、「ものにつかれる」「ものごころがつく」・・・「もののけ」「つきもの」「ばけもの」「ものうい」「ものかなしい」「ものたりない」「ものめずらしい」・・・などなど。
 これらのすべて目に見えないものです。・・・
 言葉というのは古代の人たちにとって「もの」なんです。目に見えない「もの」。それを言葉でつかまえる、「かた」あるものにする。言葉の中には世界を動かす霊力が宿っている。それが本来いるべき場所にいなくて、浮遊している状態。その浮遊しているものを本来いる場所に返してやる、あるべき場所と時間の中に戻してやる、これが物語。


 これはまさに「かたにはめる」ってやつですね。「ものがたり」から「小説」への進化とは、語り部から小説家へ、「お話し」から物質としての「本」への進化でもあります。そして、それはそこで表現されている物語の「内容」にも大きな影響を与えることになります。

 物語というのは、共同体の内部でつくられている。個人ではなく複数の人たちが共同体の内部で物語を作り、それらが語られ、耳を傾けた人たちの共有の体験となる。つまり、物語というのは、声に依拠しているわけです。
 近代の小説、つまり言語で書かれた小説は、「本になった」物語です。この物語(小説)は、本という形で、共同体から入り離された個人がつくり出したものです。共同体から切り離された状態、あるいはみずから切り離した個人によって書かれた。
 小説というのは、物語から声が失われたものというふうに考えてもいいと思います。黙祷という行為です。声を出さないということが本によって可能になったわけです。そのとき「声」はどうなったか。声が閉じ込められることによって「内面」が発生します。


<「小説」とは?>(中国における言葉の元々の意味)
 「小説」という言葉は、元々「漢書藝文志」の中に出てくる言葉です。諸子百家。・・・・・
 そこに一番偉いのは儒家とか法家とか墨家と出てきて、一番最後に「小説家」というのが出てきます。これは何かというと、稗官(はいかん)、今でいう政府雇のトップ屋、週刊誌だとか夕刊紙のフリー・ライター。・・・町に出かけていって噂話を聞いて、メモをまとめて、それを上官に提出する仕事をしている人。これを稗官といいます。この人たちがまとめたいろんなお話を稗史小説という。つまりこれが小説。小さな、町の噂。
(ちなみに日本で「ノベル」に「小説」という言葉をあてたのは、坪内逍遥です)

<「近代小説」の誕生>
 小説の中でも、「心」の内を表現する文学の登場こそ「近代小説の誕生」といえます。意外ですが、日本独自の「私小説」に代表される「心の内面の表現」というのは、かつては日本の文学にもなかったことのようです。

 戯作者、たとえば井原西鶴や上田秋成の作品を読んでも、個人の内面は描かれていないでしょう。確かに、悲しいとか、うつろであるとか、この世で生きているのは何とむなしいことだろうかという程度のことは書いている。
 しかし、近代の青年が恋や生き方に悩む、その言葉にできない混沌とした内面、これをどう言葉にするか。写す、よいうより創造です。しかし、これができなかったら近代の小説にならない。
・・・

 自らの心の内面を言葉によって描写するためには、そこに心というものが存在することを客観的に意識することが必要です。しかし、それは簡単にできるようになったわけではありません。そのためには、人は目に見えないものを認識する新しい能力を身につける必要がありました。それは想像力を身につけることで可能になりました。人はまず初めに、自分の身の回りに「自然」という自分とは別個の存在があることに気づきました。そして、それを描写することで新たな文学の地平を開いたことになるのです。文学者たちは、「自然」を描写することの延長に「心」の描写を生み出したのでした。

