「こころ Kokoro」

- 夏目漱石 Souseki Natume -

<「こころ」を使った完全犯罪>
 この日本文学を代表する小説は、恋と友情の三角関係を描いたラブ・ストーリーであると同時に究極の完全犯罪を描いた推理小説でもあります。無意識のうちに友人を死に追い込んだ主人公が、その方法を自らの弟子に打ち明けます。それは罪の意識からだったのか?そして、犯人は自らその責任を取ろうとします。
 読者は、その事件の真相を少しずつ知らされ、ページをめくり続けることになります。実によくできた「完全犯罪小説」です。
 えー?そんな話だったっけ?それでは、思い出すためにざっとストーリーを振り返りることから始めましょう。

<あらすじ>
 大学を卒業したものの就職も決まらず、本人自身もぱっと働く気のない青年。そんなプー太郎の主人公がある日、謎のプー太郎おじさんと出会います。彼には奥さんもいて、ちゃんとした家もありますが働いているようには見えませんでした。インテリで謎めいたその人物を主人公は「先生」と呼ぶようになり、彼の家にいりびたるようになります。
 なぜ「先生」は働かないのか?毎月「先生」がお参りに行くお墓は誰のものなのか?仲が良いはずの「先生」夫婦が時々言い争いをしているのはなぜなのか?主人公は、それらの謎についた「先生」を問いつめるようになります。「先生」はまったく答えてくれませんでした。

「かつてはその人の膝の前にひざまづいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。私は今よりいっそう寂しい未来の私を我慢する代わりに、寂しい今の我々は、その犠牲としてみんなこの寂しみを味わわなくてはならないでしょう」

それでも彼のこと気に入ってくれたのか、いつか必ず教えようと「先生」は彼に約束しました。

「あなたはほんとうにまじめなんですか」と先生が念を押した。
「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だからじつはあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬまえにたった一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人にになれますか。あなたは腹の底からまじめですか」
「もし私の命がまじめなものなら、私の今言ったこともまじめです」
私の声はふるえた。
「よろしい」と先生が言った。


 しかし、園頃、主人公の父親が病に倒れ、仕事のない彼が面倒をみるために故郷に戻ることになりました。いよいよ父親の具合が悪化し、先が長くないとわかった頃、彼のもとに「先生」からの手紙が届きます。その手紙は、彼が知りたかった「謎」についての答えが書かれていたのですが、同時にそれは「先生」の遺書でもありました。あわてて彼は汽車に乗り、「先生」のもとへ急ぎながら車中で手紙を読み始めます。

「私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけてあげます。しかし恐れてはいけません。暗いものをじっと見つめて、そのなかからあなたの参考になるものをおつかみなさい。私の暗いというのは、もとより倫理的に暗いのです。私は倫理的に生まれた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人とだいぶ違ったところがあるかもしれません。しかしどう間違っても、私自身のものです。」

「あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けたことを記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよくわかっているでしょう。私はあなたの意見を軽蔑までしなかったけれども、けっして尊敬を払いうる程度にはなれなかった。あなたの考えにはなんらの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつにはあまりに若すぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その極あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれとせまった。私はその時心のうちで、はじめてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、ある生きたもをつらまえようという決心を見せたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのはいやであった。それで他日を約して、あなたの要求をしりぞけてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあならの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動がとまった時、あなたの胸に新しい命が宿ることができるなら満足です。」

 「先生」はなぜ、主人公に遺書を送ったのか?
 「先生」はなぜ自殺しようとしているのか?
 その答えは本編を読んで下さい。といっても、たいていの方はご存知でしょうが・・・。

<夏目漱石と「先生」>
 著者である夏目漱石と「先生」について、この本の文庫版にはこう書かれています。

 ただこの作品の結末にあたる明治天皇の死と乃木大将の殉死とが、「先生」の死をさそいだす重要なきっかけになっているということについては、最近の若い人々にはなっとくの行かないうらみがあるかも知れない。これにはセミ・ゴッドとして崇敬の的であった明治天皇の死が、如何に人々に衝撃をあたえたか、という事実をかえりみなければならぬ。それはまさにショッキングな事件であった。乃木大将の殉死は9月13日であるが、9月18日の新聞はあとを追って死ぬ者の続出を「殉死流行の兆」と題してかかげ、既遂3名未遂1名を報告している。・・・・・
 そうした騒々しさをよそにして、もっと思慮ある明治人のうちに、「偉大なる明治」の終焉を感じ、心の奥深いところで「明治の精神に殉死」しようと考えた人たちもいないことはなかったであろう。少なくも漱石がその一人であった。彼自身は自殺しないまでも、心の体験として、長い時期にわたっての「罪」の意識を消却するためという理由をつけて、自分に代わって「先生」に自殺する機会を与えたのである。

