
- 黒澤 明 Akira Kurosawa (前編)-
<多彩な黒澤映画>
世界にその名を知られる名監督小津安二郎と黒澤明、二人の監督の最も異なる点は何か?それは小津の作品群が、どれもみな「小津スタイル」とでも呼べるひとつの統一されたスタイルをもっているのに対し、黒澤作品は実に様々なテーマとスタイルをもっています。そのため、黒澤映画のベスト1を選ぼうとすると、人によってまったく異なった答えが返ってくることになります。
たぶん「七人の侍」が最高と答える人は多いでしょう。それに次いで「生きる」も多いでしょう。(この二本は近々ハリウッドでリメイクが決まっています)しかし、アクションものが好きな人なら「用心棒」こそ黒澤のベストと言うかもしれません。また、その逆に芸術として映画を見る人なら、「乱」こそ黒澤美学の結晶であると考えるかもしれません。それとも、ベネチアでグランプリを受賞した「羅生門」こそ映画史に残る傑作として黒澤のベスト1と考えるべきかもしれません。これもまた正論です。
これだけではありません。最も黒澤明がエネルギッシュで、主役の三船敏郎が魅力にあふれていたという点では、「酔いどれ天使」「野良犬」も捨てがたい傑作です。僕個人としては、無視されがちな隠れた名作「デルス・ウザーラ」もあげたい気がします。
これらの作品のほとんどを僕は見ていますし、どれも大好きです。大学生のころから、僕は黒澤映画の大ファンでした。(しかし、最近なぜか小津監督の作品により引かれるようになってきました。年をとってきたせいでしょうか?)
そんなわけで、黒澤映画は作品により、時代により、あまりにテーマが異なるため、なかなかその本質をとらえにくいかもしれません。しかし、ここであえて「ロック世代のポピュラー音楽史」らしく黒澤映画を「昭和」という時代とともに見つめ直して見ようと思います。いうなれば「黒澤明と昭和史」です。
<青春時代(1930年代)>
黒澤明は明治43年(1910年)3月23日、東京で生まれています。父親は元々は軍人でしたが、体育系の教師として大井町の中学校で働いていました。その後、彼が小2の時、小石川へ引っ越し、後に彼の映画でシナリオ・ライターとして活躍する植草圭之助と同級生になりました。この頃、担当の教師が美術教育に非常に熱心だったことから、彼は絵画に目覚めます。そして、中学卒業後同舟社という画塾に入り、画家を目指すようになります。実際、彼の絵の才能は本物で、二科展に二度応募して二回とも入選するなど、画家として一流になる可能性をもっていました。(後に、彼の映画用絵コンテは一流の絵画と同等の扱いを受けることになります)そのうえ当時、彼は7人兄弟の末っ子だったこともあり、将来についての足かせはあまりありませんでした。しかし、現実的にみたとき、彼は画家として食べて行く自身はなかったようです。そんな試行錯誤の後、彼が選んだのが映画の道だったのです。
ちなみに、彼が本格的に絵画に取り組みだした時代は、共産党大躍進の時代でもあり、プロレタリア・アートの全盛期でもありました。(労働者による労働者のための絵画運動であり、労働の美しさを讃えようという運動)そのため、彼もまたプロレタリア絵画の運動に参加しています。この経験が直接的には映画「わが青春に悔いなし」を生み、その後も彼の作品にいろいろと影響を与えて行くことになります。
<映画界へ(1936年)>
彼の兄が映画関連の仕事をしていたこともあり、子供のころから彼は映画が大好きでした。まして、この時代最大の娯楽はなんと言っても映画だっただけに、彼は自分の美術の才能を活かせる映画の世界で働く道へ進む決意をしたのです。こうして、1936年(昭和11年)彼は東宝の前身となった映画会社PCLに助監督として入社します。
彼が映画界で働き始めた1936年という年は、有名な二・二・六事件が起きた年でもあります。さらにこの年、日独防共協定(日本とドイツの軍事協力条約)が締結され、日本は本格的に戦争モードに突入しようとしていました。(翌年には、日中戦争が始まっています)
<「達磨寺のドイツ人」(1941年)>
