<映画の原作と背景>
この映画の原作は、1959年から雑誌「母と子」に一年間掲載された小説がもとになっています。著者の早船ちよは共産党員で、映画の重要なテーマとして「組合」が扱われています。そして、もうひとつのテーマとして重要なのが、北朝鮮への帰国運動です。
この運動は1986年の半ばまで続き、その間に1万人近い在日朝鮮人が北朝鮮へと帰国。その中には2000人近い日本人妻もいたといわれています。当時、北朝鮮への移住は、イスラエルに向かうユダヤ人のようにある意味理想化されていて、その後、悪夢のような状況が訪れることになるとは誰も思ってはいませんでした。それだけに、この映画に登場する帰国者たちの旅立ちの場面には複雑な思いを感じずにはいられません。
なお、この映画には続編もあり、野村孝監督により「未成年 続・キューポラのある街」として1965年に公開されています。そこでもまた北朝鮮への帰国が肯定的に描かれているようです。
この映画のタイトルにある「キューポラ」とは鉄を溶かして型に流し込む鋳物工場の象徴的存在でもある「鉄の溶解炉」のことです。この映画には、こうしたキューポラのある工場だけでなく、学校、ダンスホール、街の酒場、パチンコ店、川口の駅前など、当時の街の様子を今に伝える様々な場所が登場。そうした風景を見ているだけでも、懐かしかったり、興味深かったりして、飽きることがないはずです。
<時代を越えた名作>
改めてこの作品を見ると、差別用語など放送禁止用語ともいえる言葉や汚い言葉使い(今なら)が非常に多く使われていることに驚かされます。もう一度、この映画をリメイク作として撮るとしても当時の言葉を再現をすることは絶対に無理でしょう。もちろん北朝鮮の描き方も違ってくるはずです。
そう考えると、時代の風俗を正確に描いた作品は歴史の流れによって、古くならざるを得ないものの、その歴史的価値は決して失われないことに気づかされます。それぞれの時代に生きた人々をしっかりと描いておけば、たとえ歴史認識が変わったとしても、その作品の歴史記録、人間描写としての価値は時代を越えることが可能である。この映画はそんなことを教えてくれる作品でもあります。
特にこの映画の中で印象に残る場面をあげると、
(1)悪童二人組みカンキチとタカユキの別れの場面は、思想も時代背景も文化も越えた普遍的な感動をもたらしてくれます。
(2)北朝鮮に行ったはずのカンキチが帰って来たら、母親が行方不明になっていて彼が途方にくれる場面。可笑しくて悲しくて実にリアリティーのあるエピソードです。
(3)いつも二人が盗んでいた牛乳を配達していた少年にカンキチとタカユキが「お前たちのおかげで母ちゃんの薬が変えないんぞ!」と泣かれて、二人がしょんぼりしてしまう場面。
(4)最後の最後に、再び鉄橋からジュンとタカユキがカンキチを見送る場面。
大人たちの場面よりも、なぜか子供たちの場面の方が印象に強く残るのは、監督の子供時代への思い入れがより深く刻み込まれているからなのでしょうか?
フランソワ・トリュフォーは田山力哉氏のインタビューでこう語っています。(追記2016年7月)
「『キューポラのある街』がカンヌで賞をとらなかったことは残念だが、私自身はこの映画価値を高く買っている。賞をとらなかったのは、カンヌの審査員たちが怠けていたからだ。レセプションだとか、そういうことばかりで、くたびれてしまい、肝心の映画を十分見ることもできなかったようだ。それに、一つのテーマを強く押し出した作品、例えば新藤兼人の『裸の島』のようなものだったら、もっと理解してもらえただろうけれども、フェスティバルでは『キューポラのある街』のように、非常に豊かなテーマを持ち、非常にレアリストな映画というのは、かえって評価され難いのだ。この映画には実にいろいろな問題が入っていると思う。少年少女の問題、成人の問題、どれをとってみても十分大きな問題に発展する可能性を含んでいると思う。何よりもこの作品に心打たれたのは、作品の底に流れている作者のセンシビリティということだ。・・・」
<浦山桐郎>
この映画の監督、浦山桐郎は、1930年5月14日兵庫県相生市で生まれました。母親が出産時に亡くなってしまった後、母親の妹が父親の後妻となり、彼を育てました。しかし、父親もまた彼が旧制姫路高校に通っていた時に原因不明の自殺を遂げてしまいます。こうした、生い立ちのおかげでしょうか。両親を失った彼にとって、「家族」は最も重要な存在となりました。その後映画監督になった彼は、この映画のように「家族」や「親子」をテーマとした映画を中心に撮り続けることになります。父親を亡くした彼は、母親とともに彼女の故郷、名古屋へと引越し、そこで名古屋大学の文学部に入学。卒業後の1964年、彼は松竹の助監督試験を受けます。ところが筆記試験の成績は良かったものの、身体検査で不合格となってしまいます。この時、試験官だった鈴木清順の勧めで彼は日活の入社試験に挑戦します。残念ながらその試験に彼は不合格となります。ところが、合格者の一人が補欠で松竹への入社が決まったため、枠に空きができ、彼にすべりこみで合格通知が送られてきました。ちなみに、この時、松竹に補欠で入社した人物とは、後に「男はつらいよ」などの作品と撮ることになる山田洋次でした。
