「美しい夏 キリシマ」

- 黒木和雄 Kazuo Kuroki -

「美しい夏キリシマ」
 終戦間近の1945年、九州宮崎県の霧島を舞台に美しい自然の中で生きる人々のひと夏の出来事をつづった作品。
 主人公の少年(柄本佑)は、勤労動員で働いていた鹿児島の工場で空襲にあい、多くの友人を目の前で亡くすという悲惨な体験をして帰ってきたばかりでした。美しい自然に囲まれた霧島は、そんな戦争とは無縁のように感じられますが、彼の心の奥には友人を置き去りにして逃げざるを得なかった悔いとその時の悲惨な地獄絵が浮かんで離れませんでした。
 平和に見える田舎の地に住む誰もが、どこかに戦争による心の痛みを抱えていた、静かな夏を淡々と描くことでかえってその悲しみを感じさせる美しく悲しい映画です。「美しい夏キリシマ」というタイトルが示すように、そこで描かれるキリシマの自然はどこまでも美しく、そこで暮らす人間たちが背負う悲劇など関係がありません。反戦映画ではあっても、この映画は戦争の悲惨さを描くのではなく、人生の素晴らしさを描き、だからこそ、そのすべてを奪う戦争こそ悲劇の元凶であると強く訴えることが可能になったのです。はその映像が目に焼きついて離れない魅力をもつ傑作です。

「美しい夏キリシマ」 2003年
(監)(脚)黒木和雄
(脚)松田正隆
(撮)田村正毅
(音)村松禎三
(配給)パンドラ
(出)柄本佑、原田芳雄、小田エリカ、牧瀬里穂、石田えり、香川照之、平岩紙、寺島進

<黒木和雄>
 この映画の監督、黒木和雄は、1930年11月10日、九州の宮崎に生まれています。小学生の頃、満州に引越しますが、学校に通わずに映画館に入り浸っていたために宮崎の実家に帰されたのだそうです。そして、中学生の時、鹿児島の工場へ勤労奉仕に行っていた際、アメリカ軍の空襲をうけ、この映画の主人公と同じ体験をしたのでした。燃え盛る工場から必死で逃げた彼はその途中、助けを呼ぶ怪我をした友人たちを見殺しにせざるをえませんでした。彼はこの時を生涯忘れることができず、そのことが彼の後期作品群の重要なテーマとなったのでした。
 終戦後、彼は同志社大学に入学しますが、そこで共産党のオルグにより山村工作隊に参加します。しかし、共産党の過激な活動は失敗に終わり目的を失った彼は大好きだった映画を撮る仕事につくことを目指し、1954年東京へ出て岩波映画製作所に入社しました。当時、岩波映画では企業や官公庁のPR映画を撮る部門が忙しく、彼もその分野の映画を撮ることろからキャリアをスタートさせています。
 当時、彼が衝撃を受けた監督のひとりにフランス、ヌーヴェルバーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールがいます。
「それまで文学のほうは本物だという感じがしたけれども、映画のほうはまだウソだという気がしていたのに、ゴダールの場合はこれはもうやってましたね・・・こう・・・・何というか・・・ダーッといって、ポカッとくるというような・・・」
田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より

 監督第一作は東芝の海外向けPR映画「Electric Rolling Stock of Toshiba」(1958年)です。この作品はPR映画とはいっても、その中に作家性、芸術性を盛込んでいる点で高く評価されました。(同じ時期岩波映画からスタートした監督としては、羽仁進もいます)
 しかし、もともとがバリバリ左派の人間だった彼が、仕事とはいえ大企業のPR映画を撮ることが楽しいわけはなく、芸術性を追求することでスポンサーと対立するようになり、1962年の「わが愛、北海道」を最後にフリーの監督となります。
 1964年、メキシコ・オリンピックのマラソンで銀メダルを獲得したマラソン・ランナーの君原健二のドキュメンタリー映画「あるマラソン・ランナーの記録」を撮った彼は、いよいよ劇映画の監督となります。
 その劇映画第一作となった「とべない沈黙」(1966年)は、あまりに前衛的すぎるとして東宝が公開を延期してしまいましたが、ATG(アート・シアター・ギルド)が配給をすることで一般公開が実現、高い評価を受けることになりました。
 1968年には、キューバ共和国からの依頼を受け、革命10周年記念映画「キューバの恋人」を撮ります。しかし、この映画は大きな借金を彼にもたらすことになりました。
「親戚から友人、ありとあらゆる人から借りましたが、裁判になったものもあれば、脅しにきたのもあれば、それきり絶交状態になったものもあれば、逆にもう返さなくていいと言ってくる人もあれば、まさに人間模様でしたね、これは」
 
彼は多くの借金を抱えながらも決して恨まれず、映画を撮り続けることができた幸福な映画人でもあったようです。
「テレビなんか余りやりすぎると、映画が撮れなくなってしまうんですよ。だからそれもなるべく押さえて、最低生活をしながらチャンスを待つという以外にないですね。まあ、女房がなんとなく働いているんで、それでまあ最低に食えるとして、あとは劇映画の企画を待ってゆくよりないですね」
 こんなに映画が撮り難い立場にいて、しかも生きるよすがを求めている。私は映画作家・黒木和雄のそういう生きざまに、何ともいえぬ感動をおぼえるし、映画人という現代には純粋な存在に無限の共感をおぼえざるを得ない。