 どうやら近代においては、自然というのは我々の外に厳としてあるらしい。内面というのも、何だか知らないが、あるらしい。つまり、客観視するわけです。自分がその中にすっぽりいる状態はそれまでの世界です。そこから一回外に出ると、今度は自然、近代科学、もちろん認識もそうですが、デカルトの絶対空間や、時間が過去から現在、未来に向かって一直線に一本の矢のように進むという時間観念は、全部自分の外側に自然があるものと認識するところから生まれる。内面も同じです。心理というものがあるらしい。それを言語でつかまえるにはどうしたらいいのか。文章によって写生するにはどうしたらいいのか。いったい心理というのは描写できるものなのか。これがあらゆる作家、あらゆる文章を書く人間の悩みです。・・・

 こうして心の内面を描くことにより、小説は次なるステージへと進化しました。その効果は絶大で、それまでの「自然描写」にすら、もう一つ別の見方が成立するようになります。人は「自然」の表現の裏側に「心の内面」を潜ませるようになり、読者もそこに著者の「心」を見るようになったのです。

 つまり一人の兵士が眼で見る自然、あるいは対象はどのように現れるのか。それをどのように文章で描くかという問題です。その成果が、「野火」「俘虜記」「レイテ戦記」という大岡昇平の作品だと思います。
 近代的なリアリズムの洗礼を受けた人間が戦場において自然をどのようにとらえるか。端的に言えば、戦場における自然というのは、敵の影が潜んだ風景として立ち上がってくる。つまり、そこに敵がいる。梶井基次郎のように風景をめでたり、うたったり、描写したりすることはできない。そこには我々を殺そうとすている敵の影が常にあるという自然です。


「ちょうど恋する男が恋人の顔に、それ自身に存在しない魅力を感じるように、自然をある力を持つものと感じられるようになる。これが自然描写だ」
大岡昇平

 松やクヌギや雨や水、それ自体に魅力があるわけではなく、そこに魅力があるように感じる見方、これが近代人の自然観。それは近代人そのものがロマンチックだからです。松尾芭蕉はその代表的な存在だったといえます。

<「比喩」という技法の発見>
 こうして誕生した近代小説において、なくてはならない手法として「比喩」の発見があります。今や「比喩」を用いずして文学は成り立たないともいわれます・・・

 言語表現の根底には、比喩、フィギュアの問題があります。言語そのものは常に比喩という問題を引きずるというよりも、比喩表現そのものが言語表現のベースになっています。比喩を通して現実を見る。隠喩、メタファーとか、直喩、シミリー。あるいは、換喩、メトニミー。文学表現はまさに、これらの比喩表現によって成り立っています。この比喩表現とのかかわり方で、自然主義とかロマン主義とか、アンチ・リアリズムだとか、いろいろな文学技法上のテーマが浮上してくる。現実をいかにとらえるか。あるいは人間の思考をいかに正確に表現するか。つまりリアリズムの問題です。
 文学表現、詩や小説が特にその問題とかかわってきます。そこで、我々はメタファー、隠喩というものがなければ物語というものが成立しないことに気がつきます。

 文学にとって最強の武器となった「比喩」ですが、そこに問題がないわけではありません。小説家は、単に「比喩」を用いるのではなく、「比喩」を創造するという行為も必要とされます。

 小説家は、隠喩を使ってフィクションをつくるんですが、この隠喩というのは、当然古びていきます。だから、小説家のやるべきことは、その古びた隠喩を壊すこと。壊すには、新しい隠喩をもってするしかないわけです。

 その他にも、「比喩」に頼りすぎる文学への批判もまた存在します。

「自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学が出来るのだと信じている。事実は全く反対なのだ。文学に何ら患わされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来るのだ」
小林秀雄

<「ストーリー」を動かす「モチーフ」と「プロット」>
 文学を動かす武器として「モチーフ」の存在があります。フランス語で「動機」「主題」「理由」という意味の「モチーフ」を設定することで、文学は生き生きと動き出します。

