永遠に書き続けられる物語


「構造素子」

- 樋口恭介 Kyosuke Higuchi -

<究極のユートピアSF>
 第5回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作です。蒸気を主力のエネルギー源とする異なる歴史をたどったパラレル・ワールドを舞台にそこから誕生したユートピア社会を描いています。
 SF小説で描かれるユートピア社会とは基本的に実現不可能な存在です。(そもそもユートピア社会を描いたら、誰もが幸福に生きるその世界にドラマが生まれる要素はないのです。当然、小説にはなりえないです・・・)それでもなお、ユートピア社会を小説で描くには、それが崩壊する過程や悪夢のようなディストピアへと変貌する変化を描くのがSF小説の常道なのです。
 しかし、この小説はさらにその先、人間の心を感情の操作によって幸福な感情で満たすことに成功した社会を描いています。それは究極のユートピア社会といえるのかもしれません。けっして物語として面白くはなくても、そこで描かれている状況が本当に実現しているなら、それはユートピア社会と呼べるのかもしれません。確かに科学技術の進歩が行き着くところまでゆけば、そこにユートピア社会の実現はありうるのかもしれません。そんなSFだからこそ可能な思考実験によって生み出された古くて新しいユートピア小説です。
 一応、あらすじを書こうと思いますが、正直複雑すぎて記述は困難です。それと、この小説の面白さは、その複雑な構造を読み解くことにこそあるので、そこを愉しめなければ正直読む意味はないでしょう。それと、著者の記述がとことん機械的な記述にこだわり、同じ記述の繰り返しも多いので、読者はかなりイライラさせられるかもしれません。(せっかちな僕はけっこうイライラしちゃいました)そのへんは覚悟の上、読み出してください。

<あらすじ>
 主人公エドガー・ロパティンの父ダニエルは、古き良きSFの大家H・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌに憧れる売れないSF作家でした。その父親の死後、母親のラブレスから渡された未完の草稿のタイトルは、『エドガー曰く、世界は』といいました。その物語の中で、人工知能の研究者だった両親のダニエルとラブレスは、子供をもうけることなく、代わりにオートリックス・ポイント・システムと呼ばれる人工知能、エドガー001を構築していました。自己増殖する能力を持つエドガー001は新たな物語を生み出し、草稿を読み進めるエドガーもまた、父ダニエルとの思い出をそこに重ね書きして行きます。
 その作品の中で人類はすでに滅亡しており、生き残ったエドガーは機械人間ジェイムスンと対話する中で物語を進めて行きます。
 しかし、その後、ライジ―ア008という新たな人工知能が登場。それが、それまでの人工知能とは異なる特異点的な存在として、物語を自らの判断で書き換え始めます。
 いったい真実の物語は何か?本当の歴史は何か?物語はどこへ向かうのか?
 物語は、そのエドガーの作る物語とエドガー自身の物語、ライジ―アが書き換える物語が入れ子状態になり、複雑に展開してゆきます。物語の構造自体が物語になっているという新しさも加わり実にSFらしい読み応えのある作品に仕上がっています。(読みずらさは確かにありますが、それも含めてSFらしい作品です)

 究極のユートピアを実現するための技術的基盤はすでに整っていました。
 何もかもがそこにはありました。
 しかし、ユートピアとは物理的に存在するものであると同時に、わたしたちの脳内に、あるいは心の中に浮かび上がるものでもあります。ユートピアは形而下と形而上にまたがる二重の存在であり、物理的な存在であると同時に論理的な存在でもあります。つまり、わたしたちがそれをユートピアではないと思えばそれはユートピアではなく、わたしたちがそれをユートピアだと思えばそれはユートピアなのです。
 そして、そう思うこと - それをユートピアであるとわたしたちが思うこと - その条件には、わたしたちが、その場所で幸福になれること、幸福であること、幸福であり続けられること、その三つが挙げられました。

(例えば、年に一度、リオのカーニバルで得られるブラジルの人々にとっての幸福感は、あくまでも一時的なものであり、それは幸福とはいえないという考え方です。でも、毎日がカーニバルではそれはそれで幸福とは思えなくなりそうですけど・・・)

