「ダブ・ミュージックの誕生」

- リー・”スクラッチ”・ペリー Lee "Scratch" Perry -

<世界最速進化の音楽レゲエ>
 世界のポップスの中で、レゲエほど急激に進化をとげ、かつ世界中に広がった音楽は他に類をみないかもしれません。それには、いくつかの理由が考えられます。しかし、なんと言っても、レゲエの故郷、ジャマイカの位置と大きさ、その歴史がポイントだと言えそうです。
 ジャマイカは、カリブ海の島々の中でも数少ない英語圏の島です。そのうえアメリカにも近く、ニューオーリンズを中心とするR&Bの影響が、ラジオの電波を通して、常に流れ込んでいます。さらに、面積が狭い分、文化的な影響が広まりやすい地域でもあるのです。(首都キングストンへの一極集中のせいとも言えます)ですから、1960年代、スカタライツなどを中心とするスカ・ブームの時には、ジャマイカ全土があっという間にスカ一色に染まってしまいました。そして、その変化の早さは、その後もずっと続いており、それがレゲエの魅力を生み出す元になっているとも言えそうです。

<リー・スクラッチ・ペリー登場>
 50年代の終わり頃、リー・ペリーは、当時ジャマイカで人気ナンバー1だったサウンド・システム「ダウン・ビート」の主催者、コクソン・ドッドに雇われました。彼は、コクソン・ドッドの元でDJ、レコード制作だけでなく、曲作りやアレンジまでも手がけ、「チキン・スクラッチ」というダンス・ナンバーをヒットさせ、「スクラッチ」という愛称をえました。リー・スクラッチ・ペリーの誕生です。

<スカ時代の活躍>
 1968年に、彼は独立を果たし、翌1969年には自らのレーベル「アップ・セッター」を立ち上げます。そして、このレーベルから、彼は次々にインストロメンタル・ナンバーを発表し始めます。「リターン・オブ・ジャンゴ」「ザ・ヴァンパイヤ」など、B級映画っぽいR&Bくずれでレゲエっぽいナンバーは、何故かイギリスのスキン・ヘッズの連中に大受けします。後に、1970年代にはいりパンクとレゲエ、スカがスペシャルズ、マッドネス、クラッシュなどによって、ひとつになっていった下地はすでに、この頃からできつつあったのです。

<プロデューサーとしての活躍>
 彼はこの頃からプロデューサーとしても活躍を始め、数多くのアーティストたちを育てるようになっていました。そんな仕事の中でも、間違いなく最も重要だと思われるのが、ボブ・マーリーが所属していたザ・ウェイラーズを育てたことと、彼らを最高のリズム・コンビ、バレット兄弟に引き合わせたことでしょう。リー・ペリーは、当時自分のバック・バンド「アップセッターズ」のリズム・セクションを担当していたバレット兄弟を、売り出し中だった若手コーラス・トリオ、ザ・ウェイラーズのバックにつけてやったのです。そして、これがあのボブ・マーレー&ザ・ウェイラーズの原型となったのです。当時最高のコーラス・グループだったボブ・マーレー、バーニー・ウェイラー、ピーター・トッシュの3人にバレット兄弟の強靱なリズムが加わることにより、数年後に世界を制覇する最強のレゲエ・バンドが生まれたのです。

 ポップのリスナーは、ヒーローやアイコンを求める。しかし、レゲエ界ではおそらく世界のどんな音楽よりも、裏方で音楽に関わるスタジオ・プロデューサーや、サウンド・システム・セレクターにも特権が与えられていた。そして70年代、プロデューサーやセレクターが、ジャマイカの動力源として台頭したのである。
ジェフ・チャン著「ヒップホップ・ジェネレーション」より

<ダブの登場でいよいよ本領発揮!>
 ザ・ウェイラーズは、その後リー・ペリーの独裁的なやり方に嫌気がさし、彼の元を去って行きます。そのあたりは、ジェームス・ブラウンやジョージ・クリントンなど天才ファンク・マンと同じくワンマン&クレージー度がかなり高かったようです。
 しかし、彼自身の活躍はそれからが本番でした。それは70年代にはいり、スカがロック・ステディーを経て、レゲエへと進化、そして世界のポピュラー音楽に大きな影響を与えることになるダブ誕生。これが彼の黄金時代のきっかけとなります。