 我々が人生をでたらめに生きていいはずがないのと同じように、やはり小説にも形式が必要です。ぼくは芸術至上主義者ではありませんが、無数のモチーフと幾つかのテーマを、音楽や建築のように組み立てたいと、いつも考えています。
 モチーフとは何でしょう。さまざまなモチーフが考えられます。ぼくは、モチーフの代表的なものは登場人物だと思います。人物が小説のモチーフです。・・・
 なぜ人物がモチーフであるのか。それは人間だけが時間を担うことができるからです。人物はみな、小説の中で時間を担って生きています。彼らにはそれぞれの時間がありますし、それを統一する小説内のメインストリーム的な時間もある。こういう複合的な時間、これはまさに音楽を聞いていることと同じです。
 読むという行為。向こう側に小説の中を流れる時間があって、そしてこちら側に我々の生きている時間があり、それが、読む時間の中で一つになる。この時間の感覚が「リアル」というもののほんとうの意味だと僕は思います。


 より高度な小説を書くために生み出されたのが「プロット」です。「モチーフ」を膨らませた出来事を時系列的に並べたのが「ストーリー」とすると、それをより複雑に並べ替え、「モチーフ」をより明確に伝えることを可能にしたのが「プロット」といえます。これがあって初めて近代小説となりえたといえます。

 ストーリーは、だれが、いつ、どこで、何をしたかということが重要です。だれがいつどこで何をしたか、それを時間の経過に従って物語る。・・・なぜそうなったのかではなく、それからどうなったの、そしてどうしたのという問いかけ、興味が中心になります。
 プロットになると、なぜそうなったのか。「それから」という問いかけじゃなくて、「なぜ」の問いかけに変ってきます。物語は、おおむねストーリーを中心に成立しますが、近代のいわゆる小説は、このストーリーとプロットを巧みに組み合わせることによって成立する。大枠はストーリーでも、その中にプロットが幾つも重なっている。

(1)王様がお隠れになり、それから王妃様がお隠れになりました。(これはストーリー)
(2)王様がお隠れになり、そして悲しみの余り王妃様がお隠れになりました。(因果関係を表す文章なので、これはプロットといえます。)
(3)王妃様がお隠れになり、誰にもその原因がわからなかったが、やがてそれは王様の崩御をお悲しみになったためとわかりました。(これは高度な謎を含むプロットです)

<近代小説の構造的変化>
 こうして様々な方法を取り入れることで近代小説が生み出されていったわけですが、心の内面を客観的に描き出すことで大きな構造的変化を遂げることにもなります。それは、「物語」によって客観的に語られる「より高度で複雑な物語」(メタ物語)の登場です。

 近代人とは、つまり、自己を意識した一人の人間のこと。そして、近代小説とは、物語が物語を意識したもの。つまり、物語が物語を疑う。これが近代小説の、構造的に最も特徴的なことだと思います。
 神話から宗教、歴史という大きな物語は、一元的な物語といっていいかもしれません。神なら神、聖書はまさに聖なるテキストですから、批判を許さない。世界の読みは一つしかない。これは聖書に限らず、神話も、中国の歴史も、日本の「古事記」もそうです。読みは一つしかない。


 人それぞれにとって、多様な捉え方、理解の仕方がありうる「物語」が、近代小説によって初めて生み出されたということです。どんな宗教の持ち主でも、どこの国民であっても、それぞれの立場で理解可能な普遍的な物語の登場により、いよいよ「世界文学」ともいえる近代小説が完成の域に達したわけです。

 神話や叙事詩をはじめとする通常の物語は、いわゆるストーリーです。時間が流れ出すとことから始まります。・・・(人類の起源、国の起源、民族の起源の伝説は世界中に存在します)
 こうして物語の、つまり、人類の時間、ストーリーが生まれます。これは起源というフィクションです。それ以前は無です。起源を設定するということは、その前は無だということを宣言することです。つまり、起源隠蔽です。・・・
 それとは異なり近代小説は、等身大の個人が主人公の地位につきます。しかし、大きな物語同様、基本的には起源の物語。つまり、動機の物語です。彼らはまず内面を持ちます。近代人はみな内面を持っているということが前提になる。この内面というのが動機の発生場所です。
 この動機が、すなわち起源です。登場人物は皆、内面を持っていて、動機があって、それから行動に移ります。
 この動機が行為に移る様子を描くのが近代小説の根本です。
・・・

