- グスタフ・クリムト Gustav Klimt -

<世紀末を象徴する画家>
 19世紀の終わりを象徴する画家クリムト。黄金に輝く装飾と美しい女性像の組み合わせは、世紀末を描いた映画やドキュメンタリー映像などにたびたび登場しているので誰もが知っているはずです。しかし、本当は彼の作品は19世紀の集大成というよりも、20世紀の幕開けを象徴する時代の先駆的存在だったというべきかもしれません。そこには、19世紀の絵画にはなかった様々な要素が盛り込まれていたからです。例えば、浮世絵だけではなく美術工芸品からも日本的要素を取り入れた、より深い和の影響だったり、インスタレーションと呼ばれる空間芸術作品としての先駆性だったり、写真的な裸婦像の枠を越えたエロティックさの追求などは、20世紀ヨーロッパ美術の先を行くものでした。あえていうなら、クリムトは19世紀の終わりを象徴するというよりも、オーストリア=ハンガリー帝国がヨーロッパの政治、経済、芸術をリードしていた時代の終わりを象徴していたというべきかもしれません。

<クリムトの生い立ち>
 グスタフ・クリムト Gustav Klimt は、1862年7月14日にオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれました。父親のエルンストは、ボヘミア(現在のチェコ)出身の彫金師でしたが、けっして裕福な家ではありませんでした。それでも7人の子供の中で彼は長男だったこともあり、厳しい経済状況の中、父親は彼を王立オーストリア芸術産業美術館付属の美術工芸学校に入学させてくれました。そこで彼は絵画だけでなく建築物の装飾に関する様々な知識と技能を修得します。学校で教授たちにその才能を認められた彼は友人のフランツ・マッチュと弟のエルンストと3人でウィーン市内のリングシュトラーセ地区に建てられた建物の室内装飾を手伝い始めました。このリングシュトラーセこそオーストリア=ハンガリー帝国の繁栄を象徴する存在でした。

<リングシュトラーセ>
 1857年12月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は旧市街を取り囲んでいた巨大な壁の撤去を命じました。それにより、ウィーン市内の中心部に幅57mの環状道路が出現。これが、「リングシュトラーセ」と呼ばれる地域です。すぐにその地域の大規模な再開発が始まり、バブル景気の中、様々な様式による建造物が次々に誕生することになりました。それは「建築の見本市」と揶揄されるほどの雑多な建築物の乱立でしたが、建築業界にとっては腕の見せ所でもありました。そうした状況が、クリムトたちにも、駆け出しながら順調に仕事をもたらすことになったといえます。
 在学中に工芸家として様々な建築物にの仕事に参加した彼は、仲間たちと「芸術家カンパニー」を結成。卒業後もリングシュトラーセにおける建築ブームのおかげで着実に工芸家としての地位を築くことになりました。
 1888年、彼は新築されたブルク劇場の階段装飾壁画により皇帝から金十字勲章を授与されています。これにより建築業界において彼の名は一気に知られるようになり、1891年にはウィーン造形芸術家協会会員になりました。しかし、元々バブル景気に支えられていた彼の順調なスタートは、このあたりから転機を迎えることになります。

<苦難の時代>
 1892年、彼の父親と弟エルンストが次々にこの世を去り、「芸術家カンパニー」は解散に追い込まれます。
 1899年、彼はウィーン大学講堂の天井画の制作を文化教育相から依頼されます。ところが彼が完成させた一連の作品「哲学」、「医学」、「法学」は、どれもが批判を受けることになり、彼は作品の売渡を拒否。それはあまりに前衛的でエロティックすぎ理解されなかったのでした。その後、彼は二度と政府からの仕事の依頼を受けなかったそうです。それは彼が当時それまでの伝統重視の作風から変身を遂げつつあったための必然的な結果だったともいえます。
 当時、彼はウィーン美術界の伝統重視の姿勢や権威主義に嫌気がさし、1897年には仲間たちとオーストリア造形美術家協会を立ち上げていました。そうした動きは当時ヨーロッパ各地でも起きており、その代表的存在であるミュンヘン分離派やベルリン分離派に続くものでした。クリムトは初代会長に選ばれ、翌年機関紙「ヴェル・サウルム 聖なる春」を創刊。さらに第一回分離派展を開催し大成功を収めます。会場には、皇帝フランツ・ヨーゼフも訪れ、グループは一気に主流派としての地位を確立しました。そして、その年の秋には分離派館を完成させます。その建物の入り口にこう掲げられていました。
「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」
 こうして彼はシュトラーセ様式とも呼ばれた伝統工芸の世界から離れ、新たな道を新たな世紀の始まりとともに歩み出すことになりました。

