心を震わせる芸術の秘密 Secret of the Art World

ようこそ、芸術家たちの世界へ!

「近代知を乗り越える」より
- 茂木健一郎 Ken-ichiro Mogi -

<終わりなき挑戦>
 このサイトの制作を10年も続けることになるとは、正直思っていませんでした。しかし、新コーナー「20世紀文学大全集」では文学全般という広い範囲を取り上げているので、いよいよ終わりが見えなくなってきました。最近では終わりなき挑戦に快感すら覚えるようになってきた気がします。
 そんな今日この頃、たまたまうちの長男が高校の授業で使う資料として茂木健一郎氏の「近代知を乗り越える」というタイトルのエッセイを持って帰って来ました。最近ではすっかりタレントになってしまった茂木氏ですが、もともとは脳科学者であり、科学のフィールドから世界をとらえようとしてきた一流の研究者です。気になった僕はさっそくその文章を読んでみましたが、なかなか素晴らしいものでちょっと感動してしまいました。そこで、このサイトのこれからのために彼のそのエッセイを取り上げながら、今後を展望してみたいと思います。

「現代の知は、断片化してしまっている。とりわけ、世界のあり様と人間の実存の全体性を引き受けるはずだった思想界の断片化が激しい。「ポスト・モダン」の旗印の下に、脱構築や反神学を試み、文化のヒエラルキーも解体して、アニメやオタク文化などのいわゆる「サブカル」ばかり論じているうちに、いつの間にか思想世界自体が「サブカル」に陥る危険性が見えてきた。ここでの「サブカル」とは、「世界全体を引き受けのではなく、その部分問題を扱うにすぎない状態」を指す。」
以下の「」内はすべて茂木健一郎「近代知を乗り越える」からの抜粋です

 このサイトで取り上げている作品や作家の多くは、かつては「サブ・カルチャー」(以下サブカル)に属していました。(今でもサブカルのままのアーティストもいます・・・)このサイトのタイトル「ポップの世紀」の「ポップ」とは「大衆的な」という意味ですが、すべての「ポップ」は「サブカル」が発展、大衆化することで生まれたといえます。
 例えば、サスペンス映画とホラー映画両方のジャンルを築いた名監督ヒッチコックほど、異常なまでに覗き趣味で犯罪オタクな人物は他にいないでしょう。ロックの時代を築いたビートルズローリング・ストーンズのメンバーは、R&Bやブルースにはまったイギリスのブラック・ミュージック・オタクの若者たちばかりでした。
 それは芸術の分野だけとは限りません。科学の分野における「相対性理論」もまたある意味「大衆化」した理論ですが、これまたアインシュタインという論理学オタクの青年による思考実験の産物であり、当初は誰もが認める研究ではけっしてありませんでした。「飛行機」という高度な科学技術も、もとはといえば「空を飛ぶ」という夢にとりつかれた自転車屋の兄弟が始めた無謀な挑戦のおかげで生まれたといえます。
 彼らはみな社会的には異端者であり、現代における「サブカル」の原点だったといえます。こうして考えてみると、このサイト「ポップの世紀」は「サブカル大衆化の軌跡」と呼びかえることも可能かもしれません。20世紀に発展した大衆文化の歴史とは、サブ・カルチャーとして少数の人々が生み出した特殊な文化が、周りの多くの人々に受け入れられ、いつしか生みの親のもとを離れ、一般大衆に広がってゆく過程ともいえるのです。そして、それを可能にしたのが20世紀に入り急速に発展した「マスコミュニケーション」と「グローバル化する経済」でした。

<21世紀の経済>
 21世紀に入り、世界は「グローバル化」と「サブカル」というある意味二極化した二つの流れによって動かされているように思います。「サブカル」が生み出した新しい変化をいち早くグローバル化させた経営者が勝ち組になる。そんな構図が世界経済を動かしているのが21世紀ではないでしょうか。
 しかし、そうした流れはあくまで「利益優先」の経済学が生み出したものであるため、そこから生まれる「社会現象」や「文化現象」「環境変化」には、人間的感情「心」の入り込む余地はありません。だからこそ、21世紀に入り、資源を巡る対立や民族・宗教の対立は悪化し、多様な薬物の蔓延やテロ事件や凶悪犯罪の増加もまた続いているのでしょう。こうした状況では「エコロジー」の思想が社会に広まるとは思えません。人類が21世紀の地球温暖化やエネルギー危機を乗り越えて生き延びるためには、新しい科学技術だけではなく、新しい思想・理論・経済学もまた必要なのです。しかし、それが困難なことは、人類のこれまでの歴史が示しています。