 近代小説とは、動機の多様性を描く物語であり、動機から生まれる行動の多様性を描いた物語でもあるわけです。

<なぜ「近代小説」は西欧で生まれたのか?>
 では、なぜ「近代小説」は西欧社会から誕生し、世界へと広がることになったのでしょうか?

 さて小説です。なぜ近代小説はがヨーロッパにおいて誕生したかという問題です。英語やフランス語やドイツ語やスペイン語 - 近代国民国家が成立し、国語が成立しました。近代国家の最も重要な三つの柱は、一つの言語、一つの法律、一つの軍隊です。これらの国家が、ヨーロッパの列強です。彼らは、世界を植民地とし、分割化して、共通語としての彼らの言語を押しつける。それによって、小説は多くの読者を獲得することになる。だから、小説の主人公は小さくなるのに反比例して、読者は飛躍的に拡大する。これが、いわゆる世界文学の誕生です。
 一方、非ヨーロッパの文学者は、近代化の過程で、まず翻訳によって自国語を開発しつつ、ヨーロッパの小説を模倣しつつ、自国の小説を書こうとします。ロシアや日本です。・・・・
 問題はここからです。ヨーロッパは、ユダヤ教、キリスト教文化圏。近代主義や進歩主義、あるいは民主主義を含めて、これはキリスト教的な歴史観、世界観の中から必然的に出てきたイデオロギーです。近代科学もそうだと思います。はじめに聖書、聖なるテキストがある。この聖なるテキスト、起源の物語の書き手は神です。人間は読み手です。読み手としての人間、書き手としての神という関係です。
 聖書を神の教えとして読み、聞く。つまり、創造主=書き手、それが神です。読み手としての人間、あるいは聞き手としての人間。ヨーロッパの近代化とは、この関係の逆転としてとらえることができるでしょう。つまり、人間が書き手になる。主人公に成り上がろうとする。その過程で、「神は死んだ」という言葉がぽろりと出てくる。人間が神の位置にとってかわろうとする。
 世界の起源としての聖書の解体、神の死。神にすべてを委ね、神にすべてを託す一義的な世界観を疑う。つまり、神話のベールをはぎとる。あるいは、愚弄する、批判する、からかう、パロディ化する。「ドン・キホーテ」はその嚆矢といえるでしょう。これを近代文学の成立と考えれば、文学の成立とともに、人間は聖書というテキストに頼っていた、テキストにつくられる存在から、テキストを自らつくる存在へと変っていった。これが近代小説の起源です。


 こうして西欧社会はいち早く「神殺し」を行うことで「近代小説」を手に入れたわけです。

<窮極の小説「ドン・キホーテ」>
 僕も含めて、セルバンテスの有名な小説「ドン・キホーテ」をちゃんと読んだことのある人はほとんどいないはずです。しかし、辻原登氏によるとその「ドン・キホーテ」こそ、世界文学における究極の完成型だというのです。
 「ドン・キホーテ」の凄さとは、その構造的複雑さにあり、様々な近代小説の技法を用いた小説として完成の域に達していたということのようです。特に、その物語構造が複数の「入れ子構造」から成り立っているところに注目する必要がありそうです。
 「ドン・キホーテ」は1605年に最初の出版が行われました。著者は、ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(1547年~1616年)。

