日本の暮しを変えた編集者の戦いの日々

「暮しの手帖」

- 花森安治 Yasuji Hanamori -

<「トト姉ちゃん」>
 朝の連続テレビ小説「トト姉ちゃん」を憶えていますか?高畑充希が主演で、女性たちのための雑誌を制作する人々の物語でした。あのドラマのモデルとなった女性誌「暮しの手帖」を生み出し、育て上げたもうひとりの主人公が花森安治です。(ドラマでは唐沢敏明が演じました)
 ドラマでの印象はそれほど大きくなかった気がするのですが、先日、彼の伝記本を偶然手に取って驚きました。
「え!この人女装してる?」
 表紙の写真の彼はロングヘア―で女装しているようにしか見えないのです。(残念ながら美人ではない・・・)彼には妻も子もいて、同性愛者ではなかったようなのですが・・・女装は趣味か?女性になり切るための工夫だったのか?それとも別の意図があったのか?
 さらに言うと、僕の大学時代の先輩が「暮しの手帖」で働いていて、ウォークマンで音楽を聴きながら一日中山手線を回っていた話を聞かされたりしていました。なんだか面白そうな会社だなあ、とも思っていました。
 花森安治とは何者か?
 「暮しの手帖」とはいかなる雑誌なのか?
 出版不況の中、なぜ21世紀まで生き残ってきたのか?
 と興味津々で伝記を読んでみました。

 彼は独特のセンスとスポンサーをつけない企業理念を貫くことで、他の雑誌とは異なるスタイルを確立。消費者目線で客観性を保つ、時代の先を行くまったく新しい雑誌は、日本の消費文化に大きな影響を与える存在となりました。彼の死後も、その理念は貫かれ、時代と共に変化しつつ、出版不況の21世紀の今もなお、出版し続けられています。
 大事件を起こしたわけでもなく、大ベストセラーを書いたわけでもなく、政治的な変革をもたらしたわけでもなく、ただ淡々と女性たちのために役立つ雑誌を出版し続けた男。花森安治の生涯と残した言葉をまとめました。

<花森安治>
 花森安治は、1911年10月25日、神戸に生まれています。
 戦争中、彼は宣伝・広告会社、伊東胡蝶園(のちのパピリオ)で働いていましたが、そこから委託されて、大政翼賛会で政府のための広報活動の仕事を担当。そのため、軍に入隊することなく、仕事も失わずに済みました。
 彼は、戦意高揚のために広告会社で言葉を武器に戦争協力をすることになりました。あの有名な「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンは、当時彼が翼賛会主催の「国民決意の標語」のコンテストで選んだ作品でした。(作者は小学生)
 彼は当時、そうした自分の戦意高揚の行為に迷いはなかったようです。なんだか「トト姉ちゃん」の後で制作された連続テレビ小説「エール」の主人公を思い出させます。

 ぼくは、ぼくなりにやね、受けた教育と、それで、とにかく日本という国を守らんならん、とね。それには、戦争始めた以上は勝たんならん、と。それに一生懸命やったんや、と。いま、それがね、間違いやったということがわかったけれども、その時は一生懸命やったんで、それを今さらね、いいかげんにしとったんや、とか、ご都合主義でやっとったんか、ケチなことは言わん、と。ぼくの全生命を燃焼さして戦った、と。協力した、と。そいで、それだけにショックが大きい、と。それだけに、ぼくはこれからはね、絶対に戦争の片棒はかつがん、と。それだけが償いや、と。まあ、しっかり、これからのぼくを見とってくれ、と。

 敗戦により日本が焼野原になり、自分のしたことの罪深さに気づいた彼は、戦争の犠牲者となった女性たちのために役立つ本を作ろうという企画にのめり込み、「暮しの手帖」という雑誌が誕生することになったのです。

 以前、私は「日本人の生活を変える」という自分の夢を大政翼賛会という官製の国民運動の中で実現しようとこころみた。しかし、それはあきらかな間違いだった。これからは政党や官庁や大企業や大学など、他人がつくった組織とは一切かかわらない。支援をもとめない。すべてを自分と少数の仲間だけでやる。
 したがって、こんどの仲間は政治家でも役人でも企業人でも学者でもない。日本人の暮しを実質的に支えてきた女性たちである。
・・・

<女性のための雑誌誕生へ>
 それは、出版社で働いていた大橋鎮子が女性たちのために出版をしたいと提案したことから始まりました。彼女は家族と共に資金を出し合い、出版社を立ち上げ、その編集を手伝ってほしいと花森に依頼します。花森は、その依頼を受けただけでなく、編集長として積極的に関わる道を選択します。でも、なぜ彼はその依頼を断らなかったのか?

