「奇跡 ORDET」
カール・テオドア・ドライヤー Carl Theodor Dreyer
<映画史に残る隠れた名作>
この映画を見たのは日本で初めて公開された1979年のこと。たぶん岩波ホールがなければ日本では未公開のままだったでしょう。(改めて岩波ホールに感謝です)1955年にヨーロッパで公開されたこの作品は、その年のヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞した名作でしたが日本では公開されていませんでした。デンマーク映画ということで言語が特殊だったこと、日本で知られている俳優が出演していなかったこと、キリスト教の奇跡を題材にした宗教映画だったこと、様々な理由が考えられます。もちろん内容的にも地味なお話なので、興業的に難しいと考えるのも当然だったかもしれません。
しかし、この映画は地味な分、宗教映画である分、時代性が希薄な普遍的な映画になっていますし、モノクロの画面は映像的に美しく計算されていて、それぞれの場面が絵画のように仕上がっています。人の配置、家具の配置などシンプルなだけにこだわりが感じられます。
たまたま2000年代に入ってから、友人がこの映画のDVDを入手し、それに字幕を付けたいからというので僕が持っていた脚本付のパンフレットを貸すことがありました。そんなこともあり、まだまだこの映画の価値は高いかもしれないと思っていたら、2013年に発表された「世界の映画監督が選んだオールタイム・ベスト100」の中でこの映画が19位にランクインしていました。ちなみに、そのランキングの1位は小津安二郎の「東京物語」、2位が「2001年宇宙の旅」「市民ケーン」・・・18位は黒澤明の「羅生門」で、19位はこの映画とスタンリー・キューブリックの「バリー・リンドン」でした。さらにこの映画の監督カール・ドライヤーの作品は、「裁かるるジャンヌ」と「ガートルード」の2本もランクインしています。いかにヨーロッパで彼の映画の評価が高いのかがわかります。そこで、多くの方が知らないかもしれないカール・ドライヤーの「奇跡」について調べてみました。
<奇跡の作家>
「奇跡」は、カイ・ムンクという劇作家による4幕ものの舞台劇を映画化した作品です。北欧を代表する作家のひとりと言われたカイ・ムンクという人物は、この映画の舞台ともなっているデンマーク、ユトランド半島の寒村で牧師として暮らしながら作品を発表していました。彼は第二次世界大戦中、ドイツ占領下のデンマークで人々にナチス・ドイツへの抵抗を呼びかけたためにゲシュタポによって惨殺されました。そのため、戦後は信念の人としてデンマークの国民的英雄となりました。それはまさに、信仰の人として、愛国者として自らの命を捧げた人生でした。それだけに彼が描いた「奇跡」の物語は、ファンタジー的な要素のほとんどない強い信念とリアリズムに基づいた人間ドラマであり宗教ドラマになっています。カイ・ムンクという作家が自らの人生を集大成として描いたともいえる作品です。当然、映画の公開時、作者はこの世にはいなかったので彼の意志を継ぐ遺作でもあったといえます。(舞台劇としては、彼が生きている間に上演されています)
<奇跡の物語>(あらすじ)
1930年ごろのデンマーク、ユトランド半島の平原に暮らす裕福な農場主ボーエンは敬虔なクリスチャンであり、人々から信頼される存在でした。しかし、長男ミケルは神を信じず、逆に次男のヨハネスはキリスト教にのめり込み過ぎた末に正気を失っていました。
ある日、彼は三男のアーナスが同じキリスト教徒ではあっても宗派的に異なる家の娘に恋をし、結婚したいとその娘の父親に願い出て断られたことを知ります。ボーエンはアーナスとともに、その娘の家を訪れ、結婚を認めるよう説得を試みますが逆に宗教論争となり大喧嘩が始まってしまいました。(デンマークはプロテスタントの国ですが、その中でも宗派による対立があったようです)
ところが、同じ頃、出産が近かった長男ミケルの妻インガが産気づくものの容体が悪いと連絡が入ります。結局お産は死産に終わり、インガは命をかろうじてとりとめました。しかし、自らをイエス・キリストだと思い込んでいる次男のヨハネスは、インガのもとに死神が迫り命を奪おうとしていると予言します。それはあなたがたが神の存在を信じようとしないからであり、あなたがたが信じさえすればインガの命は救われるはずだったと家族をせめます。そして、その予言どおりインガは突然病状が悪化し、この世を去ってしまいます。