 当初、セレクターはレア盤を求め、アメリカへと頻繁に足を運んでいた。60年代、ジャマイカの音楽業界が成長するにしたがって、サウンドシステムはジャマイカン・アーティストの曲で独自のアセテート盤、つまり「ダブプレート」を制作し、それぞれのシステムで独自のヴァージョンを作り始める。そして、1967年、デュークリード系列のサウンド・システムで働いていたルディ・レッドウッドという人物がジャマイカ音楽の新たな大革命に偶然めぐり会う。・・・

 ある午後、レッドウッドはザ・パラゴンズのヒット曲「On The Beach」のダブプレートを録音していた。エンジニアのバイロン・スミスが、ヴォーカル部分をダブプレートに戻すのを忘れてしまったのだが、その夜、レッドウッドはヴォーカル入りのヴァージョンと、前述のダブプレートをミックスしながらプレイすると、観客は熱狂し、大いに盛り上がった。翌日、自身のミスを謝ると代わりに、レッドウッドはリードに対し、商業リリースされるシングルのB面にヴォーカル抜きのリディム使ったらいいと力説する。リードとしても、半額以上の経費を節減できることに気づいた。一回のスタジオ・セッションで、複数の「ヴァージョン」が作れるようになるのだから。・・・

 ダブの誕生は偶然だったが、それが普及したのは経済的な理由が大きかった。そして、これが後に、ヒップホップ・ミュージックのダイアグラムとなるのだ。曲の中にはスペースが空けられ、アレンジの可能性を残しておく。するとすぐに、ストリートからのノイズがそのスペースを埋める - ヤード賛美のトースト(フリースタイル)に、サファラーの嘆き、アナログ・エコーなど - 人々のヒストリーを表わすサウンドとなるのだ。そしてこれが、公式ヴァージョンには収録されることのない、歴史のB面となるのだった。

ジェフ・チャン著「ヒップホップ・ジェネレーション」より

<レゲエ進化の最終段階、ダブとは?>
 レゲエの進化は、ある意味では「リズムのスピード・ダウンの歴史」であり、「音の軽さから重さへの変化の歴史」でもありました。(歌詞の内容的にもしだいに政治的な重いものが増えたとも言えるでしょう。その代表格が、デニス・ボーヴェルリントン・クウェシー・ジョンソンです)
 そのスピード面での進化の最終段階と言えるのが、ダブでした。このスタイルは経費削減策として広がりましたが、さすがにそのまま入れるのは面白くないと思ったア―ティストやプロデューサーが、ミキシングのテクニックを競いながら、遊び感覚でいじり始めたところ、それが意外なことに無限の自由度をもつ新しい音楽の創造につながっわけです。(その元祖は、ミキシング・エンジニアだったキング・タビー King Tubbyだったと言われています)

 ペリーは、安価な4トラックのミキシング・デッキを使っていた。当時の基準でも、呆れるほどに時代遅れの機材であるが、彼はミキシング・デッキのノブを自由自在に動かすと、ワイルドなエコーや、重力に逆らうようなフェイジング、特定の音をとことん強調したイコライゼーションなど、レコーディング中の曲に様々なエフェクトを施していた。オズボーン”キング・タビー”ラドックとの仕事に影響を受けたペリーは、エコープレックスといった古びたアナログマシーンを使いサウンドを一変させると、それをメビウスの環のようにループさせた。メロディは断片となり、すべてがハリケーンのように渦巻いていったのである。
ジェフ・チャン著「ヒップホップ・ジェネレーション」より

<最高の武器ダブを得たリー・ペリー>
 元々レコードの制作をすべて一人で行っていた彼にとって、ダブはまさに最高の武器、表現手段となりました。彼は、ダブの進化とともにしだいに大きくなる音の隙間を、彼独特のサイケデリック感覚で自由自在に埋めながら、次々に新しいサウンドを生みだします。そして、そんな時期に生み出された最高傑作とも呼ばれる作品が、アルバム「スーパー・エイプ」でした。

