- キング・クリムゾン King Crimson -

<ロバート・フリップの精神を音楽化>
 キング・クリムゾン=ロバート・フリップと言ってよいでしょう。かつて、エマーソン・レイク&パーマーのグレッグ・レイクエイドリアン・ブリューなども一時的にメンバーとして在籍していたこともあるように、キング・クリムゾンのアルバムは、すべて異なるメンバーによって録音されています。しかし、キング・クリムゾンが、あくまでロバート・フリップを中心としたプロジェクトであると考えると、彼の目指すサウンドによってメンバーが入れ替わるのは当然のことだったと分かります。さらに言うと、このバンドはロバート・フリップの精神の進化の歴史をそのまま音楽化するために存在していたとも考えられそうです。

<キング・クリムゾン誕生>
 ロバート・フリップは1946年、イギリスのオーセット州ドーセットシャーに生まれました。10代の初めから音楽に打ち込み始め、音楽理論やクラシック・ギターなどをマスターし、1967年には友達のマイケルとピーターのジャイルズ兄弟とバンドを結成しました。この幻のバンド、ジャイルズ、ジャイルズ&フリップはアルバムを一枚発表しましたが、なんと全世界トータルで600枚しか売れなかったといいます。(まさに幻のアルバムだ!)そのうえ彼らは、その時点で一度もライブ活動を行っておらず、1969年になって初めてクラブに出演したといいます。しかし、この時すでに彼らはバンド名を、キング・クリムゾンに改めていて、メンバーも代わっていました。そして、あの名作「クリムゾン・キングの宮殿」の録音を開始しようとしていたのです。

<「クリムゾン・キングの宮殿」誕生>
 プログレッシブ・ロックを代表する名盤というより、今やロック史を代表する傑作と呼ばれている「クリムゾン・キングの宮殿」の第一回目の録音は、1969年6月に行われました。ところが、ほぼ一週間かけて行われた最初の録音テープは、日の目を見ることなく破棄され、再録音が行われます。しかし、結局その録音テープも破棄されてしまいました。どうやらこの時、キング・クリムゾンのメンバーとプロデューサーのトニー・クラークの間でアルバムの方向性について、激しい意見の対立があったようです。すでに、ムーディー・ブルースのプロデューサーとして成功していたトニー・クラークは、キング・クリムゾンにもムーディー・ブルース同様ヨーロッパ的ロマンチシズムをもつ美しいロックを期待していたようです。しかし、ロバート・フリップを代表とするバンドのメンバーは、単にムーディーなだけのロック・インストロメンタル・サウンドを追求するつもりなどなかったのです。結局、トニー・クラークはプロデューサーを降りてしまい、クリムゾンはデビュー・アルバムからいきなりセルフ・プロデュースを行うことになりました。

<驚異のデビュー・アルバム>
 それでも、彼らのデビュー・アルバムは、発売前の段階ですでに前評判が高くヒットが期待されていました。とはいえ、ろくにライブ活動も行っていない海のものとも山のものとも知れないバンドのデビュー・アルバムです。それがまさかあのビートルズの「アビー・ロード」を、全英ナンバー1の座から引きずりおろすほどの大ヒットになるとは、いったい誰が予想したでしょう。もちろん、このアルバムが、それだけのヒットが当然と思われる作品に仕上がっていたことは確かです。特に最初の3曲「21世紀の精神異常者」、「風に語りて」、「エピタフ(墓碑銘)」は、ポップでありながら、異常なほどのテンションの高さも合わせもつ、未だに聴く者をゾクゾクさせる時代を越えた名曲です。

<驚異のパフォーマンスを生んだメンバー>
 この作品を生み出したクリムゾンの中心は、もちろんロバート・フリップでしたが、当時あれだけの高度なサウンドを生み出すことは、優秀なメンバーの存在がなければ不可能だったはずです。ロバート・フリップ(ギター&キーボード)、グレッグ・レイク(ヴォーカル、ベース)、マイケル・ジャイルズ(ドラムス)、イアン・マクドナルド(キーボード、サックス)、ピート・シンフィールド(なんと作詞担当のメンバー!)の五人が、その記念すべき初代クリムゾンのメンバーでした。

