原始の記憶を生きる幻の村にて

「孤児 El entenado」

ファン・ホセ・サエール Juan Jose Saer

<アルゼンチンを代表する作家>
 「フィクションのエルバラード」(黄金の小説集)として、シリーズで刊行されているラテン文学の名作集の中の一冊です。本国アルゼンチンでは、ボルヘスと並ぶ文学界の大物作家の代表作です。ただ彼の作品は、ガルシア・マルケスやボルヘスのようなラテン・アメリカ的な呪術的な幻想文学ではなく、逆に哲学的で内省的な内容なため他国では受け入れられにくいかもしれません。そのうえ、彼は活動拠点を首都のブエノスアイレスではなく地方都市のサンタフェにおいていたため、文壇や大手出版社や他のメジャー作家たちとの付き合いも少なかったようです。さらに彼は、同世代の多くのアーティスト同様、1968年に右派勢力による軍事クーデターを嫌ってパリに亡命しています。そのため、彼の作品は本国ではなく、ヨーロッパ特にフランスでアラン・ロブ=グリエなどから高い評価を受けて有名になっていったようです。やはり、日本でも彼の知名度は低く、正直僕も初めて彼の作品を読みました。
 SF小説でもファンタジー小説でも海洋冒険小説でもない不思議な世界を創造した彼の想像力と表現力に驚きました。アーシュラ・K・ルグィンのSFファンタジーを思わせる世界観が16世紀の南米を舞台に展開する不思議な小説には、様々な要素があります。冒険、思弁、哲学、文化人類学、言語学、宗教、推理、ファンタジー、民族学、歴史、・・・とはいえ、けっして小難しい本ではなく厚さも180ページほどです。

<元になったエピソード>
 著者がこの小説を書くきっかけになったのは、アルゼンチンの歴史学者が書いた「アルゼンチンの歴史」(1959年)の中にあった短いエピソードでした。1515年フランシスコ・デル・プエルトという人物がインディアス探検船団に見習い水夫として参加。スペインから南米にたどり着いた船団はラプラタ川の河口に停泊し、調査団を編成して上陸しました。ところが調査団はすぐに原住民の攻撃を受け、プエルト以外の全員が殺されてしまいました。生き残ったプエルトは、なぜかその部族の村の一員となり、それから10年以上にそこで渡り暮らし続け、1527年同じようにスペインからやって来た船団によって発見され、故国へと戻ることができたのでした。
 この小説は上記のごく短いエピソードだけを元にして、著者サエールが想像力の翼によって作り上げたものだったわけです。

「これまで我々が生きてきた世界は、もはや記憶のなかにしか存在しない。すべてが青一色に溶けるなか、世界の存在を保証できるのは我々だけなのだ。・・・」

 こうして、著者が青一色の海の上、空の下に築き上げた「幻の王国」へ読者は旅をすることになるのです。

<物語の始まり>
「相変わらず我々に背中を向けたまま、船隊長は音を立てて長く深い息を吐き、静寂の朝に響き渡るようなその音が、逞しい彼の体を少し揺り動かした。その朝から約六十年経った今、私には何の誇張もなく断言できるが、あの深く長い唯一無二の溜息は、何とも言えず印象的で、死ぬまで忘れることはないと思う。・・・」

 早々と原住民に殺されてしまう船隊長は、もしかすると「幻の王国」の創造主もしくは招待者なのかもしれない。そんな気がします。
 もしかすると、原住民たちに攻撃の合図をしたのは彼自身だったのではないか?彼は自らそうなるために上陸したのではないか?
 とにかく、ここから主人公の衝撃的な体験が始まることになります。

「この文章を書いている今、・・・あれが本当に起こった出来事の記憶なのか、それとも、穏やかな妄想の作用でもっともらしく捏造された過去も未来もない心象にすぎないのか、すでにわからなくなっている今この瞬間に、当時を振り返ってみますと、見知らぬ世界に置かれて、一人泣いていたあの哀れな男は、そうとも知らぬまま、実は、自分の誕生に立ち会っていたのだ。・・・」