 今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起こらなかったと思う。だから、君の仕事にぼくは協力しよう。
「暮しの手帖と半世紀」より

 終戦後、物のない時代に彼が最初に提案したのは、自前の生地を使って、簡単に衣服を作るための「直線裁ち」の手法でした。こうして、「暮しの手帖」の前身となった雑誌「スタイルブック」が創刊されます。その広告文(朝日新聞などに掲載)はこんな感じでした。

 たとえ一枚の新しい生地がなくても、もっとあなたは美しくなれる。
「スタイルブック」定価12円、送料50銭
少ししか作れません。前金予約で確保下さい。
東京銀座西8-5日吉ビル 衣裳研究所


 時代のニーズに答えたこの雑誌は大ヒットとなりました。しかし、その後、この雑誌はすぐに他の出版社にマネされることになり、その影響で売り上げもダウンしてしまいます。
 1948年9月、社名をそれまでの「衣裳研究所」から「暮しの手帖社」に変え、新雑誌「美しい暮しの手帖」を創刊します。
「発刊の辞」
これは あなたの手帖です
いろいろのことがここには書きつけてある
この中の どれか一つ二つは
すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
せめて どれかもう一つ二つは
すぐには役に立たないように見えても
やがて こころの底ふかく沈んで
いつか あなたの暮し方を変えてしまう
そんなふうな これはあなたの暮しの手帖です


 1953年、「暮しの手帖研究室」が落成。商品検査をするための設備や部屋のある編集のための城が完成したわけです。雑誌名もこの年から「美しい暮しの手帖」から「暮しの手帖」に変更されました。
 内容的にもこの年から変更が行われました。
(1)雑誌のかたち(見た目)にかかわる変化。
 戦中の「婦人の生活」以来の随筆中心の読み物から、写真、イラストを中心とするビジュアル重視のグラビア誌へ。
(2)女性向けの雑誌から、日本の暮しを意識的に変化させようという生活総合誌へ。

 1954年、様々な商品のテストが社員たちによって実施されるようになり、本格的な「商品テスト」の連載が開始されます。
 「商品テスト」の手本となった「コンシューマーズ・ユニオン」(消費者組合)はアメリカで1936年に発足した組織で、20世紀の消費者運動の先駆となりました。

 コンシューマーズ・ユニオンにも、スケールこそ異なれ、よく似た二本の柱がありました。「全米テスト研究センター」という巨大研究所と、もうひとつ、そこでの商品テストの結果を消費者につたえる「コンシューマー・レポート」という月刊誌です。花森の仕事場には、いつもこのパンフレットのような簡素な雑誌がおいてありました。
 『暮しの手帖』は広告をいっさい掲載せす、企業からのテスト用サンプルや商品の提供も頑固に拒み続けています。(コンシューマーズ・ユニオンも)
(そこまで徹底するからには、商品テストには常に万全を期し、結果には責任をもつ覚悟を貫きました)
「商品テスト失敗したら、暮しの手帖はつぶれる、と花森は言っていた。人さまが命がけで作っている物を、いいとかわるいとか批評するのだから、商品テストは命がけだと言っていた。テストには完全主義を押し通し、ミスをした担当者には、お前みたいなやつはクビだ!と大声でどなった」

<なぜ「暮し」の改革だったのか?>
 なぜ彼は女性のために「暮し」を変えることを自らの使命としたのか?それは反戦という彼の目指す目標のためだったといいます。

 そのとき、おぼろげながら思いついたことは、戦争を起こそうというものが出てきたときに、それは嫌だ、反対するというには反対する側に守るに足るものがなくちゃいかんのじゃないか。つまりぼくを含めてですよ。・・・・・一般のわれわれは、それがなかったから簡単にゴボウ抜きだ。抜く必要もない、浮いておるんだから、こっちへこっちへ寄せてくれば、すくいとられてしまう。風呂のアカみたいなものだった。
 それでぼくは考えた。天皇上御一人とか、神国だとか、大和民族だとか、そういうことにすがって生きる以外になにかないか。ぼくら一人一人の暮し、これはどうか。暮しというものをもっとみんなが大事にしたら、その暮しを破壊するものに対しては戦うんじゃないか。つまり反対するんじゃないかと。