「もう一度、この世界全体を引き受けるような思想を構築することを、少なくとも志向だけはしてみなければならないのではないか。そのためには、一見関係がないことのように見えるものの間に、「補助線」を引かなければならないのではないか。それにしても、現在において知の全体を引き受けようと試みる者は、ほとんどドン・キホーテの様相を呈さざるをえない状況に追い込まれている。」

 今までも、多くの思想家、哲学者、科学者たちが世界を統一できる思想・理論を求めて研究・思索を続けてきました。そして、それなりに成功を収めた人物が登場しています。例えば、物理学においては、アインシュタインが統一場理論の完成に向けて生涯をかけました。しかし、結局のその願いは叶わず、一時は完成に近づいたかに思われた状況も、今では遥か彼方に遠のいたといえます。そして現在では、たとえその理論が完成されたとしても、それを人々の生の営みと結びつけることは不可能なのではないか、そう思われるようになりつつあります。

「世界の事物の因果的発展に関していえば、物理学のアプローチがそれを引き受けられそうである。しかし、だからといって、現代物理学の最前線としての超ひも理論や超膜理論、あるいはその先にある(かもしれない)「万物の理論」が、私たちの知りうる「世界全体」を引き受けるということにつながるとは思えない。そのような因果的法則からは、そよ風を頬に受けて胸がときめいたり、夕日を見て涙したりといった、われわれの主観的体験をめぐる起源問題がすっぽり抜け落ちてしまっているからである。」


<「心の統一場理論」>
 なぜ、物理学と人間の心が結びつかないのか?それは、脳の解明が未解決であり、それを人間の感情と結びつけることが未だにできないためです。したがって、「心」と「モノ」の関係性を説明することは、未だにできないのです。ただし、それを科学的に解明はできなくても、それを利用する人々は存在します。それは、絵画、音楽、文学などのジャンルにおける優れた作家たちです。彼らは「絵」「音」「文字」「色」などを利用することによって、「人の心を震わせる」ことに成功しているのです。彼らは、芸術という分野において、哲学者や科学者たちができなかったことを成し遂げているのです。

「・・・脳という物質の発展から文学という表象の形式が生み出されるプロセスがたとえ原理的に解析されたとしても、シェークスピアの『テンペスト』の中で、ミランダがフェルディナンドと出会い、『おお、素晴らしき新世界よ!』と叫ぶ場面の興趣に一度は寄り添ってみなければ、本当に世界を引き受けたことにならないかもしれないのである。」

 不思議なことに人は、遥かな昔から経済的価値などまったくないはずの芸術作品に価値を見いだしてきました。それは人の心を震わせることができるのは、唯一優れた芸術作品だけであることを知っていたからかもしれません。
 もし、優れた芸術作品が人の心を震わせる原理を解明できたとしたら・・・。それこそが人類にとって物理学における「統一場理論」よりも遥かに価値の高いものかもしれません。そして、それは「心の統一場理論」と呼べるかもしれません。
 もし、芸術作品を評論するという行為に経済的な価値規準を与えること以外のなんらかの意義があるとすれば、それはまさにこの「心の統一場理論」確立のためのデータ作りだと思うのです。もちろん、それがどれだけ効力を持ちうるかは?ですが・・・・・。

「『世界を引き受けたい』という知的な野心は、それが明示的な知識の所有を志向しているとすれば、必ず敗北する運命にある。とりわけ、人間の知的営みが爆発的に増大している現在、明示的なかたちでそれらすべてを引き受けるという役割は、とても一個人のこなせることではない。一つの分野に関してでさえ、その中で行なわれている多様な知的活動の全体像を把握することは難しい。」

「私たちは、インターネット上の有限の知の繰り広げる世界に幻惑されることなく、また、全体を引き受けることが不可能となった事態に対して不真面目な態度をとることなく、中世のスコラ哲学者のごとく、あるいは初めて夜空を見上げる青年のように、無限や不可能に対する真摯な感情をこそ抱くべきなのではないか。
 そこに、近代を美しく乗り越えるためのヒントもまたあるはずなのである。」