その後しばらくの間、行方不明になっていたヨハネスが戻ってくると彼は正気を取り戻していて、再び家族に対し「奇跡」を信じるよう語りかけます。
<奇跡の監督>
この映画の監督、カール・テオドア・ドライヤー Carl Theodor Dreyer は、1889年デンマークの首都コペンハーゲンに生まれています。
父親はデンマーク人の農場主で、母親はそこでメイドとして雇われていたスウェーデン人女性でした。不倫関係の子供だったため、母親は堕胎を試み、彼を出産した直後に死亡したといいます。そのことを18歳になって知った彼は、強いショックを受けました。この映画「奇跡」にもその影響が現れていることは明らかです。
彼は父親に捨てられ、孤児院で暮らすことになり、その後、植字工のカール・テオドア・ドライヤーに引き取られて大きくなりました。その新しい父母は厳格なルター派のキリスト教徒で、彼らの影響もまた彼の映画に大きな影響を与えることになります。
彼はもともと映画監督を目指していたわけではなく、カフェのピアノ弾きとして働き始めています。その後、安定した職として電信会社で働いた後、新聞記者となりました。彼の映画におけるリアリズムへのこだわりは、この新聞記者だった時代に身に着けたものだったのかもしれません。
1912年、彼は当時デンマークにおけるメジャー映画会社のひとつだったノルディスク社に就職。当初は記者だった経験を生かし、シナリオ・ライターとして働いていましたが、その後編集も担当するようになります。そして、1919年、30歳で初監督作品「裁判長」を完成させ監督としての経歴をスタートさせます。
その間、1918年に、アメリカから来た超大作「イントレランス」(D・H・グリフィス監督作品)を見て衝撃を受けた彼は、さっそくその影響を受けた映画「悪魔の本のペイジから」を撮り始め、1919年に完成させています。(この作品は「イントレランス」と同じように幾つかの物語を組み合わせた大作でした)しかし、デンマーク国内で彼の作品は展開が遅く長すぎると批判されます。その後、彼は母国を出て、スウェーデンで「牧師の未亡人」(1920年)、ドイツで「不幸な人たち」(1921年)、「ミカエル」(1924年)を撮り、当時世界の最先端だったドイツ映画界で学んでいます。
幸い当時はサイレント映画の時代だったこともあり、映画における言語の問題はあまり関係なかったため、彼の作品はデンマーク以外でも高く評価され、次に彼はフランスで映画を撮るチャンスを得ることになります。
<「裁かるるジャンヌ」>
フランスで彼が挑んだのはフランスが生んだ永遠のヒロイン、ジャンヌ・ダルクでした。(最近でも、リュック・ベッソンが映画化しています)こうして誕生したのがサイレント時代の代表作「裁かるるジャンヌ」(1928年)でした。数あるジャンヌ・ダルクものの中でも最も有名な作品として高い評価を得ることになりました。主人公のジャンヌ・ダルクを演じたファルコネッティの坊主頭とノーメイクでの演技は多くの観客に衝撃を与えましたが、彼はそんな彼女の苦悩の表情をアップで撮ることでさらに迫力を出し、リアリズムを徹底。この作品は歴史に残る名作となりました。
<苦難の時代>
トーキーの時代を迎えても彼はすぐにその変化に対応し、名作「吸血鬼」(1932年)を完成させています。実は彼は、映画界入りした当初、字幕を書く仕事をしていて、早くから映画の中の言葉にこだわりを持っていました。そのためサイレントの時代から、登場人物のセリフを意識した脚本づくりをしており、トーキーに対応する準備はできていたといわれています。ドイツ表現主義的な雰囲気を、あくまでリアリズムにこだわりつつ映像化したこの映画もまた数あるバンパイヤものの中で評価の高いもののひとつです。
しかし、この作品の後、彼は10年に渡り映画を撮っていません。どうやら、彼の映画は娯楽作品としてはまったく受け入れられず、興業的に振るわず、業界から干されることになったようです。そうでなくとも、世界恐慌により映画界は不況に陥っており、彼のこだわりが許されない状況にあったともいえます。さらにナチス・ドイツの侵攻もその要因のひとつだったでしょう。彼の復帰作品は、1943年の「怒りの日」です。それはまだデンマークがドイツによって占領されていた時期でした。