インタビュー「僕らにとって8月15日とは何であったか」より

 1968年8月、第96号で特集を組んだのは、「戦争中の暮しの記録」でした。
 この特集には、全国から1736編の応募がありました。
 書かれていた文章の内容としては、
 戦場、配給食品日記、疎開、東京大空襲、我が町は焼けたり、大阪全滅、飢えたるこどもたち、村へやって来た町の子、防空壕と壕舎、油と泥にまみれて、食、酒・たばこ・マッチ・石鹸・長靴・油、路傍の畑、ゆがめられたお洒落、恥の記憶、父よ夫よ・・・
 これらの文章に新聞記事などを挟み、B5判252ページの一冊にまとめました。すると、時代がこの本の出版を待っていたかのように91万部の大ベストセラーとなりました。
 後に彼はこの号を出した理由について、こう語っています。
「それは自分たちの体験が罪の意識にかわってしまったからです。私にしても戦争中は30代だったが、自分のしていることは最も崇高なことだと信じていたし、それだからあの時代に生き抜いてこられたわけです。ところが戦争が終わったとたんに、すべての価値はひっくり返ってしまった。戦争に行ったのが悪であり、隣組の班長をしたことが、いやな目で見られた。・・・・・
 しかし、多くの人たちは、腹の底ではお国のために尽くしたのが、なぜいけないのかと思っている。しかし、世の中は民主主義の時代であり、そんなことはいえない。・・・・・また戦争に負けたというショックも大きいし、自分の生き方がどこまでが正しく、どこがあるいのかの価値判断もつかない。そこで男は黙ってしまったのです。・・・ところが女性は違う。自分の体験は間違っていなかったという強い自信がありますね。・・・」

 1971年、「一戔五厘の旗」出版。
 花森にとって17年ぶりとなる著作で29のエッセイを収録した本。「一戔五厘」とは戦前のハガキの値段のこと。この一枚のハガキで召集され死んでいった庶民を意味します。

「・・・民主主義の<民>は庶民の民だ
 ぼくらの暮しを なによりも第一にする とうことだ
 ぼくらの暮しと 企業の利益とがぶつかったら
 企業を倒す ということだ
 ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら
 政府を倒す ということだ・・・」

エッセイ「見よぼくらの一戔五厘の旗」より

 1972年、エッセイ「君もおまえも聞いてくれ」より

「このへんで、ぼくら、もう頭を切り替えないと、とんでもない手遅れになってしまいそうなのだ。もう、<国をまもる>なんてことは、ナンセンスなのだ。
<地球>をまもらねばならないのだ。
どっかの国が攻めてきたら、どうする。
この祖国の山河をどうする。
なんて、あいつは、ぶつくさ言っているようだが、それも言おうなら、この<母なる地球>をどうする、じゃないか。
まして、反戦だ戦争反対だ、と絶叫しながら、火炎ビンや爆弾で、戦争をやったつもりでいる、奇妙な細胞構造の生物よ。
 もう、そんな革命理論は19世紀の者だ。古い。通用しない。ナーンセンスだ・・・・・
 じつをいうと、ぼくは、地球が崩壊するよりまえに、死ぬだろう。この目で、21世紀を見とどけることは、不可能だ。・・・・・
 しかし、ぼくより、ずっと若い人たち。
 おそらく、君たちは、世界中がこんなことをしていたら、地球といっしょに、亡んでゆくかもしれないのだ。その日に、立ち会わなければならないのだ。そういう目に、君たちを合わせる、その責任は、はっきりぼくらにある。」


 
<女装、異装について>
 花森の不思議な衣装についての記述もあります。

 女装のふくむ異装一般についていえば、もともと彼は型破りなファッションがきらいではなかった。大学時代のローブの自作も、高校のころ、小倉の制服にド派手なペイントをほどこして、松江の町を闊歩したのも、その一例。そこにも内外の前衛芸術家たちの芸術行為としての異装へのあこがれや対抗心が見てとれる。・・・
(彼はその後も生涯、背広を着ることを拒否し続けています。着る者にはこだわりを持ち続けます。ただし、女装趣味だったというわけではなかったよう)

 1978年1月14日、心筋梗塞により66歳で死去。死のギリギリまで仕事を続けました。そして、「暮しの手帖」はその後も、彼の意志を受け継ぐように21世紀に入っても、出版不況の中、新たな号を世に出し続けています。


「花森安治伝 日本の暮らしをかえた男」 2013年
(著)津野海太郎
新潮社

トップページヘ