「地獄門」

- 衣笠貞之助 Teinosuke Kinugasa -

<世界の映画史に残る傑作>
 カンヌ映画祭グランプリとアカデミー外国語映画賞をダブル受賞している映画史に残る作品、というだけでも見たくなる映画です。しかし、今までタイトルは知っていても未見のままでした。それが先日(2011年春)、NHKのBS2でデジタル・リマスター版を放映してくれたのでついに見ることができました。
 デジタル・リマスター版といっても、単純にデジタル処理しただけでは退色が激しいフィルムから元々の映像を蘇らせることは無理だったため、当時の色を復元するための様々な処理がなされています。そうして蘇った映像は思っている以上に華やかな色合いでその美しさに驚かされます。まだ質実剛健の武士の時代ではなく、貴族文化の時代だったことも影響しているのでしょう。それだけに、日本文化が持っていた美しい色彩美を楽しむだけでもこの映画を見る価値があります。この映画の色彩設計を担当しているのは、洋画家の和田三造。彼は当時の日本を代表する洋画家のひとりとして、この作品の色彩設計だけでなく、衣装デザインも担当。この映画でなんとアカデミー衣装デザイン賞を獲得しています!
 それぞれの場面の構図は明らかに日本の古い絵巻物を意識していると思われます。そのため、どの画面も見ごたえがあり、絵画のように美しいことに感心します。

<魔性の女と暴力男>
 この映画の物語はいたって単純です。
 平清盛のもとで武士として使える侍が、名門の武家の人妻(京マチ子)に恋をしてしまい、無理やりその妻を横取りしようとする男社会、武力優先社会だからこそあり得た「無理やり不倫」ドラマといった感じです。貴族社会から武家社会へと転換が起きている時代だからこそ、力のある者が女も獲得できるという強者の論理を発揮できたドラマです。しかし、妻にはそんなマッチョな男より、性格も見栄えも良い名門家庭の夫(山形勲)の方が良いに決まっています。そうなると、主人公の侍(長谷川一夫)はまるで今のストーカー男と同じ、ただし暴力を得意とするだけ性質が悪いことになります。それなら妻は夫に早くそのストーカー男のことを説明してなんとかしてもらえば良いものを、なぜかそれをしません。ということは自分の心にやましいところがあるということなのでしょうか?
 そう考えると、京マチ子演じる妻は、まさに「魔性の女」です。彼女の顔だちがまた実に昔風の美人顔。今の感覚では美人に見えない気もしますが・・・。それは置いておいて、確かに彼女には男を狂わせる魅力、というよりカリスマ性があるきがします。自分が誘惑したのではないとはいえ、愛されてしまったのは自分の魅力のせい、そう考えた彼女は自ら死を選んでしまいます。その選択こそ、今や日本から消えつつある人生の美学ということになりそうです。現代の魔性の女なら、主人公どころかその主君である平清盛だって口説こうと考えるのではないでしょうか。「魔性の女」もまた時代によって変遷があるのでしょう。
とはいえ、「悪女」と「魔性の女」は確かに異なる存在です。「悪女」は意図的に男を騙しますが、「魔性の女」はけっして意図的ではなく男のほうが騙されてしまうのです。いますよね、そういう女の子・・・。