助監督として、山本嘉次郎監督のもと修行を積んでいた彼は、この頃数多くの脚本を書き、映画監督になるための下準備をしていました。(当時の助監督は生活のためにも、映画の脚本を書くのが重要な仕事でした。映画の製作本数が今の何倍もあっただけに脚本はいくらあっても足りなかったようです)その中でも「達磨寺のドイツ人」は、有名な作品で幻の脚本と言われています。
「達磨寺のドイツ人」(1941年、脚本のみ)
ナチス・ドイツに追われて日本を訪れ、田舎の禅寺に住みながら日本文化を研究したという実在の人物、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトをモデルにした作品。
結局映画化はされませんでしたが、今からでも見てみたい題材です。当時の日本の状況が感じられる面白い内容だったようで、今からでも誰かが映画化していいような気がします。
この作品が書かれた年、ついに日本は真珠湾へと攻撃をしかけ、太平洋戦争が始まることになりました。
<「姿三四郎」(1943年)>
一時は優勢と思われていた太平洋戦争ですが、1943年には日本軍のシンボル的存在だった山本五十六が戦死。さらに北太平洋ではアッツ島で日本軍が玉砕。戦況を改善するための手段として、学徒戦時動員体制が発表されます。
そんな戦争一色の時代背景の中で発表されたのが、黒澤明の記念すべきデビュー作「姿三四郎」でした。
「姿三四郎」(1943年)
後に自衛隊を率いてゴジラと闘うことになる俳優、藤田正を主役とするこの柔道映画は、刀を用いない格闘技映画の先駆けとも言えるものでした。しかし、時代背景を考えてみると、この映画は意外なほど軍事色の薄い純粋なスポーツ根性ものであり、アクション娯楽作品でもありました。検閲が厳しく戦意を高揚させる映画ばかりが作られていた当時の映画界の中では異色の作品だったと言えます。
<黒澤明と戦争>
黒澤明はこうして戦時まっただ中に監督としてのキャリアをスタートさせることになったわけですが、実は戦争中も戦後も一本も戦争映画を作っていません。だからといって、反戦的な映画を作っていたわけではありませんが、娯楽に徹する映画を作ることで、軍の意向に反抗する道を選んだようです。(ただし、娯楽映画といっても、ナンセンスな喜劇映画は逃避的とみなされ、撮ることを許されないほど検閲は厳しい時代でした)
<「我が青春に悔いなし」(1946年)>
1945年、終戦と同時に彼は新作の撮影を開始します。多くの監督たちが戦時中、軍のためのプロパガンダ映画を作ったことに対する反省から映画を撮れずにいる中、彼はすぐに映画「我が青春に悔いなし」を撮り始めました。この作品は反戦運動に青春を捧げたある学生の物語で、時代に翻弄された若者たちの悲しい青春映画でした。
「・・・騙されたものの罪は、ただ単に騙されたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なく騙されるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。・・・」
「戦争責任者の問題」について、映画監督伊丹万作(伊丹十三の父)の言葉
黒澤明もまた同じように政府に対し従順であろうとする日本国民の精神的な体質を嫌っていました。この後、無責任な体制への依存体質からの脱却は、黒澤映画の重要なテーマとなります。
たとえば、「七人の侍」に登場する百姓たちがあまりに無個性で情けなく描かれているのは、そんな一般大衆に対する非難の気持ちの表れであり、多くの作品で悪役が魅力的に描かれているのも、自らの意志を持つものへの敬意の表れなのです。彼は、悪の道へ踏み出そうとも自らの意志を貫く人間を自らの意志を持たない人間よりも高く評価していたとも言えます。
「人類の苦悩はその過剰な<攻撃性>にあるのではなく、その並はずれた狂信的<献身>にある」
アーサー・ケストラー著「ホロン革命」より
<「酔いどれ天使」(1948年)>
1948年、吉田内閣が誕生し、本格的に日本は戦後復興から経済発展への道を歩みだそうとしていました。街にはまだ敗戦時の荒れ果てた状態が残されていましたが、そこで生きる人々の目にはエネルギーがあふれつつありました。そんな時代の生き生きとした雰囲気を写し取った作品が「酔いどれ天使」です。