吉田精一(解説)

 明治天皇はまだしも、乃木大将となると今や「誰それ?」って感じかもしれません。「太平洋戦争の時の山本五十六」的存在です、と言っても、わからないかもしれませんか?先ず、天皇陛下といえば、当時は日本の象徴としての存在ではなく、政治的指導者であり、本物の神的な存在でした。そして、乃木大将はそんな神の右腕的な「軍神」でした。アルゼンチンでマラドーナが神と崇められリアル・ゴッドとして教会まで建てられているのに近いかもしれません。
 「先生」も著者も、まじめであるがゆえに、明治天皇と乃木大将を明治維新以降の新生日本を築いたリアル・ゴッドと考えていたのです。しかし、「先生」はこの「宗教的な愛」は、「女性に対する愛」と究極のところでは一致すると考えていたようです。

・・・私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのをみて、あなたは変に思うかもしれませんが、私は今でも堅く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないということを堅く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持ちがしました。

 なるほど、だからこそ著者は「明治天皇への愛」をヒロインの女性への「愛の物語」に転換することもできたということなのでしょう。しかし、ここで「女性への愛」を「天皇陛下への愛」と比べるなど、当時としてはおそれ多いことだったはず。この点では著者はやはり近代文学の最高峰の作家と呼ぶべき現代的な考え方の持ち主でした。
 この小説の中で「先生」は、父親が早くに亡くなったため、親戚に養子として預けられ、そこで人間の醜い面を見せられることになったとされています。その生い立ちもまた著者と共通する部分が多いようです。そうして心に刻まれた「先生」と著者の人間不信の念は、どちらもその死の間際まで二人を苦しめることになりました。
 著者の夏目漱石は、この小説を発表した2年後の12月9日に早稲田にあった自宅で50歳の若さでこの世を去っています。ただし、彼の場合は自殺ではなく、長年胃潰瘍に苦しんだ末の病死でした。

 この小説が「純文学」であり「純愛物語」でありながら、ミステリー小説のように先へ先へと読み進ませる面白さをもっているのはなぜでしょう?それは著者の作家としての経験からきたものでした。
 夏目漱石は、イギリスへの留学から帰国後、教師をしながら作家活動を始めるものの生活は苦しく妻を養うのも大変だったようです。そんな状況の中、彼は朝日新聞に入社。社員として「連載小説」を執筆し始めます。そうした発表された小説が「虞美人草」、「坑夫」、「三四郎」、「それから」、「門」などの代表作で、この「こころ」は大正3年(1915年)4月20日から8月11日まで110回にわたって朝日新聞に連載された作品です。(同年9月に岩波書店から長編小説として発表されています)
 夏目漱石という作家は、数多くの「連載小説」を書きながらいかにして読者の興味を先へ先へと向かわせるか、そのテクニックを身につけた異色の作家だったわけです。この小説を110に分けると、およそ2ページ半ぐらいにしかなりませんが、それでも先へと興味をつなぐ仕掛けはまさにプロの技です。
 のんびりとした「先生」と「主人公」の世代間交流のドラマが、謎めいたサスペンスタッチに変わり、「死」の匂いを漂わせながら、「手紙」によって主人公が入れ替わります。ドラマはここで「先生」を主人公とする完全犯罪のドラマへと変わり、どんどん物語りはスピードアップしてゆきます。

<時代を越えて読まれる理由>
 この作品が時代を越えて読まれ続けているのは、単純に面白いからだけではないでしょう。作家、文芸評論家の高橋源一郎が指摘しているように、明治の文学に描かれている近代日本人のキャラクターは、その後現在までほとんど変化していないのだといいます。だからこそ、21世紀の今でも我々は当時の人々の幸福感や絶望感、恋愛感を共有でき、理解もできるというわけです。世界は常に変化し続けていて、様々な分野で進化が進んでいますが、人間の本質的な「こころ」の部分を変えるには100年程度の年月では足りないのかもしれません。まして、日本という国は、100年前今も分割も植民地化もされずに日本人の国であり続けている特殊な国なのです。しかし、戦後、日本はアメリカとの関係により、急激に変化することを余儀なくされてきました。そのために、日本人の「こころ」にはかなり深いひずみが生じていて、それが様々な凶悪犯罪やテロ、戦争として噴出しているのでしょう。21世紀の今、「こころ」には確実に危機が迫りつつあるのです。

「こころ Kokoro」 1915年(大正3年)
(著)夏目漱石
角川文庫

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