「死よりも悪い運命 Fates worse than Death 」より

- カート・ヴォネガット Kurt Vonnegut -

<ヴォネガット再び!>
 2007年4月11日、カート・ヴォネガットは自宅の階段で転倒し頭を強打、それが原因でこの世を去りました。享年84歳。
 2008年、アメリカ大統領選挙でのオバマ氏の勝利を見せてあげたかった。アメリカの歴史上初の黒人大統領の誕生に彼はどんなコメントを発したでしょうか?
 ここで取り上げているカート・ヴォネガットのエッセイ集「死よりも悪い運命 Fates worse than Death」は、彼が1980年代に発表した文章と講演をもとにした作品集です。したがって、21世紀の現代にそのまま当てはまるとは限らないのですが、幸か不幸か彼の当時の言葉はいまだに現代社会にあてはまることばかりです。
 20年ほどの時の流れの中で、人類は少しは進歩してきたのでしょうか?
 たかが20年程度で変化が現れるとは限りませんが、そのたかが20年で世界は大きく変りました。それも悪い方向へと。そこで、今再び、ヴォネガットの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

「・・・ボストンとフィラデルフィアは、どちらも自由の揺籃の地であったと主張しています。どちらの町が正しいのか?どちらでもありません。自由はいまアメリカ合衆国で生まれたばかりです。自由は1776年に生まれていません。当時、奴隷の所有は合法でした。白人の女性さえもが無力で、父親か、夫か、近縁の男性か、それとも判事か弁護士の所有物でした。自由はボストンやフィラデルフィアで受胎しただけです。・・・」
ロードアイランド大学での卒業記念講演より(1990年)

 オバマ氏の当選は少しは彼の魂を安らかなものにしてくれるかもしれません。しかし、現在の世界の経済状況を見れば、せっかくの安らぎもすぐに失われてしまうでしょう。今再び、彼の素晴らしい言葉と文章を読み返してみたいと思います。それでは彼の作品集「死よりも悪い運命 Fates worse than Death」から、ほんの少しだけご紹介させていただきます。

<2088年への手紙>
 以下の文章は「2088年の未来人への手紙」というタイム誌に掲載された文章からの抜粋です。
「二十世紀は、ほかのいくかの世紀に比べて、あまり名言に恵まれていません。それは、人間のおかれた状況について、はじめて信頼できる情報をつかんだ時代であったからでしょう。この世界にはどれぐらいの数の人間がいるか、人間はどれぐらいのスピードでふえているか、人間・・・などなど。
 それほどの凶報がつぎつぎに流れ込むなかで、だれに知ったかぶりができます?」
 以下の文章は、21世紀の人類に向けて発せられたガイア(地球の女神)からの最後通告のようです。しかし、ここで書かれていることは、すべて20世紀中に人類が経験から学んだことばかりのはずです。
「いまわれわれに必要な指導者は、堅忍不抜の意志で自然に対する究極の勝利を約束する指導者ではなく、自然が人間につきつけた、厳格だがすじの通った降伏条件と思えるものを、世界に提示するだけの勇気と知性のある指導者です。その降伏条件とは・・・・・
1.おまえたちの人口を減らして、安定させよ。
2.大気と水と表土を汚染するのをやめよ。
3.戦争の準備をやめ、現実の問題と取り組むことにとりかかれ。
4.そうするかたわら、おまえたちの子供といっしょに、どうやってこの小さい惑星の破壊に力をかさずに、そこで暮らしていくかをまなべ。
5.科学に1兆ドルを投資すればなんでも解決できる、と考えるのをやめよ。
6.いくら自分たちが破壊好きで浪費癖があっても、孫たちが宇宙船ですてきな新しい惑星へ行けるのだからなにも心配はいらない、と考えるのをやめよ。それは本当にあさましい、愚劣な考えだ。
7.その他いろいろ。さもなくば。・・・」


 今や、人類は生存競争において、「負ける」とこを求められているのかもしれません。人類が生き延びる唯一の方法は、「負けるすべ」を学ぶことなのです。
 このまま人類が「負ける」ことを学ばず、「勝利」だけを目指すなら、人類には恐竜と同じように絶滅という未来が待つのみなのかもしれません。
 以下は、「リアーズ誌」に掲載された文章です。
「もし、たとえばあと百年のうちに、空飛ぶ円盤に乗った生き物か、天使か、それともほかのなにかが地球へやってきて、人類が恐竜のように滅びたことを発見するとしたら、グランド・キャニオンの断崖に大きな文字で書くかなにかして、どんなメッセージを彼らのために残しておけばよいだろうか?このぼけ老人が考えた一案はこういうものだ・・・
『われわれは自分たちを救えたかもしれないが、呪わしいほどなまけものであったため、その努力をしなかった。』
 そして、こうつけ加えてもよい・・・
『それにわれわれは呪わしいほど下劣だった』」