特にこの映画で衝撃的デビューをかざった若き三船敏郎のギラギラした眼はそれまでの日本映画には存在しなかったものでした。彼こそ黒澤明の求めていた強烈な自我の持ち主であり、日本映画の新しい星だったのです。
以前この映画を見たとき、「さすがは40年代だけあって味のなる街並みだ」と感心した覚えがあるのですが、実はこの映画、ほとんどはセットで撮られているそうです。本当に良くできた映画は「良くできたセットだ」などとは思わせないのかもしれません。
<「野良犬」(1949年)>
ジュールス・ダッシンによって撮られた映画史上初のドキュメンタリー調犯罪映画「裸の街」(1948年)。その影響を受け、戦後復興のエネルギーに満ちた東京の街を舞台にドキュメンタリー・タッチで作られた刑事物が「野良犬」でした。
この作品でも三船敏郎は、若き新米刑事として大活躍していますが、そこに描かれている「東京」というエネルギーに満ちた街の姿もまた主役と呼ぶに相応しい存在です。
音楽ファンとしては、この作品の中で歌い踊っている笠置シズ子のジャパニーズ・ブギは必見です。彼女のパワフルな歌唱は戦後日本復興のエネルギーを象徴しており、この映画のもつ若々しさを象徴していたともいえます。もちろん、彼女の歌は今聞いても十分格好いいです。
<「羅生門」(1950年)>
前作までを黒澤明の青春一直線時代とすると、この「羅生門」からは全方位活躍時代のはじまりということになるでしょう。そして、この時期はまた敗戦国日本にとって、戦後復興時代から高度経済成長時代への転換点でもありました。この年、1950年にお隣の朝鮮半島で、朝鮮戦争が始まり、日本は軍需景気にわくことになります。
西欧諸国に再び追いつこうと必死にがんばっていた日本人にとって、「羅生門」のベネチア映画祭でのグランプリ受賞は、今考えるよりずっと大きな意味をもっていたはずです。さらにこの映画の特殊な構造は、後の映画界に実に大きな影響を与えることになります。その特殊な構造というのは、同じ物語を異なる視点から描き出すことで、「真実」というものの不確かさを描き出すという新しい手法でした。(2003年公開の中国映画「英雄
HERO」は、ある意味この映画のリメイクです!)
<「白痴」(1951年)>
「白痴」は黒澤監督によるロシア文学へのチャレンジで、「羅生門」で得た勢いをそのまま持ち込んだ意欲的な作品でした。しかし、その意欲があまりにありすぎたのか、この作品は4時間半を越える超大作になってしまいました。いくら黒澤作品とはいえ、映画会社がそのまま公開を認めるはずもなく、結局この映画は2時間46分にまで縮められてしまいます。この映画は一般的に失敗作とされていますが、ほんとうにそうなのかはノーカット版を見なければ評価はできないのかもしれません。それはマーチン・スコセッシ監督が「タクシー・ドライバー」の成功の後、「ニューヨーク・ニューヨーク」で張り切りすぎて大幅に予算をオーバーしてしまったことを思い出させます。
しかし、世界の黒澤はそう簡単に潰れるような監督ではありませんでした。彼の成功はまだこれからだったのです。
<「生きる」(1952年)>
黒澤明は映画によって数々のメッセージを発していますが、そのメッセージ性と娯楽性が最もバランス良くできていたのが「生きる」だったのかもしれません。(「生きる」は今ハリウッドでリメイクされようとしているそうです。主役の志村喬の役をトム・ハンクスが演じるそうです)
なぜかこの後、しだいに彼は道徳的なメッセージを発しなくなり、単純な娯楽アクションに専念するようになります。それだけに、この映画は黒澤映画のひとつの頂点を究めたと言えるでしょう。この作品について、映画評論家の佐藤忠男氏はこう書いています。
<中締めのお言葉>
「黒澤明は、生命力に満ちあふれた人間が好きである。そして、黒澤明にとっては、生命力にに満ちあふれた人間が、その生命力を野放図に発揮するときに悪が生じ、それを自らコントロールする時に善が生じる。生命力に乏しい無気力な人間というのは、黒澤明にとっては、最初から死人も同然なのである。「生きる」は、この死人も同然の男が、突然生きようとする物語である」
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