入社後、彼は川島雄三監督のもとで助監督のひとりとして働きながら映画の勉強をし、特に当時チーフ助監督になっていた今村昌平からは直接多くのことを学び、彼の脚本を得て、デビュー作となった「キューポラのある街」の撮影に入ります。
<監督デビュー>
新人監督が撮ったにも関わらず「キューポラのある街」はキネマ旬報社の年間ベスト10の2位になるなど、高い評価を得ると同時に大ヒットとなり、一躍彼は時代を代表する監督の仲間入りを果たします。
「キューポラのある街」 1962年
(監)(脚)浦山桐郎
(原)早船ちよ
(脚)今村昌平
(撮)姫田真佐久
(音)黛敏郎
(配)日活
(出)吉永小百合(ジュン)、浜田光夫(塚本)、市川好郎(タカユキ)、東野英次郎(父)、杉山徳子(母)、吉行和子、加藤武(スーパーマン野口)、森坂秀樹(辰五郎)
<あらすじ>
鋳物の街、埼玉県川口市に住む主人公ジュン(吉永小百合)の父親は、経営不振の会社によるリストラで職を失い、組合による救済も断ってしまいます。一家を支えるため母親(杉山)は居酒屋で働くようになり、高校受験をひかえていた彼女も進学をあきらめ、パチンコ屋でバイトを始めます。学校をさぼってばかりの弟(市川)は、朝鮮人の友だちカンキチといたずらばかりしており、ついには泥棒の手伝いまでさせられてしまいます。いつも明るく元気だったジュンも、そうした苦しい生活に嫌気がさしてしまい、修学旅行をサボってダンスホールに遊びに行き、そこで危うく強姦されそうになります。この時、彼女を助けてくれた近所に住む幼馴染の塚本、働きながら定時制高校に通うことを勧めてくれた中学の担任野口、家族とともに北朝鮮へと帰国することになった同級生など様々な人の助けや出会いによって、再び彼女はやる気と元気を取り戻すことができました。
この映画での朝鮮人の扱いについて、彼はこう語っています。
「まず、なつかしかったんですよ。子供のとき、いっしょに遊んだ朝鮮の少年がどうしているのかと、実になつかしくて・・・。ぼくの少年期で何かが残っているとすれば、それは朝鮮の少年の思い出です。みんな日本に奴隷として売られてきた農民の子供なんですね。やっぱり朝鮮人の子がいることが、この映画の非常にやりたいと思った最大原因だったと思う。だからプロットを会社へ提出したときも、朝鮮人を削れといわれたらやめようと思っていた」
田山力哉「日本の映画作家たち 創作の秘密」より
<今村昌平と吉永小百合>
この映画の脚本を浦山とともに共同で書いたのは、日本を代表する巨匠今村昌平です。1954年に日活に松竹から移籍してきた今村昌平とは同期入社ですが、すでに映画界での実績があった今村は川島雄三の助監督となっていて、浦山はその下についていました。そして、今村が監督に昇進すると彼は助監督に昇進し、「果てしなき欲望」(1958年)、「にあんちゃん」(1959年)、「豚と軍艦」(1961年)の撮影に参加。在日朝鮮人家族の生活を描いた今村昌平監督の「にあんちゃん」は、ある意味「キューポラのある街」の姉妹編ともいえる作品でした。
日本人の欲望をユーモアをまじえてリアルに描く今村昌平ならではの描写により、それまで清純派アイドル女優でしかなかった吉永小百合は一躍演技派女優として開眼することになります。彼女はこの映画によって初めて女優としての陰影を与えられ、大人の女優としても認められることになりました。とはいえ、彼女にはその若さゆえにまだまだ危なっかしさが感じられ、そこが世の中の多くの男性たちの心をつかんだともいえます。「サユリスト」という言葉は、この映画以降に誕生し、いよいよ吉永小百合の時代が始まることになります。
<吉永小百合>
吉永小百合は、1957年にラジオ・ドラマ「山犬少年」、「赤胴鈴之助」でデビュー。この時彼女はまだ小学校6年生でした。同じ年の10月にテレビ版「赤胴鈴之助」に出演した彼女は日活と契約し、1959年「朝を呼ぶ口笛」で映画デビュー。翌年、中学を卒業した彼女は、駒場高校の普通科に入学。この映画の主人公同様、彼女もまた成績優秀な少女でした。しかし、女優の仕事があまりに忙しかったこともあり、私立の女子高に転校するものの結局出席日数が足りずに高校を中退してしまいました。この映画に出演したのは、ちょうどこの頃、高校に通っていた頃だったようです。
