<我が文章の師>
カート・ヴォネガット、僕の文章術の師匠であると同時に「志し」の面での師匠でもあります。(スティーブン・キングとともに)昔、僕は彼の文章(もちろん翻訳されたものです)を、そっくりそのまま原稿用紙に書き写したり、気に入った部分を書き出したりして勉強させてもらったものです。そうやって書きためた数多くの文章は、今このサイトの<締めのお言葉>として大いに役立っています。
どうやらアメリカでは彼の文章が学校で文章教育のテキストとして使われているらしく、20世紀後半の作家としては最も多く教科書に載った人なのだそうです。元々評論家の間では、彼の文章を幼すぎると批判する人が多かったのですが、そんな子供っぽくてユーモアにあふれた文章だからこそ、多くの若者たちが彼の作品をいち早く理解してくれたのです。それは、絵画における「下手ウマ」(プリミティブな絵画)の文章版といったところでしょうか。(そう言えば、小説家の村上春樹も、カート・ヴォネガットから大きな影響を受けています)
彼のことを終末論者、厭世主義者と考えている方も多いようですが、彼自身は「かつて悲観論者だったが今は楽観論者だ」と言っています。けっして未来を暗くばかり考える作家ではありません。そんな精神面の変遷の歴史もまた僕にとって大いに参考になる部分でした。その意味では、師匠であると同時に、青春時代からの長きにわたる先輩とも言える存在かもしれません。
<歴史と伝統ある一族>
カート・ヴォネガットの父親カート・ヴォネガット・シニアは、ドイツからアメリカに渡った移民ファミリーの子として生まれています。中西部インディアナ州のインディアナポリスで金物を扱うチェーン店として財をなしたヴォネガット家は、街でも有数の名家でした。そんな恵まれた家系のもと建築家として活躍していた祖父の後を継いで建築家となったシニアは、1913年にやはり街の名家のひとつだったリーバー家の令嬢イーディスと結婚します。そして、1922年にその3人目として生まれたのがカート・ヴォネガット・Jr.でした。(彼は当時「K」と呼ばれていたそうです)こうして、大変裕福な家庭に生まれたヴォネガットでしたが、彼がものごころつく頃、時代は突然「大恐慌時代」を迎えてしまいます。
<大恐慌と戦争体験>
建築家だったシニアの仕事はばったりと途絶え、家族はそれまで蓄えた資産を食いつぶしながら生活してゆくことになります。おまけに父母ともに、それまでの豊かな生活から抜けきれず浪費を止められませんでした。そして父親は自分の息子が建築家を目指していることを知ると、それに大反対。自分の経験から建築家に未来はないと考えたようです。そこで、すでに化学者として成功していた兄の薦めもあり、彼もまた科学の道を目指すため、コーネル大学に進学しました。
しかし、ちょうどこの頃第二次世界大戦が勃発。その後真珠湾攻撃をきっかけにアメリカも参戦を決めます。そこで彼は当時多くのドイツ系移民が選んだ道、ヨーロッパで故国のドイツ民族を相手に闘うことを選びました。ところが、経済的な苦境と息子の戦場行きのショックに耐えきれず彼の母親は自ら命を絶ってしまいます。それは、彼が出征前に母親のもとを訪れる前日のことでした。大きなショックを受けた彼は失意のまま戦場へと向かいますが、そこでも過酷な運命が彼を待っていました。
彼は終戦間近のヨーロッパ戦線で闘わずしてあっという間にドイツ軍の捕虜になってしまいます。その後、彼はドレスデン市の精肉工場で強制労働に従事しますが、そこでアメリカ軍による絨毯爆撃にさらされることになりました。幸いその時彼は地下の巨大冷蔵施設にいたため命拾いをしますが、一歩地上に出た彼はそこで目を覆うような惨状を目にします。そこは原爆で焼き払われた広島に匹敵する焼け野原と化していたのです。(後にこのドレスデンの爆撃はヨーロッパ戦線における最大規模の悲劇であったことがわかります。彼はその数少ない目撃者だったのです)彼が体験したアメリカ軍によるあまりに残虐な殺戮行為、これが彼の作家活動の原点となります。正義の名の元に行われたはずの戦争も、実質は罪のない市民の虐殺の上に成り立っていたのです。
<「スローターハウス5」>