中世の魔女狩りを題材にした映画の内容は、明らかにナチス・ドイツに対する抵抗の意思表示だったといわれています。そのため、公開当時、国内でその作品は評価を得ることはできませんでした。年齢的にも充実した作品を撮れる時期でありながら、彼は映画を撮ることができないまま、終戦を迎えます。しかし、戦争が終わっても彼は映画を撮ることができませんでした。かろうじて国立映画センターからの依頼で短編映画を撮るしか、映画を撮るチャンスはなかったといいます。彼がやっと新しい作品を撮れるようになったのは、1955年のこと。こうして、ついに「奇跡」が製作されることになりました。
<「奇跡」の映画化>
元々が舞台劇であるこの作品を、彼は戯曲に忠実にワンシーン・ワンカットを多用しながら映像化。この映画は、同年ヴェネチア国際映画祭でグランプリを獲得しています。ところが、それだけの高い評価を得ていながら、なぜか彼はその後、再び長い沈黙に入ります。彼の次なる作品は、なんとそれから9年後の1964年に発表された「ガートルード Gertrud」で、それが彼の遺作となりました。その後も、彼はキリストの生涯を描く作品の準備を進めますが、彼のリアリズムへのこだわりと資金難から実現には至りませんでした。そして1968年、あまりにも寡作な映画監督は79歳でこの世を去ってしまいましおた。
しっかりとした脚本に基づいて、人物や背景などを完璧に配置し、舞台劇のように長回しの撮影の元で演技させ、それをデンマークを代表するカメラマン、ヘニング・ベントセンが逃さずカメラに収める。このスタイルで撮られたドライヤーの作品は、時に退屈にも思えますが、観客は舞台劇を見るように緊張感のある画面に引き込まれます。
サイレント時代の「裁かるるジャンヌ」の頃の激しいカメラの動きとは異なり、「奇跡」ではよりじっくりとカメラが芝居を映像化しており、その雰囲気は同じ北欧の監督ベルイマンの作品やわが日本の小津安二郎の作品を思い起こさせます。淡々とドラマが進む中で、人々は神の存在について改めて考えさせられ、もしかすると「奇跡」とは、信じることで実際に起こすことが可能なのではないか?観客をそう思わせるだけのリアリティーが生み出されているのは、彼が長い間、リアリズムにこだわり続けてきたからこそ可能になったのかもしれません。
この映画が、「宗教」によって「奇跡」が生み出される瞬間を「リアリズム」によって描き出したのが1955年のこと。しかし、時代は変わり続け、それから24年後の1979年、神の存在を認めないソ連では、アンドレイ・タルコフスキーが「ストーカー」によって、「超能力」という「奇跡」が少女によって起こされる瞬間を描きました。「神」よりも「超能力」の方がリアリティーがある時代へと時代は変わったのかもしれません。21世紀の今、「奇跡」を起こすことが可能なのは、「神」か「超能力」か、それとも?「愛」、「友情」、「資金力」、「愛国心」、「科学」、「努力」・・・これこそ映画が描き続けるであろう最大のテーマなのかもしれません。
「私は奇跡を信じないが、そのことはこの映画を見るうえに少しも邪魔にならない。この映画を見て、奇跡を信じる人々に友情を感じ、それだけ自分の心が拡大されたように思うばかりである」
佐藤忠男
「奇跡 ORDET」 1954年
(監)(脚)カール・テオドア・ドライヤー Carl Theodor Dreyer
(原戯)カイ・ムンク Kaj Munk
(撮)ヘニング・ベントセン Henning Bendtsen
(美)エーリク・オース Erok Aaes
(音)ポウル・シーアベック Paul Schierbeck
(編)エーディト・シュールセル Edith Schlussel
(出)ヘンリク・マルベルイ Henrik Malberg(父・ボーエン)、エミル・ハス・クリステンセン Emil Hass Christensen(長男・ミケル)、プレベン・レーアドルフ・リュ Preben Lerdorff Rye(次男・ヨハネス)
ビアギッテ・フェーダー・シュピール Birgitte Federspiel(インガ)、アイナー・フェーダー・シュピール Ejner Federspeil(仕立て屋・ペーター)