田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より

 その後、彼の映画にとって重要な存在となる俳優、原田芳雄と出会い、1974年「竜馬暗殺」を撮ることになります。
「竜馬暗殺」(1974年)
(監)黒木和雄(脚)清水邦夫、田辺秦志(撮)田村正毅(音)松村禎三
(出)原田芳雄、石橋蓮司、中川梨絵、松田優作、桃井かおり
 坂本竜馬(原田芳雄)と中岡慎太郎(石橋蓮司)が暗殺されるまでの最後の数日を描いた幕末もの。個性派の役者がそろいATG作品の中でも特に高い評価を得た彼は、次の作品「祭りの準備」(1975年)により、彼は70年代を代表する監督となります。

「祭りの準備」(1975年)
(監)黒木和雄(脚)(原)中島丈博(撮)鈴木達夫(音)松村禎三
(出)江藤潤、馬渕晴子、ハナ肇、浜村純、原田芳雄、竹下景子
 この映画の原作者であり、脚本も書いている中島丈博の半自伝的な青春ドラマ。故郷土佐で脚本家になろうと決意するまでの悩み多き青春時代のひとコマを甘酸っぱく描いたノスタルジックな感動作。影のある青春スターとして一時代を築いた江藤潤の代表作でもあります。俳優陣も豪華。
 この作品でひとつの頂点に達した彼は、この後、テレビの「新・座頭市」シリーズなどの演出をするなど映画以外の場でも活躍。新たなステージへの変化の時を迎えます。それは彼にとって、人生の目標でもあった「太平洋戦争の真実」を描くことでした。

「TOMORROW / 明日」(1988年)
(監)(脚)黒木和雄(脚)井上正子、竹内銃一郎(原)井上光晴「明日・1945年8月8日・長崎」(撮)鈴木達夫(音)松村禎三
(出)桃井かおり、南果歩、黒田アーサー、佐野史郎、長門裕之、原田芳雄、殿山泰司、草野大悟、絵沢萌子
 広島についでアメリカ軍によって投下された原子爆弾。長崎の街は、その瞬間まで普段どおりの生活が続いていました。結婚式を挙げる夫婦(南果歩、佐野史郎)や市内にある捕虜収容所の捕虜と兵士たちなど、様々な人々によって繰り広げられていた原爆投下前日の出来事を淡々と描いた静かな反戦映画です。
 この映画について彼はこう語っています。

「ここに登場する人物たちはお人好しで無自覚で、無批判であまりにも従順です。しかし、ひるがえって私たちの現在はどうでしょうか。果たしてあの日を無心に生きた人を笑うことができるのでしょうか」

「ことによると、わたしたちの”明日”は、いや少なくともこの私自身の”明日”は、あの日を生きた人々によってひどく荒廃しているのかもません。

 この後、彼は2002年に「美しい夏キリシマ」を撮った後、戦争レクイエム3部作の完結編といわれる「父と暮せば」を撮ります。

「父と暮せば」(2004年)
(監)(脚)黒沢和雄(原)井上ひさし「父と暮せば」(企)深田誠剛(撮)鈴木達夫(音)松村禎三
(出)原田芳雄、宮沢りえ、浅野忠信
 広島に投下された原子爆弾によって家族や隣人すべてを失った図書館に勤める美津江(宮沢りえ)は、自分だけが生き残ったことに負い目を感じ、周りの人々との関わりをもたない孤独な生活をしていました。そんな彼女の密かに思いをよせる青年、木下(浅野忠信)。その思いを知りながら答えようとしない主人公を見るに見かねて天国の父親(原田芳雄)は幽霊となって彼女の前に現れます。人々の心に残る戦争の傷を癒そうとする再生の物語。

「紙屋悦子の青春」(2006年)
(監)(脚)黒木和雄
(脚)山田英樹
(原)松田正隆
(撮)川上皓市
(音)松村禎三
(出)原田知世、永瀬正敏、松岡俊介、本上まなみ、小林薫
 
 昭和20年終戦直前の鹿児島。両親を亡くし、兄夫婦とともに暮らす主人公紙屋悦子(原田知世)には密かに思いを寄せる男性がいました。ところが、彼女はその男性、明石少尉の友人、永与少尉と見合いをすることになってしまいます。彼女は、明石少尉もその結婚を期待していることを知り、落ち込んでしまいます。
 劇作家、松田正隆の母親の体験をもとにした終戦間近の鹿児島を舞台にした反戦映画。アイドル女優として活躍してきた原田知世とっては、新たな境地を切り開く作品ともなりました。

 ところが、この映画の公開を前に、黒木監督は脳梗塞で倒れ、そのままこの世を去ってしまいました。まだまだ撮りたい作品はあったはずなだけに残念です。
 それでも、彼は念願でもあった反戦映画の傑作を次々に撮ることで、若くしてこの世を去った友人たちの無念を、いくらかは晴らすことができたのではないでしょうか。彼が描き続けた平和への願いは、観客の心に間違いなく届いたと思います。今後も、より多くの人に見てもらいたい映画です。

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