- 久保田麻琴 Makoto Kubota -

<J−ポップとアジアン・ポップの架け橋>
 今でこそJ−ポップのアジア進出は当たり前のことになりましたが、1970年代には日本のポップスとアジアのポップスには交流すらほとんどなかったと言って良いでしょう。そんな中、元々は1970年代にアメリカン・ブルース・ロックからスタートした久保田麻琴は、しだいにその方向性をアジアへと向け、サンディーという汎アジア的歌姫の裏方に回ることによって、1980年代から1990年代にかけて「アジアン・ポップの仕掛け人」としての役割を果たしました。彼こそ、アジアの国々と日本を結ぶ架け橋となった最初のアーティストだったと言えるでしょう。
 もちろん、ミュージシャンとしても、夕焼け楽団を率いた70年代は自らヴォーカリストとしても活躍し、その後世紀を越えて再びソロ・ミュージシャンとしての活動を開始しています。
 さらに彼は、ニューオーリンズ、琉球、ブルース、R&B、ハワイアンなど、なんでもありのジャパニーズ・チャンプルー・ロックをリードしてきた世界に誇れる数少ない日本のアーティストのひとりであり、アジアのライ・クーダーとも言える存在なのです。(ファンキーさではライ・クーダーよりずっと上かもしれません)

<ソロ・デビューから夕焼け楽団へ>
 1949年、京都に生まれた久保田誠は、1970年大学在学中に当時のフォーク・ブームをリードしていた元祖インディーズ・レーベル、URC(アングラ・レコード・クラブ)から「アナポッカリマックロケ」と言う曲でデビュー。さらに彼は伝説のサイケデリック・ノイズ・バンド、裸のラリーズのメンバーとしても活躍しており、1972年に夕焼け楽団を結成してからも平行して、その活動を続けていました。(この”裸のラリーズ”というバンドは、どうやら凄かったらしい!聴いてみたい)
 そして、1972年彼はソロ・アルバム「まちぼうけ」を発表、さらに1973年にはアルバム「久保田麻琴U/サンセット・ギャング」を発表、これが夕焼け楽団の実質的デビュー・アルバムとなりました。この時のメンバーは、久保田麻琴(Vo,Gui)、恩蔵隆(Bass)、藤田洋麻(Gui)、井上憲一(Gui)の四人でした。

<チャンプルー・ミュージックの誕生>
 1975年、久保田は以前からドラムスなどで録音に参加してくれていた細野晴臣をプロデューサーとして迎え、アルバム「ハワイアン・チャンプルー」を発表しました。それは沖縄、ニューオーリンズ、ハワイ、メキシコ、テキサス、それに日本のロックが見事に混ざり合った極上のチャンプルー・サウンドでした。このアルバムは、あえて日本を離れハワイの地で録音されるなど、一足も二足も早くワールド・ミュージックの時代を先取りしていました。それに、彼が取り上げた沖縄の曲「ハイサイおじさん」は彼がカバーすることで全国的に知られるようになり、喜納昌吉によるオリジナル・バージョンが日本中で大ヒットするきっかけを作りました。これまた後の琉球サウンド・ブームを先取りしていたと言えるでしょう。
(さらに、この年には細野晴臣奉安洋行」、大瀧詠一ナイアガラ・ムーン」という同じ傾向をもつエスニック・ロックの記念碑的な作品も発表されており、まさにロックの多様化元年とも言える年でした)

<和製ニューオーリンズ・ファンク・バンド>
 1977年の「デキシー・フィーバー」では、さらにニューオーリンズ・ファンクのもつ独特のリズム、セカンド・ラインを追求し、日本のエスニック・ロックの第一人者の地位を確立します。1979年の「セカンド・ライン」では、ニューオーリンズ色はさらに強まり、ニューオーリンズ・ファンクの代表曲「デキシー・チキン」、「IKO IKO」、「ヘイ・ポッキー・アウェイ」に挑戦しています。
 しかし、このアルバム以後、彼は主役の座を自ら降り、裏方に徹して行くことになります。

<サンディー&ザ・サンセッツ>
 1980年代にはいると久保田は、「夕焼け楽団」を「サンセッツ」と改名、「デキシー・フィーバー」あたりからバック・ヴォーカリストとして参加していたサンディーを新たにメイン・ヴォーカルに迎え、1982年サンディー&ザ・サンセッツとして再スタートを切りました。そのスタート作となったのが、1982年発表のアルバム「イミグランツ」で、彼らの活動はここから日本を飛び出し、本格的にアジアをターゲットにするようになった。その優れた先見性は、まずアジアの中の英語圏オーストラリアで認められ、その知名度は本国日本を凌ぐものになります。こうして彼らの人気は、しだいにインドネシアを初めとする東南アジア諸国へと広まって行きました。しかし、この頃のサンセッツのサウンドはワールド・ミュージックへのアプローチを含んではいましたが、どちらかと言えばニュー・ウェーブ系ロックの枠内のサウンドだったかもしれません。

