世界を魅了したグランプリ女優


- 京マチ子 Machiko Kyo -

<グランプリ女優>
 かつて日本には、「グランプリ女優」と称される女優がいました。ヴェネチア国際映画祭でグランプリを獲得した黒澤明監督の「羅生門」の主演女優、京マチ子です。当時、日本映画の魅力を世界に広めた名作「羅生門」、「雨月物語」、「地獄門」は、3作品とも監督は異なりますが、主演女優はいずれも彼女でした。(黒澤明溝口健二、衣笠貞之助)当然、彼女は世界中の映画ファンにとって、日本女性を代表する存在となりました。そして、日本の映画界も、彼女を海外向けの顔として主役に抜擢するようになります。こうして、彼女は「グランプリ女優」と呼ばれるようになりました。
 しかし、彼女の栄光は日本映画界の黄金期とともに終わりを迎えることになります。日本を代表する女優として、日本女性の「顔」ともなった京マチ子について調べてみました。

<松竹少女歌劇団から>
 京マチ子(本名:矢野元子)は、1924年3月25日大阪で生まれています。1936年、彼女は子供の頃から憧れていた松竹少女歌劇団(OSSK)に入団。女性ばかりの世界にいた彼女が映画に出演したのは、1944年、歌劇団からの指示によるもので嫌々ながらの出演だったといいます。(井上金太郎監督の「天狗倒し」でした)
 同年彼女は巨匠、溝口健二の「団十郎三代」にも出演。いっきに映画女優の道に進むところでしたが、戦況の悪化により、彼女は映画ではなくOSSKとしての慰問活動が中心となります。戦後は、大阪松竹歌劇団(OSK)の中心メンバーとなりますが、将来の事も考えた彼女は映画界入りを決断。大映と契約し、映画界入りを果たします。

<映画女優への転身>
 1949年、彼女は大映でのデビュー作となった安田広義監督の「最後に笑う男」に出演。サーカスの踊り子というOSKでの経験を生かせる役どころで実力を発揮。木村恵吾監督の「花くらべ狸御殿」(1949年)も、ミュージカル作品ということで彼女にぴったりの作品でした。同年、彼女は同じ木村恵吾監督の「痴人の愛」に出演。宇野重吉、森雅之と共演した彼女は、谷崎潤一郎が創造したセクシーな役柄を熱演。これにより彼女には「肉体派女優」というレッテルが貼られることになりました。当然、これは彼女にとって迷惑なレッテルだったのですが、すぐに彼女は演技派女優として、新たな評価を得ることになります。
 幸いなことに、彼女は人気女優ではあっても、性格のおおらかさから周囲の人、ファンたちに愛される存在であり続けました。このことは、生涯変わることがなく、それが彼女の生涯に渡る人気を支えることになります。「肉体派」というレッテルも、彼女の場合、その性格からいやらしさは感じられなかったようです。

「京マチ子は、よりモダンで、より明るかった。豊満で肢体を無邪気に誇示するおおらかさがあった。・・・彼女の『肉体美』は戦後社会の明るさ、開放感の象徴だった」
川本三郎

<名作への出演>
 1951年、彼女は吉村公三郎監督の「偽れる盛装」(脚本:新藤兼人)に出演。たくましく生きる現代的な女性芸者を演じた彼女は、演技派女優として高い評価を受けることになります。しかし、彼女の名前を知らしめることになったのは、なんといってもこの年公開された黒澤明監督作品「羅生門」です。
 この映画に出演するため、彼女がテストの時に眉毛をそって現れた話は有名です。元々目鼻立ちがはっきりした日本人離れした彼女の顔立ちを平安時代風に見せるための工夫に黒澤も脱帽。この作品は黒澤の他の作品以上に主人公は多様な人格を演じ分ける必要がありました。(この映画の物語は、異なる証言者が語ることでそれぞれ異なるものになり、登場人物の人格も変わることになります)
 彼女はこの大役を見事にこなしましたが、その作品がまさかヴェネチア国際映画祭で日本映画初のグランプリを獲得することになるとは、誰もが驚きでした。(当時は日本の映画関係者ですらこの映画祭のことを知らなかったのですが・・・)彼女はこの年、上記2作品での演技によって毎日映画コンクール女優賞を受賞。国内でも演技派として高く評価されることになりました。
 その後も、彼女は巨匠たちの作品で活躍を続けます。
1951年、吉村公三郎の「自由学校」
1953年、溝口健二の「雨月物語」
1953年、成瀬巳喜男の「あに・いもうと」、衣笠貞之助の「地獄門」
1954年、木村恵吾の「愛染かつら」
1955年、溝口健二の「楊貴妃」
1956年、溝口健二の「赤線地帯」