<総合芸術の完成>
 1898年の作品「パラス・アテナ」では写実的な人物像と装飾的な黄金の鎧が組み合わされており、いよいよ彼の作品は完成に近づいていました。ただし、まだこの作品では黄金の鎧が写実的に描かれています。それが平面的で屏風絵を思わせるものになって初めて完成されたといえるのかもしれません。
 この後開催された分離派展のテーマをみるとクリムトの絵画が受けた様々な芸術スタイルの一覧になっていることがわかります。「点描法」で有名なポール・シニャック、フランスの印象派の画家たち、ムンクの特集(特にフリーズ・ジリーズ)は彼の作品に大きな影響を与えたといわれます。しかし、それ以上に彼の作風に大きな影響を与えたといわれるのは、第6回分離派展のテーマとなった「日本の美術工芸」です。
 クリムトの作品に日本の美術はどう影響を与えたのでしょうか?
 19世紀後半、ジャポニスム・ブームがヨーロッパの美術界に広がり、ゴッホやモネだけでなくほとんどの画家たちが、浮世絵を中心とする日本の絵画から影響を受けたことはよく知られています。オーストリアと日本の国交が始まったのは、1896年(明治2年)と古く、当時オーストリアの使節団が来日した際、日本の様々な美術工芸品を購入し持ち帰りました。
 1873年開催のウィーン万博にさっそく日本は参加しており、あのシーボルトの息子たちが通訳となって日本の展示が行われ大成功をおさめたといわれています。クリムトが入学した美術学校が付属していた美術館には、その時に持ち込まれた日本の美術工芸作品が多数展示されていて、彼はそこから大きな影響を受けることになりました。前述の第6回分離派展で行われた日本美術の特集には、絵画や浮世絵250点が展示され、その中には、彼が後に背景の一部として多用することになる金地の屏風も多数あったようです。これが後の彼の作品に大きな影響を与えたようです。
 1900年パリ万博でも日本の美術工芸品は注目を集めていましたが、そこに登場した日本の動くアート、マダム貞奴は、1902年オーストリアにもやって来ました。美しい衣装をまとい優美に舞う貞奴を見るために彼は2度劇場を訪ねたといいます。
 もちろん、そんな日本びいきの彼は、日本美術の研究本を読み、自らも日本の浮世絵や能面、仏像、着物なども収集していたらしく、かなりの日本オタクだったようです。実際、彼の作品には能面のようなお面が描かれていたり、着物の模様らしき柄が使われていたりと、様々な影響がうかがえます。
 なかでも影響を受けていると思われる作品としては、「ユーデットT」(1901年)、「ベートーヴェン・フリーズ」(1902年)など、「金」を用いた金屏風を思わせる作品群です。なお、「ベートーヴェン・フリーズ」と呼ばれる3枚の壁画からなる連作については、同じ年に開催されていたベルリン分離派展でムンクの「生命のフリーズ」を見たクリムトがその影響を受けて制作したと思われます。ムンクは彼の代表作である「叫び」や「接吻」、「吸血鬼」、「マドンナ」などの作品を並べたその連作に対し、クリムトは3作の壁画の中央部にマックス・クリンガーの大理石彫刻「ベートーヴァン像」を配置することで、彫刻と壁画のコラボレーションを実現し、それらを一つの作品として眺められる工夫が凝らされていました。この展示は、後に「インスタレーション」と呼ばれることになる「空間芸術」の先駆ともいえる新しいスタイルの総合芸術作品でした。

<傑作の誕生とモデルたち>
 この後、彼はオーストリアを代表するアーティストとして、国内富裕層からの依頼を受けて作品を制作し続けます。アドルフ・ストックレ邸内に飾られた「期待」、「成就」などからなるクリムトの代表的なフリーズは、究極の装飾芸術ともいえる美しい作品です。いよいよ彼の黄金期が訪れ、1907年から1908年にかけて、彼の代表作が次々に生まれます。
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」、「ダナエ」、「接吻」これらの作品に描かれている美しい女性たちの魅力ぬきに彼の作品は語れません。クリムトは、こうした美しい壁画を描くために、膨大なデッサン画を残しています。彼のアトリエには常にヌードモデルが待機していて、彼は彼女たちと親しくつき合い、そのうちの何人もの女性との間に子供がいたといいます。特徴的なのは、彼が描いた女性たちのスタイルが、19世紀の画家たちが好んで描いた豊満なスタイルに比べると明らかにスリムで20世紀的なスリム体型であることです。彼が描いた女性の多くが、実在の人物であったことを考えると時代の流行がすでにスリム化に向かっていたと考えるべきなのでしょう。それだけに彼が描いた女性たちは美しくかつそのポーズも大胆でエロティックに見えます。
「金魚」に描かれた女性の裸の背中のセクシーさは、最高です。それは「裸婦像」というよりも「ヌード」と呼ぶべき現代性を持っているように思います。
 ただし、彼が描いたのはヌードモデルばかりではありませんでした。その対極ともいえる上流階級の女性たちも重要なモデルであり顧客でした。彼はそうした女性たちとの関係もかなり噂されていたようです。しかし、そうした女性関係のにぎやかさにも関わらず、彼は生涯一度も結婚せず、母と妹たちとともに暮らし続けました。どうも彼はマザコン気味だったようです。彼にとっての女性は、母親かヌードモデルか貴婦人か、そのどれかでしかなく、そのすべてを備えた結婚相手などあり得なかったのかもしれません。「男は妻に対し、昼間は教会の日曜学校の教師であることを望み、夜は売春婦であることを望む」そんなことを言ったのは誰だったか?(橋本さんではないですけど・・・)

<「黄金時代」の終わり>
 50代になった彼は、それまでの「金」の使用をやめ、その代わりに様々な色彩を用いるようになってゆきます。「死と生」のように背景が暗い作品が描かれるようになりますが、それは彼の心模様の変化であると同時に時代の変化を映し出していたともいえます。その頃、ヨーロッパでは第一次世界大戦が始まっており、ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争でドイツとともに闘ったオーストリア=ハンガリー帝国は戦争に敗れ、その栄光の時代に幕を下ろすことになります。1804年に誕生したオーストリア=ハンガリー帝国は皇帝の退位により100年の歴史にピリオドをうち、オーストリアとハンガリー、2つの共和国へと分裂することになります。
 そして、クリムトはそのことを予知していたかのように、終戦を前にした1918年1月脳卒中で倒れ、その後肺炎にかかり2月6日にこの世を去りました。彼は母国の繁栄にあわせるように黄金に輝く作品を生み出し、その崩壊とともにこの世を去ったのです。もちろん、彼の作品の輝きは今でも失われてはいません。
 国敗れても、山河とともに芸術は残るのです。

<参考>
「クリムトの世界 Gustav Klimt」
 2011年
(解説)平松洋
新人物往来社 

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