彼の出世作のひとつであり、後に名匠ジョージ・ロイ・ヒル監督によって映画化された「スローターハウス5」(1972年)は、この時の彼の体験をもとに書かれました。この映画化作品は隠れた名作のひとつです。原作者のヴォネガット自身もこの映画のできに満足しており、「小説家として私とマーガレット・ミッチェルだけは、自分の作品を映画化した監督に感謝しなければならないだろう」と述べています。もちろん、マーガレット・ミッチェルとは「風と共に去りぬ」の作者です。ビデオ化はされているので、是非一度ご覧下さい。同じジョージ・ロイ・ヒル監督の「ガープの世界」に匹敵する傑作です。
<科学者としてのスタート>
終戦後、アメリカに戻った彼はコーネル大学を卒業すると、ジェネラル・エレクトリック社に就職。そこで広報の仕事につきます。その仕事は高校、大学ともに学内新聞の編集を勤めていた彼にとって、化学の研究者として働くよりも向いていたようです。こうして、彼は世界有数の先進科学企業で働く優秀な科学者たちと知り合う機会を得ることになりました。
この頃出会った科学者たちのイメージをもとに、後に彼が書いた作品が、優秀ではあっても常識に欠けたある科学者が発明した物質「アイス・ナイン」が世界を凍らせ終末へと導いてしまうというブラック・ユーモアSF小説「猫のゆりかご」です。
<サラリーマン作家のデビュー>
こうしてサラリーマンとして働きながら、彼はしだいに作家としての道を目指すようになります。そして、手始めに短編小説を書き始めた彼は、それをSF系の雑誌に送り始めます。(ちなみに、それは彼がSFのファンだったからではありませんでした。作品発表の場としての条件が、当時最も良かったのがSF雑誌だったからです。彼は元々SF小説を書こうとしていたわけではないのです。といっても彼がSFという小説ジャンルを愛していることも確かですが、・・・)
ある時雑誌「コリアーズ」の編集者ノックス・バーガーが、彼の作品に目をとめ、まったくの自己流だった彼の文章にアドバイスを与えながら、作家デビューの機会を与えてくれました。
こうして発表された記念すべきデビュー短編「バーンハウス効果に関する報告書」は、今思うと実に彼らしい作品です。(初期の短編集「モンキーハウスへようこそ」に収録されています)
「サイコロの目を自由に操る方法を身につけた青年が、その能力を高め、うまく使うことで世界の平和を築くことができるのではないかと考え、まったく新しい人生に向かって一歩を踏み出す」
理想主義的で青々としたこの作品には、すでにヴォネガットの平和に対する信念が込められていました。
<本格的作家デビューへ>
この後、彼は何編か短編小説を書き上げた後、サラリーマンを止め、本格的に作家として活動し始めます。こうして、ケープコッドに居を移して書き上げられた初の長編小説が「プレイヤー・ピアノ」(1952年)でした。その後、1959年には「タイタンの妖女」を発表しますが、SFファンの一部にしか受け入れられず、非SF小説の「母なる夜」は、ほとんど話題になりませんでした。
しかし、1960年代に入ると、少しずつ時代の流れが変わり始めます。ウッドストック世代の登場と共に新しい芸術文化の発信源として学生の存在が浮上します。そして、そんな彼らが飛びついたのが、1963年に発表されたヴォネガットの代表作のひとつ「猫のゆりかご」でした。
<ロック世代のカルト文学>
わかりやすい文体とタブーを無視した言葉の使い方、そして何より宗教、政治上の権威を徹底的に否定した思想が若者の心をしっかりと捕らえた内容によって、彼は同時代のカルト作家の仲間入りをすることになりました。
非SFの心温まる作品「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」も好評で、いよいよ彼の人気は若者のカルトSF作家の枠をも越えるようになりました。そして、彼の代表作「スローターハウス5」が発売され、平和を願う彼のメッセージが多くの人の心を捕らえるようになります。
<坑内カナリヤ芸術論>
彼の考え方を象徴するものとして、彼独特の理論「坑内カナリヤ芸術論」があります。それはかつて炭坑労働者たちが坑内に漏れ出す有毒ガスをいち早く感知するための手段として、カナリヤを入れたカゴを持ち込んでいたことから生まれた考えです。
