- キンクス The Kinks -

<最も英国的なバンド>
 あらゆるブリティッシュ・ロック・バンドの中で最も英国的な存在がこのキンクスかもしれません。バンド名の由来である「Kinks」とは「気まぐれ、ひねくれ」といった意味です。イギリス人独特のひねりのきいたブラック・ユーモアを得意とするバンドにピッタリの名前です。そして、なによりもこのバンドはイギリス王室の歴史には遠くおよばないものの、ロック・バンドとしてはローリング・ストーンズとともに最古の歴史を持つ歴史的存在です。しかし、残念なことに彼らの知名度は同時期に登場したストーンズやビートルズに比べるとかなり低いといわざるをえません。バンドの中心であり、ソングライターでもあるレイ・デイヴィスの曲はポップでけっして小難しいものではなく実際数多くのシングル・ヒットも出しているのですが・・・。
 彼らは1971年以降、活動の中心をアメリカへと移し、より大きな成功をめざましたが、なぜか80年代には再び活動拠点をイギリスにもどしています。たぶんこうして彼らがアメリカから帰ってしまったこと自体、彼らがいかにイギリス的であったかという証なのかもしれません。そんな「ロック界のモンティー・パイソン」キンクスの歴史を振り返ってみます。

<キンクス結成>
 キンクスのソングライター&リーダーであるレイ・デイヴィス(本名レイモンド・ダグラス・デイヴィス)は、1944年6月21日ロンドンで生まれたチャキチャキのロンドン子です。彼が美術学校の学生だった頃、弟のデイヴ(デヴィッド・ラッセル・ゴードン・デイヴィス)とその友人、ミック・エイヴォリー(ドラムス)、ピート・クワイフ(ベース)を誘って結成したのがキンクスの前身となったレイヴンズでした。この後彼らはラリー・ペイジというプロデューサーの目に留まり、デビューのチャンスをつかむことになります。そして、この時、ラリー・ペイジが新しいバンド名として提案したのが「キンクス Kinks」という名前で、同時に彼らはエドワード7世時代風の派手なハンチング・ジャケットを着せられてデビューすることになりました。当時は、ビートルズ、ストーンズらを中心とするブリティッシュ・ビート・バンドの黄金時代で、その波に乗るためには、とにかくイギリス風のファッション・スタイルが求められていたのです。
 とはいえ、演奏する曲はあくまでアメリカ風が求められ、それも黒人音楽が旬であったことから、彼らはデビュー曲にリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」を選びました。ところが、このカバー曲はさっぱり売れず、意外なことにオリジナル曲の3枚目のシングルが全英1位、全米7位の大ヒットとなります。それがキンクスの名を永久不滅のものにした名曲「You Really Got Me」(1964年)でした。

<バンド解散の危機>
 彼らはその後も「All Days and All of the Night」(全英2位)、「Waitting for you」(全英1位)、「Set Me Free」(全英9位)などのヒット曲を連発。彼らのサウンドには「キンキー・サウンド」という愛称まで与えられました。しかし、こうしてアイドル・グループとしての地位を築きながらもキンクスは常に解散の危機にあったともいわれています。ドラムのピート・クワイフは何度も脱退と復帰を繰り返し、1968年ついに正式にバンドから脱退しています。さらにリーダーのレイ・デイヴィス自身も、お仕着せのアイドル・バンド路線に納得できず、何度も脱退を宣言、そのたびに説得されてバンドに戻っていました。こうした、バンドの内情は当然バンドのライブ活動にも影響を与えることとなり、彼らのライブは頻繁にキャンセルされていました。特にひどかったのは、1965年のアメリカ・デビュー・ツアーで、この時のキャンセルはアメリカの音楽ビジネス関係者を激怒させることになりました。そのため、彼らの名前は音楽業界のブラック・リスト入りし、その後彼らはアメリカでの活動を大幅に制限されることになります。こうして、彼らは1960年代にアメリカ進出を目指す事ができなくなってしまいました。すでにアメリカ進出を果たしたビートルズやローリング・ストーンズに比べ、彼らが世界的に知名度が低いのはこの時の失敗が原因だったともいえます。しかし、彼らの音楽がもつ英国的なブラック・ユーモアは、こうして英国にとどまることになったために生まれたともいえますから、一概にアメリカに行くべきだったとはいえないでしょう。