<海外での活躍>
 これらの中でも、「雨月物語」はヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得。「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプリを獲得。出演作品が次々に世界的な賞を獲得することで、彼女はいつしか「グランプリ女優」と呼ばれることになりました。そうなると、当然彼女には海外からも出演のオファーが来るようになりましたが、まだハリウッドなど夢の夢だった時代。彼女は太平洋を渡ることなど考えられず、オファーを断り続けたようです。
 1957年、周囲からの要請もあり、断りきれなくなった彼女は、ダニエル・マン監督のアメリカ映画「八月十五夜の茶屋」に出演。あのマーロン・ブランドと共演しました。この映画の撮影は当初、奈良に作られたオープンセットでの撮影が行われる予定でした。しかし、梅雨入りにより予定の撮影を行うことができなくなり、結局彼女はハリウッドでの撮影に参加することになりました。

<名匠のもとで>
 帰国後も、彼女は名作に数多く出演します。
 吉村公三郎は、「夜の蝶」(1957年:共演は山本富士子)、「夜の素顔」(1958年)など多くの作品で彼女を使い、お気に入りの女優として彼女を高く評価していました。
 市川崑の「穴」(1957年)、「鍵」(1959年:原作は谷崎潤一郎)で彼女を使いましたが、「鍵」はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得しています。
 小津安二郎も、大映に招かれて彼女を「浮草」(1959年)で使っています。厳しいことで有名な小津監督ですが、さすがに彼女に対してはダメ出しをあまりしなかったようです。
 田中絹代の監督作品「流転の王妃」(1960年)は、独立プロダクションの作品でしたが、彼女はあえてこの作品に出演しています。
 増村保造監督の「女の一生」(1962年)。
 豊田四郎監督の「甘い汗」(1962年)は、彼女にとって初のメジャー他社である東宝の作品で、この作品で彼女はキネマ旬報女優賞などの女優賞を獲得しています。
 勅使河原宏の「他人の顔」(1964年)は原作が安倍公房という前衛的な作品でした。

<映画黄金期の終わり>
 1960年代に入り、日本映画の黄金時代が終わると、彼女は映画だけでなくテレビ・ドラマにも出演するようになります。そして、大映が倒産したことにより、出演作品が激減することになります。それでも、増村保造監督の大作映画「華麗なる一族」(1974年)や「金環蝕」(1975年)などに出演。さらに山田洋二監督の「男はつらいよ・寅次郎純情詩集」(1976年)にマドンナ役で出演するなど、大物女優として活躍を続け、1984年には記念すべき100本目の作品として「化粧」に出演しています。21世紀に入って80歳を過ぎてもなお、舞台に上がり続けています。
 かつては、大映の社長、永田雅一との恋の噂もあったようですが、生涯彼女は独身を通しました。
 日本映画界の黄金期と日本映画の世界進出両方の象徴となった彼女は、21世紀まで生きた数少ない昭和の大女優となりました。

「戦後の女優っていうと、オレは京マチ子だと思ったね。・・・彼女の肉体は一種開放的な、新時代を予感させるような・・・」
荒木経惟

<参考>
「銀幕の昭和 スタアがいた時代」
 2000年
(著)井上理砂子、板倉宏臣、中澤まゆみ
(編)筒井清忠
清流出版

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