<アメリカ合衆国憲法修正第二条>
「『規律ある民兵は、自由国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、武装する権利は、これを侵害したはならない』
 申し分なし!このくだりは一字一句も変えたくない。ただ、全米ライフル協会と、州や連邦の立法府にいる、気骨のない、金で買われた協会の味方に、この条文ぜんたいを注意深く朗読してほしい。その上で、どんな役人に徴募されたわけでもなく、どんな役人の指揮も受けず、どんな役人からも目標を与えられず、ただ自分の人格といまなにが起きているかについての知覚だけで動き、あるいは抑制されている重武装の老若男女が、果たして規律ある民兵の一員とみなせるかどうかを答えてほしい」


 知りませんでした。アメリカにおける武器所有の権利は「敵」の存在を前提に作られていたのです。アメリカという国にとって、「敵」のいない世界は想定外なのです。もともとアメリカにとって、国家の目標として平和な世界を築こうという意識は存在しないのかもしれません。自由の国、アメリカと北朝鮮にそれほど違いはないのです。
 では、規律ある民兵は、なぜ必要なのでしょうか?それは闘うべき「敵」が存在するからです。アメリカの独立当初は「奴隷の反乱」もしくは「先住民の反乱」を想定していたのかもしれません。その後、アメリカの敵は「ジャップ」「ナチ」「共産主義者」「ベトコン」そして、「イスラムのテロリスト」と常に時代の変化とともに生み出されてきました。
 以下の文章はネーション誌に掲載された「戦争準備中毒者」についてのものです。前述の憲法にあるように、アメリカでは「敵」の存在が規定されているのですから、下記のように戦争準備中毒者を生むのも当然のことかもしれません。
「・・・わたしはこう考えずにいられなくなった。悲しいことに、戦争の準備がおもしろくて病みつきになった人びとが、われわれのなかにいる、と。戦争が近づいた、その準備をなくしてはならないといいふらすと、この人たちはほんのしばらくだがいい気分になれる。朝食代わりのマティーニを飲んだ酔っぱらいや、スーパーボウルの勝敗に給料小切手の金額を賭けたギャンブラーのように・・・」
「もし知り合いのギャンブル狂が文無しになっていたら、1ドル渡して、だれがいちばん遠くへ唾を飛ばせるかの賭けをさせるだけで、幸福な気分にしてやれるだろう。そのでんで、強迫観念にとらえられた戦争準備屋にかりそめの幸福を与えるには、三隻のトライデント搭載型潜水艦と、汽車ポッポに積んだ百発の大陸間弾道ミサイルを買ってやらなくてはならない。・・・」


「かりに西欧文明がひとりの人間であるとしたら、早く彼をもよりの戦争準備中毒者更正会へ連れていったほうがいい。『西欧文明といいます。わたしは戦争準備中毒者です。わたしは自分にとってたいせつなすべてのものを失いました。もっと早くここへくるべきでした。わたしが最初にどん底に落ちたのは、第一次世界大戦でした』」

 ブッシュ親子も、レーガンも、そしてネオコンのメンバーも、みなかわいそうな中毒患者だったのでしょう。しかし、そんな病人に導かれるアメリカという国に導かれてきた20世紀の世界もまた「戦争準備中毒症候群」にかかっていたといえるでしょう。

<人類は進歩しているか?>
 以下の文章は、ニューヨークの有名な教会聖ヨハネ教会での講演(説教?)です。
「いま、世界中の人々が、世界中の人々のことをよく知っているおかげで、敵を殺すことからは快感が失われました。・・・
 まず人間が変らなければ世界大戦はなくならない、という意見をわれわれはよく耳にしてきました。
 けさのわたしはみなさんに吉報をお届けできます。
 人間は変ったのです。
 われわれはもう以前ほど無知でなく、血に飢えてもいません。・・・」


「ゆうべわたしは、千年後の未来の子孫の夢を見ました。・・・
 わたしは、どうして人類が、すべての確率にさからって千年期を生きつづけられたのか、とたずねました。彼らはこう答えました。われわれも、われわれの先祖も、あらゆる機会をとらえ、たとえ恥辱という犠牲を払っても、自分たちとほかのみんなのために死より生を選んだからだ。われわれは自殺にも走らず、殺人も犯さずに、ありとあらゆる侮辱と屈辱と落胆を耐え忍んだ。もちろん、われわれも、侮辱と屈辱と落胆を与える側にまわることもある。・・・」


 彼はこうした知識を人類が獲得できたのはテレビなどのおかげと語りました。しかし、その後、彼はそのことを反省する一文を書いています。
「殺人が靴のひもを結ぶように日常的な行動だとわれわれに信じ込ませるのに、だれがヨゼフ・ゲッペルスを必要とするだろう?独立経営で、巨大な視聴者をつかまらなければ生き残れないテレビ産業があれば充分だ。
 わたしはあの説教壇からこういうべきだった。われわれ
は地獄へ落ちようとしているのではない。すでに地獄にいる。そうなった元凶は、ほかの道ではなく、この道をとれとわれわれに教えるテクノロジーのせいだ。テレビだけではない。・・・」