<アジアン・ポップの女神、サンディー誕生>
 久保田とサンディーのワールド・ミュージックへの挑戦は1990年に入ってついに時代を代表する傑作を生みだします。サンディー名義のソロ・アルバム、1990年発表の「マーシー Mercy」です。
 このアルバムでは、今まで久保田が築き上げてきたチャンプルー・サウンドがアジアン・ポップの女神、サンディーという主人公を得て見事に再構成され、ロック、テクノ、ハウス、ワールド・ミュージック、それに日本の民謡までもが違和感なくひとつの流れにまとめられました。あまりに日本的なイメージを持つ曲「Sakura」、「Sukiyaki」、「リンゴ追分け」などの名曲が、新しい生命を与えられ、「天然色の現代版、日本」をイメージさせる曲となって甦ったのには驚かされました。
(個人的には、札幌ススキノの某ショーパブで美しいオカマの方たちが、いち早く「Sakura」を使っていたのに感心したものです。そのショーの美しかったこと!)

<アジアン・ポップとのコラヴォレーション>
 もうひとつ「マーシー」の録音では、シンガポールが生んだアジアン・ポップのヒーロー、ディック・リーを共同プロデューサーとして迎え、日本という国のイメージを「アジアの中の日本」へと客観化することに成功しています。この方向性は、この後も久保田の音楽のアジア指向の基本となって行きます。
 この後サンディーは、「パシフィカ Pacifica」(1992年)、「アイルマタ Airmata」(1993年)「ドリーム・キャッチャー Dream Catrcher」(1994年)、「わたし Watashi」(1996年)と次々にアジアン・ポップの傑作を発表してゆきますが、久保田は彼女以外にも、ディック・リーBOOM、インドネシアのチャンプルーDKIなど、アジアン・ポップ系のアーティストたちのプロデュースをも行い、アジアン・ポップ・ブームの仕掛け人として大活躍を繰り広げました。

<マック、再びギターをとる>
 1999年、久保田麻琴は久しぶりにギターを手にとって歌い始めた。それもデビュー当時からの仲間、細野晴臣とコンビを組んでの再スタートでした。アルバム・タイトルは、ズバリ!「Road To Loisiana」。ルイジアナ州のニューオーリンズのスタジオを中心に録音したこの作品から、再び久保田は自分の求める音楽を探す旅に出発した。
 そして、2000年久保田は久々のソロ・アルバム「ON THE BOADER」(まるでライ・クーダーのアルバム・タイトルのようだ)を発表しました。このアルバムは、彼のサウンドの原点とも言える三つの土地で録音が行われました。一カ所は、彼がかつて最大の憧れだったアメリカン・ルーツ・ロックの最高峰、ザ・バンドボブ・ディランの聖地ニューヨーク州ウッドストック。二カ所目は、彼がかつて最も熱中したファンク・サウンド、ニューオーリンズ・ファンクの原点、ルイジアナ州ニューオーリンズ。そして、もう一カ所は、ルイジアナ州南部に位置するもうひとつのルーツ・サウンド、ケージャン音楽の中心地でした。
 この三カ所での録音を元に東京で仕上げられたアルバム「オン・ザ・ボーダー」、それはまさに耳で聞くアメリカン・ルーツ・サウンドの旅です。

<憧れを現実にして>
 憧れだったザ・バンドのメンバー、リック・ダンコガース・ハドソンと語り合い、彼と同じルーツ・ミュージックの旅人、ジョン・セバスチャンとジョークを飛ばしあう、そんな多くのロック・ミュージシャンにとって夢のような体験をしてしまったマック(麻琴)ですが、それもまた彼にとってはまだまだ旅の途中というところなのでしょう。
 彼は自分のことをラクダに似ているといい、自らイメージ・キャラクターに採用していましたが、音の旅人、久保田麻琴にとってラクダは確かにぴったりのキャラクターなのかもしれません。(70年代に無精ひげをはやしていた頃の彼の姿は確かに見た目もラクダそっくりでした)
 21世紀、彼が始める新しい旅の目的地はいったいどこだろうか?

<締めのお言葉>
「自覚聖智ということは、どんな意味か。それは自分で体験するということである。人から教えられないで、自分でやるということである。自分でこうだと、一つのことに気がつく、これが禅宗の根本である。体験を重んじて、理屈は重んじない」

鈴木大拙著 「禅とは何か」

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