(1)物語は、「アマディース・デ・ガウラが主人公の騎士道物語」という本のシリーズを暇を持て余した田舎の紳士キハーナ氏が読み出すところから始まります。あまりにその本にのめり込んだキハーナ氏が、自らも騎士として生きようと思い立ち「ドン・キホーテ」が誕生します。
(2)ところが、この「ドン・キホーテの物語」は、実はアラブの歴史家であるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリーが書いたアラビア語の物語を翻訳した小説という設定になっています。
(3)それをセルバンテスがスペイン語に翻訳したことで、「ドン・キホーテ」(正編)が誕生しました。
(4)ところが、何冊かに分けて発表されていた「ドン・キホーテ」は、セルバンテスが実際に無実の罪により逮捕、拘留されたために途中で出版がストップしてしまいます。するとその間に「ドン・キホーテ」の人気に目を付けた作家アベリャネーダが勝手に贋作版の「ドン・キホーテ」を発表してしまいます。セルバンテスが版権を安く売ってしまったために、わずかな利益しか得られなかったのに対し、この贋作はアベリャネーダに大きな利益をもたらしたようです。
(5)ただし、セルバンテスも黙ってはいません。無実の罪が晴れて出所した彼はすぐに「ドン・キホーテ」の続編を発表し始めます。この続編もまたアラブの作家ベネンヘーリが書いたものをセルバンテスが翻訳するという形で発表されます。驚かされるのは、その続編の中のドン・キホーテが、自分のことが書かれた「ドン・キホーテ」正編と贋作の「ドン・キホーテ」の存在を知っていることです。なんと彼はそれらの作品の中の自分の行動を知りつつ、行動をしてゆくのです。
 こうして「ドン・キホーテ」は何段階もの多層的な構造をもつ複雑な小説となりました。
 そんな多層性だけでなく様々な小説手法を用いたこの小説が、なぜそこまで高度な作品となったのか、そこには偶然の要素もあったのかもいsれませんが、とにかく歴史的にそれまで存在しなかったレベルの作品が出来上がったことだけは間違いありません。

 さらに「ドン・キホーテ」において重要な点は、この作品が多くの小説、そして聖書と共通する偉大な英雄の物語であると同時にそのパロディーともなっていることです。英雄をパロディーにして笑い飛ばす視点もまた、この作品のもつ重要な特徴です。

 イエスは、何かしたり言ったりするたびに、「それは言われていることだから」と必ず言います。それは預言、旧約の中で言われている。だからそのとおりになるであろう。そのとおりに私はするんだ。つまり、自分はキリストである、救世主であるということに宣言する。
 そういう意味でいうと、『ドン・キホーテ』というのはまさに『アマディース』という聖書、これを現実に実現するためにロシナンテにうちまたがって冒険に出かけていくというストーリーです。だから、イエスとドン・キホーテというのはパラレルです。


<窮極の小説「ボヴァリー夫人」>
 「ドン・キホーテ」の後、1857年に発表されたギュスターヴ・フローベールの「ボヴァリー夫人」はさらに小説の進化を進めることになりました。

 つまりエマは読書する人です。十八世紀、十九世紀というのは、まさに女性が個人部屋を持った時代です。そして本が流通して、女性が自分の部屋で本を読む、ピアノを弾く、それから手紙を書く、という時代がやってきた。郵便制度が整った。ドン・キホーテの女性版と言われるのは、こういうところにあります。結婚生活というものに思ったほどの喜びがないので、彼女は再び本の世界に戻っていきます。・・・
 これがいわゆる「ボヴァリズム」と言われる考え方ですね。とにかく今いるところに常に不満を覚えて、別の時、別の場所に自分の本来いるべき場所と時があるのだ。結婚というのも、そういう彼女の夢のひとつだったのに、実際結婚してみると、それは、夢の実現でもなんでもなくて、ただ幻滅だった。だから、ほんとうの私の幸せは別の場所、別のところ、別の時にあるんだというふうに考える。彼女はそれを読者の中に求めます。読書から白日夢の世界に入っていきます。