 当初は20世紀の歴史教科書を目指していたこのサイトですが、そのためには「心の統一場理論」を見つけなければなりません。残念ながら、それは不可能かもしれませんので、せめて、このサイトが読者の方々にとっての有益な出会いの場となることを願いたいと思います。有益なる知のデータ・ベースを目指したいと思います。
 そして、このサイトを通して、素晴らしい芸術家たちとの出会いを果たしてもらえれば幸いです。

<芸術とは?>
 芸術とは何か?真面目に考えてみました。
 芸術とは、「人の心を震わせる行為もしくは作品」である。そんなふうに僕は思っています。
 絵画や音楽、小説、映画の名作たいは、その典型的な例です。しかし、芸術と呼べる存在は、それだけではないはずです。
 マーティン・ルーサー・キング牧師の演説は、多くの人々の心に今も響いています。
 ヨハン・クライフのトータル・フットボールは、選手11人で描く巨大な作品です。
 ラインホルト・メスナーのエベレスト単独無酸素登頂は、目撃者のいない記録としての作品です。
 アインシュタインが証明した相対性理論の美しさは、残念ながら理解できる人はごくわずかです。
 モハメド・アリの華麗なステップと強烈なパンチは、エンターテイメントとスポーツの領域を超えるものでした。
 ルドルフ・シュタイナーは、宗教と科学と芸術、そして人生をひとつにした希有な存在です。
 アントニオ・ガウディは、家だけでなく街全体をアートにしてしまった異色の建築家です。
 岡本太郎は「太陽の塔」だけでなく、人生そのものが芸術作品でした。
 あらゆる創作活動は、芸術になりうる存在です。

<芸術が心を震わせる理由>
 芸術の何が人の心を震わせるのでしょうか?
 それは、善か悪かの問題ではなく、美しいか醜いかの問題でもないでしょう。
 それは単純に倫理的、審美的な評価を下せることではなく、受ける人によっても、その評価は変わるものです。
 水道の蛇口の形に美を感じる人。
 美少年に心を打ち震わせる男性。
 道端の石ころを宝石以上に愛でる人。
 人それぞれに美意識とはバラバラなもので、中には犯罪と呼ぶべき場合もあるでしょう。そのために、いかに芸術に自由を与えても、「他人に迷惑をかけてはいけない」というルールを設ける必要があるのかもしれません。しかし、その適用範囲は微妙です。どんな人にでも受け入れられる作品が、本当に芸術と言えるのかどうかという疑問があるからです。

<芸術との出会い>
 人はより多く「心を震わせる体験」をすることによって、幸福を得ることができるのかもしれません。ならば、優れた芸術と出会う機会が多いほど、その人の人生は豊かなものになるはずです。
 しかし、人は優れた芸術作品と出会うことがなくても、人生において数多くの「心を震わせる体験」をすることができます。(「恋」はその代表的存在といえるでしょう)そして、それこそが理想の人生なのかもしれません。
 ジョン・レノンの「イマジン」やボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」を聞いたことがなくても、
 ピカソの「ゲルニカ」やアンディ・ウォーホルの「キャンベル・スープ缶」を見たことがなくても、
 カフカの「変身」やカポーティの「冷血」を読んだことがなくても、
 誰よりも幸福な人生を送ることは十分に可能です。
 でも、誰もがそんな心豊かな人生を送れるわけではありません。多くの人は、普段何の感動もなく毎日を終え、生涯「心を震わせる」ことのないまま人生を終える人もいるかもしれません。さらにいうと、「幸福」とは、「感動的瞬間」にあるのではなく「平穏無事な生活」の中にこそあるのかもしれません。
 とはいえ、たとえ一瞬であっても、人生において忘れられない感動を体験したことのある人は、そうでない人よりも遥かに幸福な人生を送ったことになると僕は思います。
 
<芸術家になるということ>
 もしかすると、「芸術」とは、そんな人生における「感動的瞬間」を疑似体験するためのものなのかもしれません。しかし、時にその疑似体験は、その人の人生を変えてしまうこともあります。そうなった時、人は創造的に自らの人生を変えたという点で芸術家の仲間入りをしたといえるでしょう。
 あとは、継続的に創造的な生き方ができるかどうか?それで飯を食えるかどうか?そのことにどれだけ自分の人生を賭けられるか?それだけの違いなのです。
 さあ、あなたも人生を変えるような作品と出会いましょう!そして、「芸術家への道」を歩みだしてみませんか。

<参考>
「近代知を乗り越える」茂木健一郎
「今、ここからすべての場所へ」茂木健一郎

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