この映画が公開された1962年は、彼女にとって最も忙しい一年だったかもしれません。「キューポラのある街」に出演した後、彼女はビクター・レコードから「寒い朝」で歌手デビューを果たします。すると、その曲はいきなり20万枚を売り上げる大ヒットとなり、続く橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」はそれ以上の大ヒットとなり、年末にはレコード大賞まで受賞することになります。さらに、この年彼女はイタリアのミラノで行われたミラノ国際見本市に佐久間良子、岸恵子らと出席するためヨーロッパを訪問する旅に出かけています。(当時の海外旅行はちょっとした冒険でした)
これだけ忙しい日々を送りながら、彼女はしっかりと勉強もしていたようで、1965年、彼女は高校卒業の資格をとって、早稲田大学に入学しています。(その後、彼女は早稲田大学二文の西洋史学科を次席で卒業しています!)こうして、彼女はこの映画の主人公ジュンそのままに人生を力強く歩み出してゆくことになります。
<浦山桐郎、その後の作品など>
その後も彼は監督として活躍を続けますが、その完ぺき主義が災いし残念ながらその作品数は多くはありません。しかし、その少ない作品の質は非常に高く名作ぞろいといえます。
「非行少女」 1963年
(監)(脚)浦山桐郎
(脚)石堂淑朗
(原)森山啓
(撮)高村倉太郎
(音)黛敏郎
(配)日活
(出)和泉雅子、浜田光夫、小池朝雄、小沢昭一
「キューポラのある街」でもタカユキが覗き見して怒られていた厚生施設を舞台に非行少女(和泉)が生きる意味を見つけるまでを描いた感動作。主役の和泉雅子は、この作品で女優として開眼し、その後活躍し続けることになります。
「私が棄てた女」 1969年
(監)浦山桐郎
(脚)山内久
(原)遠藤周作
(撮)安藤庄平
(音)黛敏郎
(配)日活
(出)河原崎長一郎、浅丘ルリ子、小林トシ江、加藤武
60年安保に挫折した青年が、人生の目標を出世に代え、再び人生を歩み出し、それまで付き合っていた女性を棄てるという悲劇的な愛の物語。学生運動の終焉により生きる目標を失いつつあった若者たちの苦悩を描いた60年代末ならではの作品。完成まで5年の歳月をかけながら、日活は内容が政治的で暗すぎるとして公開を拒否します。しかし、この作品を試写で見た評論家たちが公開を求める運動を起こし、ついには公開にこぎつけたという因縁の作品でもあります。浦山監督自身は、この映画への思い入れが深く、自分にとって最高傑作であるという思いがあったようです。
「私を棄てた女」の公開問題で日活経営陣と対立した彼は、それを機に日活を退社。しかし、独立はしたものの、それ以後6年間映画を撮ることができない期間が続きます。しかし、1975年五木寛之のベストセラー小説「青春の門」の東宝による映画化で監督に抜擢され、見事に復活を果たします。この作品の続編となる「青春の門・自立編」(1976年)も大ヒットとなりました。なお、この映画で彼は吉永小百合、和泉雅子に続き大竹しのぶを一躍スターダムへと押し上げています。
完ぺき主義でなかなか映画を撮らなかった彼は、その分どの作品も質が高く、テレビの演出においてもその凄さを発揮していました。その代表作が僕も大好きだったテレビ・スペシャル作品「飢餓海峡」(1978年)です。彼の師匠、今村昌平が企画したこの作品は全8回の大作ドラマでしたが、彼はそのうち5作を演出しています。テレビとは思えない質の高い大作でした。当時、僕は彼が監督していたとは知らなかったのですが、今でもあのシリーズが素晴らしかったことを憶えています。(真野響子が良かった!)
1980年、彼は独立プロとして初の作品「太陽の子・てだのふあ」(原作は灰谷健二郎)を監督。少年少女のために撮った作品の後、1983年には古巣の日活で大人向けのロマン・ポルノ作品「暗室」を監督しています。(日活創立70周年記念作品)
1985年には、「キューポラのある街」以来、久々に吉永小百合を主役に向かえ、彼女の大ヒットテレビシリーズ「夢千代日記」の映画化で監督を務めました。しかし、この作品の完成後、10月20日、日活の先輩であり、彼の恩人でもある鈴木清順監督の還暦祝いの会で突然倒れ、そのままあの世へと旅立ってしまいました。死因は急性心不全でした。
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