「ボヴァリー夫人」の場合はどうでしょう。エマ・ボヴァリーは、彼女の空想をかきたてたロマンチックな物語、小説のヒロインたちを手本にモデルとして選びます。つまり通俗小説の中のヒロインやヒーロー、あるいはファッション、そういうものを本の中から取り出して、これをモデルとします。これが媒体デス。エマ・ボヴァリーは、当時の通俗的でロマンチックな思想に侵された女性の典型というわけです。

 「ボヴァリー夫人」とは、パリという最先端の街でのセレブな生活に憧れ、夫より素敵なイケメンでリッチな男性との不倫に憧れ、欲望のままに犯罪に手を染めるという「紙の月」の原点であり、すべての恋愛小説の原点であるといえます。それは神を殺してしまったヨーロッパの人々が、紙の代わりに自らのそばにライバルやヒーローを見つけ、それらに対する欲望や憎しみのエネルギー得ることになる時代の始まりだったのでした。

 ある女性に恋するとき、先にだれかが恋し所有していると考えると、恋は過剰に燃え上がります。ライバルは常に必要です。つまり欲望というのは一直線ではないということです。あるいは、一直線がより強度になるのは、だれかが自分と同じ対象を欲望し始めたときです。主体と媒体の距離は横一線か、あるいは重なり合う。媒体とは、あなたの恋のライバル。近現代社会とは、この媒体が、常に我々のすぐ近くにあるという状況のことです。大げさに言えば、神が死んだからです。あるいは理想とすべき世界や社会も人物もいなくなってしまった世界だからです。人間間の差異が次第に縮小しつつあるこの世界で、あこがれ、モデル、媒体は、常にライバルへとい転落します。つまり恋敵。これは別に恋に限りません。たとえば出世欲にしてもそうです。

<欲望という名の小説のエンジン>
 人間間に生まれたこうした欲望のエネルギーこそ近代小説における最も重要なエンジンだといえます。

 モデルに対しては、最も従順な敬意と最も強烈な恨みという、二つの相反する感情を抱くようになります。憎悪というのはこの感情です。あるいは嫉妬と羨望。・・・
 恐らくドストエフスキーという作家は、この憎悪と嫉妬のメカニズムを一番よく知っていた作家だったと思います。・・・
 ヒーロー、ヒロイン、ライバル、欲望の対象が動いてドラマが生まれます。恋愛小説一つとっても、主体と対象との一直線の関係でドラマなんか生まれるわけがない。ここには必ず媒体が必要です。媒体は一つに限りません。特に現代社会では無数の情報が媒体となり得る。形もにおいも色もない何かが媒体となり得ることがあります。インターネットを通して飛び込んでくる何かも媒体になり得ます。


 こうして誕生した近代小説におけるもうひとつ重要な特徴として主人公の死(もしくは悲劇的な結末)をあげることができます。

「長編小説が意味をもつのは、・・・他人の運命が、それを焼き尽くす炎によって、私たち自身の運命からは決して得ることのできない温もりを、私たちに分け与えてくれるからなのだ」
ウォルター・ベンヤミン

 だから、「ドン・キホーテ」も「ボヴァリー夫人」もラストでヒーロー、ヒロインは孤独のうちに死ななければならないのです。

<三十五歳で死んだ男は、想起にとっては、彼の人生のどの時点においても三十五歳で死ぬ男として現れるだろう>ということなのである。・・・
 この文は、長編小説中の人物の生の「意味」は、その死から見たときはじめて解明される、ということを言っている。・・・
 だから私たちは長編小説にこそ、生の意味を読み取る手がかりを求めている。主人公の死とともに、その主人公の生の意味を感得、感受する。そえは擬似的とはいえ、我々読者の生の意味になります。なぜなら読者たる私は主人公とずっと一体で生きてきたのですから。つまり、この主人公の死は、擬似的に、比喩的に、読者自身の死と重なります。
 たとえ小説中の人物が死ななくても、小説の終わり、近代小説の終わりは、死の一つの比喩として機能します。童話だとか神話は、一つの話が終わっても、その次は、その次は?という問いによってどこまでも続けることができます。しかし、近代小説は、終わったらもうそれっきりです。つづきはありません。つまりこれは、主人公の死であると同時に、その物語の死、その物語に描かれた生の死を意味します。したがって小説作品がほんとうに我々をとらえるのは再読されたときからといっていいでしょう。まず読む。「赤と黒」をまず読む。そして最後まで読む。そしてそれを一年後でも三年後でも十年後でも、再読したとき、今ここで話したようなこと - 想起が起きます。・・・
 そこで初めて我々は、生の意味を「感得、感受する」ことが可能になるのです。