「地獄門」 1953年
(監)(脚)衣笠貞之助
(製)永田雅一
(原)菊地寛
(美)西岡善信
(音)芥川也寸志
(出)長谷川一夫、京マチ子、山形勲

<衣笠貞之助>
 衣笠貞之助は、1890年1月1日三重県亀山市の裕福な商家に生まれました。少年時代から芝居に熱中し、家出して新派の一座に加わった彼はその後、一座を移りながら役を獲得。二枚目だったこともあり、いつしか女形のスターとして人気者となりました。
 1917年、21歳の時、日活のスカウトに認められて女形の俳優として入社。翌年「七色指環」でデビューしてからは、5年間に130本もの映画に出演しました。その間、映画製作の現場で多くのことを学んだ彼は、1920年、自らが脚本を書いた作品「妹の死」でヒロインの妹役を演じ、なおかつ演出にも参加。当時、映画における女性の役は、歌舞伎などの影響もあり男性が演じる場合が多かったのですが、少しずつ女性の俳優が演じるように変わり始めていたことから、彼は女形に見切りをつけようとしていました。
 こうして、1923年に「妹の死」を自らが監督となってリメイクした「二羽の小鳥」からは監督専業となります。その後、1926年には彼にとっての代表作のひとつ「狂った一頁」を撮ります。

「狂った一頁」 1926年
(製)(監)(脚)衣笠貞之助
(原)(脚)川端康成
(脚)犬塚稔、澤田晩紅
(撮)杉山公平
(配給)新感覚派映画連盟
(出)井上正夫、中川芳江
 新感覚派の作家、横光利一の企画と川端康成のシナリオを基にした先鋭的な作品。
 精神病院を舞台にフラッシュバックなどの特殊な映像手法を用いて患者の妄想をイメージ化するという斬新な手法は、明らかに当時世界の映画界をリードしていたドイツ表現主義の作品郡(「カリガリ博士」など)からの影響が濃いとされています。
 この作品は長くフィルムが紛失したままとなっていましたが、1971年に彼の自宅蔵から発見され、その後世界的な再評価を受けることになりました。

 1928年の「十字路」ではセットを極端にデフォルメして、リアリズムとは対局にあたる独自の映像世界を創出。その中で時代劇を撮ることで海外でも注目されるようになります。
 1932年には、日本映画における最初のトーキー大作映画「忠臣蔵」前・後編を監督。いよいよ日本を代表する監督となりました。
 その間、1927年に彼は独立プロ「衣笠映画連盟」を設立。松竹映画からの依頼により、歌舞伎の女形出身の俳優・林長二郎(後の長谷川一夫)を主役に抜擢して作品と撮り始めます。こうして、「弁天小僧」(1928年)、「鯉名の銀平」(1933年)、「沓掛時次郎」(1934年)とヒット作を連発。そして、このコンビは名作「雪之丞変化」(1935年)を世に出すことになります。

「雪之丞変化」 1935年
(監)衣笠貞之助
(原)三上於菟吉
(脚)伊藤大輔
(配給)松竹
(出)林長二郎(長谷川一夫)、嵐徳三郎、伏見直江、千早晶子
 歌舞伎の様式美を生かした立ち回りの美しさで観客を魅了。主役の林は雪之丞、闇太郎、母親の三役を演じ、特に母親役での美しさが大きな話題となった。衣笠作品の中でも特に代表作であると同時に女性ファンたちを熱狂させた長谷川一夫の代表作でもあります。

 1939年、彼は松竹を退社し、東宝に移籍。移籍後第一作は長谷川一夫に名前を改めた林長二郎とのコンビ作「蛇姫様」(1939年)。ここから再び長谷川一夫とのコンビ作が続き、戦後の「源氏物語・浮舟」、「鳴門秘帖」(1957年)まで続き、35本にも及びます。戦後の復帰作「或る夜の殿様」(1946年)は戦争により荒廃した世相を諷刺したコメディーで、新しい時代を象徴。これも高く評価されました。

 彼は元々が女形の俳優出身ということで、女性の美しさを演出することにかけては特に優れており、彼によってその立ち居振る舞いからがっちりと指導された女優たちはより美しい女優へと変身しました。その代表的な女優としては、山田五十鈴や山本富士子らがいました。1950年代に入り、彼は大映へと移籍。そこで歴史的名作となった「地獄門」を監督します。この後、彼は大映の重役として活躍することになり、1966年の日ソ合作映画「小さい逃亡者」を最後に70歳で監督業から引退。1982年2月26日にこの世を去っています。

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