 ダブは、高い流布力を持っていた。ゲットーで暴力事件が多発する間、ダンスホールではダブが大人気を博していた。ダブは、民主社会主義の夢想家が描く右肩上がりの展望や、ラスタ提唱者の終末論的な警告の「B面」だったのである。レゲエ歴史家のスティーヴ・バロウは、「ダブ音楽は、『反対側』を示すものである。上があれば下があり、A面があればB面がある。何事にも反対側があるという概念を持つ、弁証法の世界なのだ」と語っている。

 1977年、ダブの人気はピークを迎えます。ペリーの「Superr Ape」、キース・ハドソンの「Brand」、ナイニー・ジ・オブザーヴァ―の「Sledgehammner」、マイティー・ギブスとエロル・トンプソンによる「Prince Far I's Under Heavy Manners」など、フィリップ・スマートの「Tapper Zukie's Tapper Zukie IN Dub」・・・そして、最大の影響力を持つ屈指のダブマスター、キング・タビーのアルバムがリリースされました。

 ダブは、時間や政治、意義が進化する混沌状態の中から生まれた音楽だ。ダブは偶発性を包含した。ダブでは、あらゆることが可能となる。ダブは最も危険な瞬間に激化し、消失する。そしてダブには、ジャマイカがいまだに的確に表現することのできない恐怖が断片となって表現されていた。

<それでも進化は止まらなかった>
 ちょうどダブが登場してきた時期に、もうひとつ新しいサウンドがジャマイカで生まれました。それは、DJスタイルと呼ばれ、レコードを使いながら、それを楽器のように用いるアーティストたちによって始められました。これもまた、今や世界中に広まった文化です。U.ロイによって始められたと言われるこのスタイルは、そのバック・トラックとしてダブを用いることで、お互いに進化をとげました。その後、ビッグ・ユースやイエロー・マンなどの活躍で、いよいよDJはジャマイカン・サウンドを代表する存在となります。しかし、そのサウンドは再びスピードを上げるようになり、リー・ペリーの居場所はしだいになくなって行きました。
 1978年、ペリーのブラック・アーク・スタジオは正統派のラスタ集団ボボシャンティの中心地となりました。ところが、その年の終わり頃、ペリーはボボシャンティをスタジオから追い出し、自らのドレッドヘアを切り、さらにはスタジオを取り壊してしまいます。
 1983年には自らスタジオに火を放ち、焼失させてしまいます。彼に何があったのかは謎ですが、後にインタビューでこう語ったとのことです。

「第三世界は、巨大なボスに吸い込まれてしまった。あらゆる道が塞がれてしまった。だから、物事がきちんと見えていないヤツらは目医者にでも行って、行く末をきちんと見るがいい。道はすべて塞がれている。・・・」
「レゲエ・ミュージックは、忌むべきものだ。ジャマイカを破壊する究極の存在さ」


<リー・ペリーは復活するか?>
 消えかかっていた、リー・ペリーですが、デジタル化の波とヒップ・ホップの人気爆発により、再びリー・ペリーに注目が集まるかもしれません。
 レゲエにおけるリー・ペリーの存在を「レゲエ界のフランク・ザッパ」と呼ぶ人もいますが、マルチな才能を持つカリスマ的な多作家は、かなり危険な面も持っていました。どちらかと言えば、「レゲエ界のジョージ・クリントン」のほうが当たっているような気がするのですが。どちらにしても、そのしぶとさは筋金入りです。まだまだ、そのパワーは、衰えることはないでしょう。

<締めのお言葉>
「アーティストとして僕は多くのガラクタ物をつくってはいるけれど、からの空間ほど素晴らしいものはないと僕は本当に信じている。からの空間はけっして無駄な空間ではない。中にアートのある空間は、すべて無駄にされた空間だ」

アンディー・ウォーホル

<参考>
「ヒップホップ・ジェネレーション Can't Stop Won't Stop」
 2005年
A History of the Hip-Hop Generation
(著)ジェフ・チャン Jeff Chang
(訳)押野素子

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