<「探偵小説」というスタイルの誕生>
 「ドン・キホーテ」と「ボヴァリー夫人」により、近代小説はほぼ完成されたといえますが、技術的にさらなる進化を遂げた小説のスタイルとして「探偵小説」があります。

・・・すべての近代小説は探偵小説であると言われることがあります。探偵小説というのは、謎解き小説ですが、これは近代になって初めて登場してきたジャンルです。本、あるいは新聞という器が登場して初めて成立するジャンル。つまり、読むということが物語を鑑賞する中心になったときに、初めて成立する物語のジャンルです。

・・・探偵推理小説こそプロットそのものを物語全体の枠組みにした小説です。普通の小説は、ストーリーという大きな物語の構造、枠組みをまず置いて、その中に幾つものプロットとストーリーを組み合わせながらドラマをつくっていく。探偵推理小説というのは、枠組みをプロットとして、そしてその中にストーリーを組み込んでいきます。

 探偵小説が描くのは、犯罪を調べ、その犯人を追う作業の中で、事件の原因を暴くことが最大の目的だとうことです。物語のすべてはそこに向かって進むということです。

 死体という結果、この犯罪が行われた現場、つまり、犯行現場としての犯罪の起源。探偵行為は、起源への遡行、起源にさかのぼるということです。犯行現場が再現され、犯人が最後に名指しされます。つまり、起源を暴くということです。そこでこの小説は終わります。

・・・探偵小説における謎というのは死体です。解というのは、真犯人。では、我々の人生に最大の謎は何でしょう。それは、死です。誕生は謎を構成するほどの力を持ちません。なぜなら、それは偶然によるものだからです。私がこの世に現れたのは偶然です。しかし、私の死は必然。私は死を逃れることができない。だからこそ謎を構成する。偶然と必然、この両端の間に人生がある。我々は誕生から死へ向かって生きている。死とは何か、死ぬとはどういうことなのか?という問いを立てることそのものが生きているということでしょう。

<海外における小説の発展>
 こうして、ヨーロッパで誕生した近代小説は、その後、ヨーロッパ諸国の世界の植民地化とともに世界中に拡散してゆくことになります。ここでは「翻訳」が重要な役目を果たしています。

 我々はもう一度、翻訳という行為の崇高さに思いを致した方がいい。世界は諸言語が共存しているから豊かさになるのです。翻訳という行為によってこそ純粋言語の世界を垣間見ることができる。それがもし英語だけになって翻訳の必要がなくなったとしたら、我々は一つ一つの言語の彼方にある純粋言語の世界を夢見ることはできなくなる。・・・

<日本の場合>
 翻訳されたヨーロッパの小説は、それぞれの国によって独自の吸収のされ方とそこからの進化を遂げ、新しい文学を各地に生み出すことになります。
 例えば、日本には「私小説」というスタイルが生まれました。

 日本の場合、そのことはかなりなし崩し的に行われた。痛みはあったにしても、・・・。近代的皇帝の衣装をまとった天皇を裁き、富国強兵策を実行して、列強の仲間入りを果たして、アジアの盟主になる。偽のヨーロッパに、つまり、帝国主義列強に仲間入りすることで、近代が破壊したものの傷を、一個人の隠微なつぶやきによって、悲鳴を上げつつもそれを隠蔽しつつ表現をした。それが私小説と呼ばれるものではないか。
 なぜ日本の私小説が独特なのかという点は、そこにあると思います。我々は一神教の神を、起源としても神話としても持たなかった。それゆえに傷は浅く、あたかも自分たちが近代的自己になりきったかのように鑑賞して、この百数十年生きてきたのではないか。
・・・