<「幸福」と「死」いう概念の追及>
 この作品は、「幸福」の実現を行うために絶対に必要な「幸福とは何か?」と並行して「死とは何か?」についての探求も行われています。ここで描かれるユートピアでは、「死」は過去のものとなっています。しかし、「死」がない社会は、本当に「幸福」な社会なのか?そこも重要なポイントになります。

「死や病がない社会は貧しい。<生きていく体験>としての死や病という考え方がある。近親者の死や自らの病の体験は、人々の自己意識に挑戦課題を提示し、自己意識の変容を引き起こす可能性もある。喪の作業や病の作業は、死者の声や病自体を自らの生活に組み入れることで、死の意味や病の意味を読み解き解釈し、同様の経験をした他者に、死や病について説明する方法を編み出す過程である。
 この過程の手助けで、人々は、絶対に到来する死の存在や、慢性の病の存在を事実として受け入れたあとで、自らの人生に意味と道程を取り戻すことができる」

アンソニー・ギデンズ(イギリスの社会学者)(小説の中の引用より引用)

 この作品で描かれる社会では、「死」が失われてもなお「幸福」が失われない状況を追求しています。普通は、それは無理と考えるところですが、それをあえて追求することろにこの作品の「新しさ」があり、その挑戦の姿勢が最大の魅力だといえます。

 2000年代に入ると、蒸気エージェントを利用した感性情報装置による幸福度の人為的な操作が可能になり、永遠の生の中でも、無気力感を起因とする、言いようのないやりきれなさや不幸の感覚を避けることができるようになりました。
(全自動的に実行される)感性情報操作装置によって人々は、無意識のうちに、無自覚のうちに、いつのまにか幸せになり、幸せであり続けることが出来るようになり、永遠の生の中にあっても、暇を感じず、ずっと楽しく毎日を送り続け、幸福度を下げることなく生き続けることが可能になりました。


 確かに科学の進歩によって、この究極の環境を作ることは可能になるのかもしれません。でも、そうした究極の状況は経済学的に可能なのか?僕としては、そこには大きな疑問を感じてしまいます。そのあたりの部分についての記述がなく、単純に技術的な面で可能にしてしまっているのに少々不満があります。だって、みな死なない社会の人口は増える一歩になるはずです。それを経済的に支えることは可能なのか?食糧問題はどう解決するのか?かなりの疑問が生じました。あくまでも思考実験としてのSF小説と考えるべきかもしれませんが・・・そこにも言及してくれないと、どうしても小説ではなく哲学的な思考実験に思えてしまうのです。馬鹿げていてもいいから、何かの説明が欲しかった。
(ただし、優れたSF小説というのは、必ずどこか破綻があるものです。それが綺麗にまとまっているようでは、新しい世界観を生み出すことはできないのですから!SF小説の名作すべてに共通するのはそこだと僕は思っています)
 この作品では、「生」の価値を保つために選択制で消え去ったはずの「死」をあえて選択し、死ぬことも可能な社会システムに移行したと書かれています。(それでも人口は増える一方のはずですが・・・)
 単純に「幸福」とは何か?「死」とは何か?「人生」とは何か?考える機会としても、読みごたえがある小説だと思います。

「・・・私が強く感じているのは、とりわけその人が愛されている場合、他者の死が告げているのは一つの不在、消失、それぞれの生の終わり、すなわち、世界がある生者に立ち現われる可能性が終わりを迎えてしまった、ということではないということです。死がそのたびごとに宣告するのは世界の全面的終焉、およそ考えられうる世界の完全なる終焉なのです。それはそのたびごとにただ一つの - それゆえ、かけがえのない、果てしない - 総体である世界の終焉、すなわち世界それ自体の終焉、そのたびごとにただ一つの世界の終焉がなおも反復されることがありうるといった次第なのです。単独的に。決定的に。他者にとっても、そして不思議なことに、その不可能な体験に耐えるかりそめの残存者にとっても。これが『世界』というものの意味するところでしょう。そして、こうした意味は、『死』と呼ばれるものによってのみ、世界に対し与えられるのです」
ジャック・デリダ(フランス人思想家)(小説の中の引用より引用)

「構造素子」 2017年
(著)樋口恭介
早川書房

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