 唯一生き残った彼はその土地の原住民が始めた恐るべき儀式を唯一の証人として見つめることになります。人肉を食し、酒盛りをし、踊り騒ぎ、同性愛も近親相姦もなんでもありの酒池肉林の儀式に原住民たちは我を忘れて没入するのです。そんな異常な儀式終了後、彼らと共に暮らし始めた生き残りの主人公は本当の意味の「孤児」となります。そして、それまでの価値観を忘れ始めます。精神的に孤児となった彼は、新たな親を求めるように新たな社会を求めます。それは社会的動物である人間にとっての本能なのかもしれません。こうして彼は頭の中に自分を中心とする世界を確立してゆきます。

「忘却とともに我々が失うのは記憶よりも欲求だ。生まれつき我々に備わっているものなど何もない。どれほど平板な灰色の生活であれ、歳月を重ねるにつれて、最も切実な希望も、最も激しい欲望も、簡単に崩れ落ちていく。湿って墓穴に下された棺が次第に土をかけられて見えなくなるように、我々も。、知らぬ間に少しずつ生活体験を受け入れていく。・・・」
(人にとって恐ろしいのは、記憶を失うことよりも、欲望を失うこと・・・肉欲でも金銭欲でも収集欲でもいいのかもしれません)

「自分たちが世界の中心であるとともに、世界の中心はあそこをおいて他にないのであり、その中心から遥かなる地平線へ向けて同心円状に遠ざかれば遠ざかるほど、あらゆるものが現実味を失い、その存在が不確かになっていく。」
(多かれ少なかれ人はそう思っているものです。ただし、その範囲が国か民族か宗教集団か、地球か、宇宙かと異なるのですが・・・)

 しかし、そうした自分が所属する世界は本当に存在しているのか?そのことについての疑問を感じ続けることは、やはり彼が異なる世界から来た人間だったからでしょう。

「だが、あの場所の内側にいても、実は、結果は同じなのだ。・・・
 この宇宙で唯一可能な存在、最高の存在を実現してはいても、それだけで彼らの世界が実体を伴うことにはならない。他の部属など存在しないも同然だといっても、それで自分たちの存在が保証されるわけではない。」


<文明世界への復帰>
 ところが主人公は、10年後、彼がかつて属していた世界からやって来た船によって救出され故国へと帰ることになります。文明社会に帰った彼はそこで何を感じたか?彼は、もしかするとかつて自分がいたあの未開の社会こそが世界の中心であり、そこに住む人々があの土地を守っていたことで世界の秩序はかろうじて守られていたのかもしれない。そう思い始めるにいたります。

「見えるあの世界は、絶えず彼らが修正を加えていなければ、黄昏の空へ消えていく一筋の焔のように、遅かれ早かれ消失する運命にあったのだ。」

「彼らに外側はない。何をどうやっても、外から世界を見ることはできない。」

「だが、倒れ行く彼らは、敵方の兵士たちも巻き添えにしていたのだ。彼らが外的世界の存在を支えている以上、その彼らがいなくなれば、外的世界も混沌のなかに崩れ落ちる。」


 最後に主人公はかつて原住民たちと共に体験したもうひとつの出来事を思い出します。

「・・・私もインディオたちも、深い暗闇に身体を貫かれ、普段なら時折内面を照らす儚く小さな光ですら、その時ばかりは完全に消えてしまっていた。実は、これこそ我らが祖国の真の姿なのであり、曙光から夜の闇に沈むまで、光のおかげで我々は物に様々な色と形があるように思い込んでいるが、この完全な暗黒こそ本当の色なのだ。・・・」
 月食によって月明かりが消えた瞬間、世界は完璧なる暗黒に覆われてしまいます。しかし、そんな状態こそが実は本当の世界の姿なのかもしれません。

 H・G・ウェルズの名作「ドクター・モローの島」が、「人間とは何か?」を描いたSF小説だったのに対し、この作品は「世界とは何か?」、「文明とは何か?」というより大きなテーマに挑んだ文学作品といえます。

「孤児 El entenado」 1983年
(著)ファン・ホセ・サエール Juan Jose Saer
(訳)寺尾隆吉
水声社

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