カナリヤは繊細な生き物のため、有毒ガスがほんの少しでも漏れ出すと、人間が気づくよりも先に死んでしまうのだそうです。ヴォネガット曰く、芸術家もこれと同じで、身の回りで起きつつある危険を察知して、バッタリと気絶することで危険を知らせるのが、その使命だというのです。もちろん、芸術家は気絶する前に「作品」という形で後続の人々にその危険を知らせなければならないわけです。
<夫婦生活の破綻>
こうした彼の姿勢は、その後も変わることなく貫かれますが、そんな彼もまた時代の変化によって少しずつ暗い方向へと押し流されてゆくことになります。
当時ビートルズやストーンズのメンバーなど、多くのアーティストたちが信頼を寄せ、その弟子となったインドの思想家、マハリシ・ヨギの存在も、彼の運命を大きく変えました。
ヴォネガットの妻ジョインもまたマハリシ・ヨギの思想にはまってしまいます。家族代々無神論者であり、怪しげな権威を否定してきた彼にとって、それは大きなショックでした。(ビートルズのメンバーも、後にヨギの存在を否定するようになっています)その後、二人の関係は修復することができず、離婚という最悪の結末を迎えました。
<ユートピア、ビアフラの崩壊>
同じ時期、彼は作家としてできる平和活動として、1970年に戦乱のど真ん中にあった西アフリカのビアフラに招待され、そこで取材活動を行いました。
1967年にナイジェリアからの独立を宣言したものの、ナイジェリアだけでなくソ連やイギリスからも攻撃を受け、わずか3年でその歴史に終止符をうった悲劇の国ビアフラ共和国。ナイジェリアの3大部族のひとつ、イボ族によって築かれたビアフラを、ヴォネガットはある種のユートピアと考えていました。
血のつながった親族全員が家族としての協力関係を築き、お互いに助け合う独自の文化をもつビアフラの人々の暮らしは、ヴォネガットに大きなインスピレーションを与えます。後に彼は彼らの文化をもとに新しいユートピアのイメージを膨らませることになります。しかし、彼はそんな素晴らしい文化をもつ国が世界中から無視され、飢えさせられ、消滅させられてゆく現場を目撃することになりました。彼はこの国が崩壊する姿を最後まで見とどけ、ビアフラ発の最後の民間機に乗って脱出します。そして、この経験が、彼の作品をしだいにシニカルなものへと変えてゆくことになります。
<息子の精神分裂病>
彼の息子マークが精神分裂症という心の病におかされたのも、この時期でした。後に彼は薬物治療によって無事病を克服。その体験を作品(「エデン特急」)として発表。その後は、医学部に入学し、医療の道へと歩みだしました。
しかし、1970年代当時の彼は息子の入院により、すっかり落ち込んでいたようです。1974年に発表された彼の雑文集(講演録、エッセイ、評論、インタビューなど)「ヴォネガット、大いに語る」には、そんな時期の彼の思いが記録されています。
<不調期、自己採点>
そんな精神状態が影響したのか、この時期の彼の作品には、デビュー当時のパワーがなく、明らかに精彩を欠く内容になっています。このことは、この後1981年に彼が発表した雑文集の続編「パームサンデー - 自伝的コラージュ Palm Sunday」における自分の作品に対する自己採点にも現れています。
70年代前半までの初期の短編小説を集めた区切りの作品集「モンキーハウスへようこそ」までの作品には、AかBの評価を与えているのに対して、それ以後の作品にはCとDの評価しか与えていないのです。(「ジェイルバード」だけが例外でA評価を得ています)
それにしても、発売中の自分の作品をあえて自己採点してしまうなんて、なんと彼は正直者なのでしょうか。そう言えば、彼はこう書いていたことがあります。
「・・・いずれにせよ肝心な問題は、私たちが米国芸術院で学んだように、真理を語ろうとする当人が相手に正直な印象を与えるか否かです」
「ヴォネガット、大いに語る」より
正直者に幸あれ!
<復活と再婚>
その後、彼は彼の写真を撮り続けていた写真家のジル・クレメンツと再婚します。この結婚は、彼に活力を甦らせ、作品の数こそ少なくなったものの、ユーモアと楽天性をもった新しい作品が生まれることになります。
さて、ここで僕が思いついた彼についてのキャッチ・コピー並べてみたいと思います。みなさんにとって、彼はどんな存在でしょうか?