<イスラム圏の場合>
 例えば、イスラムの国々においては・・・。

 彼らは植民地として、あるいはヨーロッパ列強の石油争奪戦争のもとに簒奪されつつ、真の近代化を必要とされなかった。イスラムは、ヨーロッパと手を組んだ王たちの支配で、逆に古い伝統的社会を保存してきた。王たちが石油の全権を握っている。ヨーロッパの列強は、アラブ世界の近代化に手を貸すことはしない。逆に温存したほうが、王との関係でうまくいきますから、都合がいい。こうして、古い伝統的イスラムの社会が保存されていた。
 これが狂ってくるのが、東西冷戦が終わってからでしょう。冷戦はソ連の崩壊、自由主義陣営の勝利で終わった。共産化に対する楯、防波堤となっていたアラブの王制をアメリカははもはや守る必要がなくなった。むしろ、民主化されるほうが望ましい。・・・
 テキスト、コーランの侵犯、解体が始まります。彼らのショックは大きい。なぜなら、一神教の神が、今まさに否定されようとしているからです。・・・
 まさにそういうときに、サルマン・ラシュディの「悪魔の詩」という小説がロンドンで刊行された。

 かつて我々は、神が作ったフィクションとしての世界にいた。それに対して現代の我々は、我々自身が作ったフィクションの世界にいる。・・・
 しかし、どうでしょうか、どこか全感覚で得心できるような物語を持たなければ、人間としての生存、つまり、言葉、精神的存在が危うくなる。それが我々人間という存在です。・・・
 ラシュディの「悪魔の詩」というテキストは、イスラムの起源のテキスト、コーランをからかいの対象にすることによって、イスラムの起源というフィクションを揺るがした。起源を暴き、揺るがすには、フィクションをもってするしかありません。起源も言葉です。この起源を否定したり、暴いたり、壊すためには、もう一つの起源の物語を、言葉、パロディという形でつくってそれを揺るがすしかない。
 フィクションは、まじめに受け取るべきセンセーションな真理を含んでいるということ。このことを肝に銘ずるべきなのです。小説を読む、書くという行為は、必ずこのような危険をはらんだ行為であるということも忘れてはいけない。


 フィクションの持つ力は、イスラム圏の国々だけを変えるのではなく、ヨーロッパをも、日本をも再び変える可能性を持っているはずです。それはまさに村上春樹が以前から語っていたことです。

「私たちがこの不幸な事件から真に何かを学びとろうとするなら、そこで起こったことをもう一度別の角度から、別のやり方で、しっかりと洗いなおさなくてはいけない時期にきているのではないだろうか。『オウムは悪だ』というのは易いだろう。また『悪と正気とは別だ』というのも論理自体としては易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかりあっても、それによって<乗り合い馬車的コンセンサス>の呪縛を解くのはおそらくむずかしいのではないか。
 というのは、それらは既にあらゆる場面で、あらゆる言い方で、利用し尽くされた言葉だからだ。言い換えれば既に制度的になってしまった、手垢にまみれた言葉だからだ。このような制度の枠内にある言葉を使って、制度の枠内にある状況や、固定された情緒を揺さぶり崩していくことは不可能とまではいわずとも、相当な困難を伴う作業である私には思えるのだ。
 とすれば、私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語『物語を浄化するための別の物語』なのだ - ということになるかもしれない。」

村上春樹「アンダーグラウンド」より

「東京大学で世界文学を学ぶ」 2010年
(著)辻原登 Noboru Tsujihara
集英社

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