<人類の未来をになう若者たちへ>
 1985年、マサチューセッツ工科大学での講演で、彼は科学者の卵たちにこんな言葉を贈っています。
「『わたしの能力と判断力にしたがい、この惑星上のすべての生物の利益になるような養生法をほどこし、それらの生物を苦しめたり、そのほか不正な目的でそれを用いたりはしません。たとえだれが求められても、人の命を絶つような物質や機械を作らないし、またそのようなものを作れと奨めたりもしません』これをMITを卒業するときにだれもが宣誓する誓いのたたき台にしてはどうでしょうか。・・・」
・・・しかし、講演のあと、わたしのところへやってきて、理科系の新卒業生が自発的に立てる誓いの文句を書いてみたい、と志願する学生はひとりもいなかった。・・・
 なにが今日の学生をそれほど無反応にしているのかを教えよう。彼らはわたしが絶対にのみこめないことを知っている・・・人生がふまじめだということを。・・・」


 子供の頃から人間の愚かさを見続けて大きくなった若者たちには当然の反応だったのかもしれません。

<人はなぜ人を憎むのか?>
 今度は、彼が1986年にロチェスターで行われたユニテリアン派の集会で行った講演からの抜粋です。ここで彼は、アメリカという国に住む、キリスト教を信じる人々が、なぜ戦争を始めるのか?人はなぜ、人を殺すのか?人はなぜ、人を憎むのか?この究極の問いに対し、彼はひとつの答えを示しています。
 それはキリスト教という宗教の教えがもつ本質的な問題点のせいかもしれない、と彼は考えます。
「現大統領(パパ・ブッシュ)も含めて、いまこの国で進行中のいわゆる宗教復興運動の指導者たちの倫理的宣言に耳を傾けた結果、わたしはそこから堅固な戒律をふたつだけ引き出すことができました。第一の戒律は・・・「考えるな」です。第二の戒律は・・・「服従せよ」です。「考える」と「服従せよ」・・・どちらの戒律にしても、それを喜んで受け入れることができるのは、地球上の生活を改善してゆく判断力を放棄した人間か、起訴訓練中の兵士だけです」

「その地域(キリスト教の支配地域)の人々は、愛することに全力をつくせと教えられました。そして、大部分の人々がそれに失敗しました。失敗している人の不思議があるでしょう?愛することはおそろしく難しいのです。・・・愛することに失敗し続けたとき、言語の論理によって、それでは憎まなくてはならないと、一見避けられない結論へ導かれるわけです。もちろん、憎悪のつぎの段階は自己防衛の幻想による殺人です」
「アメリカでは、それがカウボーイ物語の形をとります。気立てのいい、純粋な若者が、だれとも仲良くしたいという善意だけをいだいて、馬で町へやってきます。・・・だが、あっという間に、この愛情深い男は、べつの男と対決をせまられます。その男を愛することはとてもできない相談なので、カウボーイは相手を撃つしか選択の道がありません。キリスト教またもや失敗」


それでは、キリスト教徒ではないはずの日本人はなぜ、人を憎むのか?それは、我々が自分で考えるべきことでしょうが、日本人がドイツ人同様、「考えずに服従する」のが得意な国民性の持ち主だからかもしれません。

「アメリカ小児学会によると、平均的なアメリカの子供は、ハイスクールを卒業するまでにテレビで18,000件の殺人を見るそうです。その子供は、キリスト教が拳銃やライフル銃や散弾銃や機関銃で失敗を重ねるのを見てきたわけです。キリスト教がギロチンや絞首台や電気椅子やガス室で失敗を重ねるのを見てきたわけです。キリスト教が戦闘機や爆撃機や戦車や戦艦や潜水艦で・・・
 しかも、そのあとで、その少年または少女は、そのショーを見せてくれた連邦政府を含む各大企業への感謝を求められるのです。現代の大企業のように富裕で強力だった古代ローマ人も、そうしたショーを民衆によく見せていました。だから、変ったのはスポンサーだけです。
 初期キリスト教徒と同じように、みなさんは迷信と、完全なたわごとに支配された社会の一部です」

この本の最後に、彼はジャニス・ジョップリンの名唱で有名なクリス・クリストファーソンの名曲「ミー・アンド・ボビー・マギー」の歌詞を書き出しています。
「自由の別名は、失うものがないことだ」

 自らの命を失った彼は今や本当の意味で自由になりました。誰よりも神を理解していた彼は、今天国で神と対等に語り合っているのでしょうか?僕も近いうちに、その会話に参加できるのかもしれません。その時は、よろしくお願いします!

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