(1)「テレビによる人類総白痴化計画阻止運動広報担当」
「映画やテレビは、本を読もうとしない人、読めない人、そして想像力に欠ける人にとって、うってつけの処方箋です。そういう人たちは想像力がない代わりに、今や俳優や景色を・・・適当な音楽をつけて・・・見せてもらえるのです。・・・」
「パームサンデー」より
(2)「アルコールによる人類総白痴化推進委員」
「百万年前、なぜあんなに大勢の人間が、わざと自分の脳の大部分をノックアウトするためにアルコールを飲んだのかは、今も興味のつきない謎として残っている。ひょっとすると、われわれは進化を正しい方向へ押しやろうとしていたのかもしれない・・・より小さい脳という方向に。・・・」
「ガラパゴスの箱舟」より
(3)親切第一主義の楽天的ヒューマニスト」
「そして、みんなに言ってほしい」と、彼はふたたび口をひらいた。
「生めよ、ふえよ、とな」
「こんちくしょう、人間は親切でなきゃだめだよ」
「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」より
(4)「多人数家族による民族社会への回帰をめざす家族の会代表」
「わたしたちは、ちょうど魚がきれいな水のなかで生きるように化学的に操作されている。にも関わらず、もはやわれわれの属すべき民族社会は存在していないのです。・・・」
米国芸術協会における講演より
(5)絶滅寸前のユートピア作家
「人々が生涯ひとつの共同社会にとどまり、たとえそこから世界を見るために遠く旅立つにしても、必ずまたそこへ帰ってくることを望みます。それでこそ心の安らぎがあるのです。・・・」
自己変革は可能か(プレイボーイ・インタビュー)より
(6)「地球環境を改善する行為を善とする地球環境保護絶対論者」
「わたしたちは最初から、<この惑星の生命維持組織に加えるどんな傷もほとんど永久に治療不能である>という科学的事実を認識しておく必要があるでしょう。この惑星を傷つけておいて、あとからそれを治すふりをする人間は、まさしく偽善者だということになります。・・・」
「所有が孤独の穴埋めになるかどうかの実験は、人類の歴史を通じて最も豊かなこの国で行われてきました。物を所有すれば、少しは助けになりますが、宣伝文句ほどではありません。それに、今わたしたちは、そういう生産物の一部が製造過程においてこの惑星をどれほど恒久的に痛めつけているかを知っています」
「パームサンデー」より
(7)「敗北者を愛するアンチ・ダーウィニスト」
「『敗北者は幾多の宗教を有しており、その多くは泣く者と共に泣く宗教である』と、わたしはことばをつづけるだろう。『勝利者の唯一の宗教は、冷酷に解釈されたダーウィニズムであり、それは、最適者のみの生存こそ宇宙の意志であると主張する』」
「ハーパーズ」掲載の文章より
(8)「才能なき物書きの心のオアシス」
「凡庸な文筆家でも、忍耐強く、勤勉でさえあれば、自分の愚劣さを改訂したり、編集しなおしたりして、ひとかどの知性らしきものに仕立て上げることを許されます。・・・」
「パームサンデー」より
(9)「相対論的文化人類学者」(彼はシカゴ大学で文化人類学を学んでいます)
「・・・もうひとつ、ぜひ教えてやりたいのは文化の相対性です。わたしは大学に入ってはじめて他のあらゆる文化のことを学びましたが、小学一年生のときに学んでおくべきだったと思います。・・・」
「ヴォネガット、大いに語る」より
(10)「社会学を優先する先駆的SF作家」
アイザック・アシモフは、SFの進化について、こう述べています。
<1>冒険優位の時代
<2>科学技術優位の時代
<3>社会学優位の時代
さて、最後に彼の望む夢について記して終わりにしたいと思います。
「最後の審判の日に、神に向かって『わたしは、あなたを信じてはいませんでしたが、とてもいい人間でした』と言えるように生きよ!」
「パームサンデー」より
素晴らしき無神論者に神の祝福あれ!
<追悼>
2007年4月11日、84歳で彼は亡くなりました。とりあえず、このどっちかというと悪い選択ばかりを繰り返してきた世界からは、去っていったわけです。
しかし、別の世界、別の時間で彼は生き続けていることでしょう。もちろん、本の中でも、・・・。とはいえ、せめてブッシュが大統領の座を追われるニュース映像ぐらいは、彼に見せてあげたかった。残念。
師匠、嫌な世の中でしたが、少しは楽しめることもありましたか?まずはお疲れ様でした。天国の神様によろしくお伝え下さい!それから調子に乗って、そちらで飲み過ぎないようにして下さい。
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続編「ヴォネガットより、20世紀への手紙」 最終編「国のない男に永遠の安らぎを!」