<プログレッシブ・ロックを代表するバンドへ>
 こうして彼らは、同じ時期に活動を開始したピンク・フロイドイエス、そしてエマーソン・レイク&パーマーとともに、プログレッシブ・ロックの4大バンドという称号を与えられ、プログレッシブ・ロックの黄金時代を築いて行きました。
 「ポセイドンのめざめ」、「リザード」(1970年)、「アイランズ」(1971年9、「太陽と戦慄」(1972年)、「スターレス&バイブル・ブラック」、「レッド」(1974年)とコンスタントにアルバムを発表し続けます。
 デビュー・アルバムですでに実現されていた驚異的な演奏力とがっちりと構築された美しさは、しだいにフリー・ジャズ的なインプロヴィゼイション重視のサウンドへと変わってゆき、デビュー・アルバムがもっていたポップさはしだいに失われて行きましたが、そのテンションの高さはさらに増して行きました。しかし、この時点でバンドは一時解散します。もちろん、クリムゾンの進化はそこで終わったわけではありませんでした。

<第二期キング・クリムゾン誕生>
 1981年、ロバート・フリップはエイドリアン・ブリュー(ギター)、トニー・レヴィン(ベース)、ビル・ブラッドフォード(ドラムス)とともに新生キング・クリムゾンを立ち上げます。その再デビュー・アルバム「ディシプリン」は、当時一大ブームとなりつつあったアフリカのリズムを大胆に取り入れた作品で、それまでのクリムゾンのイメージを大きく変えたこれまた傑作でした。こうして活動を再開したクリムゾンは、「ビート」(1982年)、「スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー」(1984年)の二枚のアルバムを発表した後、再び活動を停止します。

<第三期キング・クリムゾン誕生>
 1994年、再びロバート・フリップは、キング・クリムゾンを再結成。「ブルーム」(1994年)、「スラック」(1995年)、「スラック・アタック」(1996年)とアルバムを発表。

<進化し続けるバンド>
 デビュー・アルバムで最高傑作を生みだしてしまったバンドは数多い。しかし、そのほとんどは、その作品を越えるための闘いに早々と敗れ去り、消えています。(自殺したり、麻薬などで命を縮めたり・・・)
 しかし、このバンドはそんな世評をものともせず20世紀を見事に駆け抜けました。それはロバート・フリップという男が、常に変化することを望んでいたからなのかもしれません。グラミー賞をとることよりも、プラチナ・アルバムを作り上げることよりも、マリブに豪邸を建てることよりも、ローリング・ストーン誌の年間最優秀アルバムになることよりも、彼はなにより今までとは違う新しい何かを生み出すことに喜びを感じていたのでしょう。そして、彼ほどの完璧主義者は珍しく、どの作品においても、常にやるだけのことをやっていました。だからこそ、彼は過去の作品にこだわることなく次の作品へと進んでいったのです。
 プログレッシブ・ロック、「進歩的なロック」という名前は、まさに彼のためにあったと言えそうです。

<早すぎた傑作>
 20世紀映画史における最高傑作のひとつ「市民ケーン」の公開までの裏話を映画化した「ザ・ディレクター」という作品があります。26歳で映画監督としてハリウッド・デビューを果たした天才、オーソン・ウェルズは、いきなり映画史に残る作品を作り上げてしまい、友人の脚本家にこう言われる。
「26歳でそんな傑作をつくっちまって、これからどうするんだい・・・」

<恩寵の扉>(追記)2014年6月
「プロのミュージシャンならば誰でも年に一度は素晴らしいライブを体験できるものだ。ところが「恩寵の扉」が開いてた頃、年数十回のライブ全てで、奇跡が起こった。演奏するたびにありえないことが起こり、日常世界の破れ目から「非日常」が飛び込んできた。
 ところが70年代に入ると、なぜか「恩寵の扉」が閉じてしまった。閉じた扉が開くのを待ち続けて30年が経ち、そして今も待っている。扉が開いたときに備えて、恩寵に最大限に敏感でありうべく、厳しいディシプリン(訓練)に励んでいるのだ・・・」

ロバート・フリップ(「世界はそもそもデタラメである」より宮台真司によるインタビューから)

<締めのお言葉>
「・・・よくって、キティ、夢を見たのは、わたしか、赤の王様か、どちらかに違いないのよ。むろん、赤の王様は私の夢の一部分だわ。だけど、わたしだって、赤の王様の夢の一部分だったのよ。夢を見たのは王様のほうかしら、キティ?・・・」
ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」

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