<新たなるスタート>
 1967年、しだいに自分の目指す音楽が見えてきたレイは、それまでのシングル・ヒット狙いの路線からアルバム重視の路線へと急激に方向転換を行います。そのため、それまでデビュー以来、彼らのレコードをプロデュースしていた大物プロデューサー、シェル・タルミーをはずし、レイ自らがプロデュースを行うようになります。ミュージシャン自らがプロデュースを行うというのは当時はまだ珍しく、その点でも彼らはいち早く新しいロックの道を歩み始めたバンドだったといえるでしょう。
 こうして生まれた彼らの6枚目のアルバム「サムシングエルス・バイ・ザ・キンクス Something else by the Kinks」(1967年)は、残念ながらそれほどのヒットとはならず(全英35位)、レコード会社とレイはその後の方針について対立するようになっていました。
 しかし、8作目となった彼らのアルバム「アーサーもしくは大英帝国の衰退と滅亡 Arthur or the Decline and Fall of the British Empire」(1969年)は、「ロック・オペラ」&「コンセプト・アルバム」というロックの新しいスタイル初期の傑作として高い評価を得ることに成功します。文字通り没落する大英帝国の歴史をテーマで制作されたイギリス・グラナダTVの番組用サウンド・トラックとして作られたものでした。そうでなければ、そこまでマニアックな内容のコンセプト・アルバムは作れなかったかもしれません。しかし、このアルバムの成功により、彼らはその後もロック・オペラ的な作品作りを行うことが可能となり、翌1970年、彼らはこうした路線の最高傑作ともいえるアルバム「ローラ対パワーマン、マネーゴーランド組第一回戦 Part 1.Lola Versus Powerman and the Moneygoround」を発表。このアルバムからは彼らの代表曲ともなったシングル「ローラ」、「エイプマン」も生まれ、「アルバム」「シングル」両方で成功することも可能であることを証明してみせました。
 1971年彼らはRCAレコードに移籍しニューアルバム「マスウェル・ヒルビリーズ Muswell Hillbillies」を発表。活動拠点をアメリカへと移しました。1972年にはこの時期のキンクスを代表するアルバム「この世はすべてショウ・ビジネス Everybody's in Showbiz」を発表。さっそくアメリカの音楽ビジネス界について皮肉混じりに歌い高い評価を得ましたが、売り上げはさっぱりでした。(全米70位どまり)しかし、レコード会社を移籍したことで自由な作品作りが可能になったことでキンクスはいよいよマニアックなロック・オペラ路線を歩み始めました。
「プリザベーション第一幕 Preservation Act 1」(1973年)、「プリザベーション第ニ幕 Preservation Act 2」(1974年)、「ソープ・オペラ Soap Opera」(1975年)(その名のとおり昼メロのパロディ)、「不良少年のメロディ Schoolboys in Disgrace」(1975年)(教育問題について)
 結局、この時期の作品はどれも売り上げに結びつかず、すべて廃盤となってしまいました。(後に復刻)

<再浮上>
 1977年、キンクスはアリスタ・レコードへと移籍。移籍第一弾のアルバム「スリープウォーカー Sleepwalker」(1977年)は、全米21位のヒットとなり、上々のスタートとなりました。さらに翌1978年になるとヴァン・ヘイレンによる「ユー・リアリー・ガット・ミー You Really Got Me」のカバーが世界的に大ヒットし、キンクスの名前もまた再び脚光を浴びるようになりました。
 勢いに乗る彼らは、全米11位となった傑作アルバム「ロウ・バジェット Low Budget」(1979年)を発表。さらに1980年のライブ・アルバム「One for the Road」では「ユー・リアリー・ガット・ミー」や「ローラ」を再演し、新しいファン層を獲得します。
 この頃、元々音楽評論家であり、キンクス、特にレイの大ファンだったというプリテンダースのクリッシー・ハインドとレイの恋が発覚。なんとプリテンダースとキンクスは全米でジョイント・トゥアーを行い、その後日本へもやって来て初コンサートを行っています。(1982年)
 1983年、結成20周年を迎えたキンクスは、80年代を代表する作品「ステイト・オブ・コンフュージョン State of Confusion」を発表。タイトルどおり、アメリカの体制を批判したアルバムは売り上げ的にも全米12位のヒットとなりますが、続くアルバム「ワード・オブ・マウス Word of Mouth」(1984年)発表後、キンクスはアリスタを離れ、新たなスタートを切ることになりました。こうして1985年頃、キンクスは一時的に休止状態となり、その間レイ・デイヴィスは2本の映画に関わりました。一本は、ジュリアン・テンプルのロック・ミュージカル映画「ビギナーズ」(1985年)への出演。もう一本は、「Return To Waterloo」という映画で、なんと彼はこの映画の脚本を書き、監督も勤めています。(日本未公開)
 1986年、ロンドン・レコードと契約したキンクスは再び活動拠点をイギリスに戻しました。この年発表のアルバム「シンク・ヴィジュアル Think Visual」からは「How are you」、「Rock'n Rolll Cities」がヒット。この後行われた久々の全英全米ツアーの様子はライブ・アルバム「ザ・ロード Live the Road」として発表され、キンクスの健在ぶりを世に知らしめました。
 1989年、25周年を迎えたキンクスは26作目となるアルバム「UKジャイブ UK Jive」を発表。
 すると彼らの25周年を祝うべくイギリスのインディーズ・バンドたちによるキンクスのカバー・コンピレーション・アルバム「シャングリラ Shangri-La/A Tribute to the Kinks」が発表されました。キンクスは、未だイギリスの若手バンドにとって憧れの存在であり続けているのです。この後、キンクスが発表するアルバムはぐっと数が減ってゆき、ライブも少なくなってゆきます。
 アメリカ批判のアルバムを作り、どのバンドよりもイギリス的なブラック・ユーモアに満ちたバンドでありながら、アメリカに活動拠点を移したのは、けっして税金対策やアメリカへの憧れが原因ではなかったはずです。
 でも、パンク・ブームの1978年にパンツ批判の歌を収めたアルバム「歪んだ映像 Mistits」を発表したのもキンクスです。ある意味パンク精神を未だに持ち続けている彼らだからこそ、ブームに乗ったパンク・バンドの急増ぶりを皮肉りたくなったのでしょう。そして、同じようにアメリカが生んだロックの魂を未だに持ち続けている彼らだからこそ、アメリカを愛し、かつ憎まざるをえないのかもしれません。
 お気づきの方もあるかと思いますが、今この文章を書いている僕自身、ロックを生み出したアメリカの文化を愛しつつも、アメリカの国としての愚かさを憎む人種の一人のような気がします。悪口ばかりいうのも、愛情の裏返しでもあります。

<締めのお言葉>
「最も胸がわくわくするのは、それをしないことだ。もしだれかを本当に好きになって、それを絶対にしないなら、それは(するよりも)うんと刺激に満ちた素晴らしいことだ」

アンディー・ウォーホル

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