- レッド ツェッペリン Led Zeppelin -

<レッド・ツェッペリンの偉大さとは?>
 僕は1970年代からレッド・ツェッペリンの曲を聞いていましたが、その音楽の革新性については理解できてはいませんでした。彼らがやっていたことの凄さや歴史的な価値について把握できたのは、1990年に発売された彼らのボックスセットを買って、振り返って聞くことができてからでした。
 なぜ、彼らが「元祖ヘヴィ・メタル」と呼ばれるのか?
 なぜ、彼らの曲はいまだに古くならないのか?
 なぜ、彼らの曲はほとんどカバーされていないのか?
 レッド・ツェッペリンの偉大さについて、改めて研究してみようと思います。

<凄腕セッションマン、ジミー・ペイジ>
 レッド・ツェッペリンについて語るには、先ずはの前身となったバンドであるヤードバーズから始めるところですが、その前にツェッペリン、ヤードバーズ両方の中心だったジミー・ペイジのソロ時代から始めようと思います。
 ジミー・ペイジは、1944年1月9日にミドルセックス州ヘストンで生まれていて、ツェッペリンのメンバーの中では最年長ということになります。(ロバート・プラントは1948年8月20日ウェストブロミッジ生まれ、ジョン・ポール・ジョーンズは1946年1月3日ケント州シドカップ生まれ、ジョン・ボーナムは1948年5月31日ブロミッジ生まれ)
 その分、彼の音楽活動は早くから始まっていて、セッション・ギタリストとしての彼の活躍は1960年代前半からのことになります。当時彼が録音に参加したアーティストとしては、ザ・フーキンクスゼムなどのロックバンドだけでなく、ドノバン、バート・バカラック、クリフ・リチャード、ペトラ・クラーク、ミッシェル・ポルナレフなど様々なジャンルのミュージシャンがいます。この頃、彼はすでにヤードバーズのメンバーにメンバーに入ってくれるよう依頼されていましたが、忙しくてバンド活動は無理だったため、代わりに友人のジェフ・ベックを紹介したということです。
 彼が好きだった音楽はどんなジャンルだったのか?当時、彼が好きだったのは、ロックン・ロールでしたが、その後、トラッド・フォークのファンとなり、後にペンタングルを結成するバート・ヤンシュのアコースティック・ギターからは大きな影響を受けたといいます。ちなみに、他のメンバーがどんな音楽が好きだったのかというと、ロバート・プラントはカントリー・ブルースやトラッド・フォーク、第三世界の民族音楽でした。当時、ペイジと同じようにセッション・ミュージシャンとして活動していたジョン・ポール・ジョーンズは、モータウンなどソウル系の音楽好きで、ジョン・ボーナムは、ジェイムス・ブラウンなどのファンク系が好きだったと言います。こうして、メンバー個々が好きな音楽ジャンルを並べてみると、レッド・ツェッペリンというバンドの多様な音楽性が見えてくる気がします。

<ニューヤードバーズ>
 伝説的なブルース・ロックバンド、ヤードバーズは、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックという偉大なギタリストを生み出し、最後にその座についたのがジミー・ペイジでした。彼はジェフ・ベックが在籍中にヤードバーズに参加。ジェフ・ベックが脱退した後、リード・ギターを弾くことになりました。しかし、その活動は短く、1968年にヤードバーズは解散します。そこでペイジは、ニュー・ヤードバーズの結成しようとメンバーを集めます。こうして、ヴォーカルのロバート・プラント、ドラムスのジョン・ボーナム、ベースのジョン・ポール・ジョーンズが集められ、わずか2週間で新バンドのデビュー・アルバムを録音します。さっそくツアーに出ました。この時、ペイジの友人だったザ・フーのドラマー、キース・ムーンの口癖だった「すぐにポシャル」を意味するスラング「鉛の風船 Lead Balloon」(すぐに落っこちる)をバンド名にすることになり、「Lead」を「Led」にし、「Balloon」を「Zeppelin」に変え、ドイツの有名な飛行船レッド・ツェッペリンにひっかけたわけです。

<レッド・ツェッペリン誕生>
 1968年12月、バンド名をそのままタイトルにしたデビュー・アルバム「レッド・ツェッペリン」が発表されます。すると、そのアルバムはいきなり全英2位、全米10位の大ヒットとなりました。このアルバムからは「グッド・タイムス・バッド・タイムス」がシングルカットされましたが、実はバンドのメンバーはそれを認めていませんでした。彼らはアルバムをシングル盤として切り売りすること自体を拒否していたのです。アルバムをトータルなコンセプトで作り上げることは、ビートルズ以降珍しくはなかったといえますが、彼らはその後もずっとアルバムからのシングルカットを拒否し続けることになります。彼らこそ、レコード業界にアルバム中心の売り上げをもたらすことになった最大の貢献者といえるでしょう。彼らはその後、1年半をかけてヨーロッパとアメリカをツアーしてまわり、ライブバンドとして地道に評価を上げて行きました。
 1969年11月、彼らはアルバム「レッド・ツェッペリンU」を発表。このアルバムからのシングル「胸いっぱいの愛を」が全米4位の大ヒットとなり、その勢いに乗りアルバムはビートルズの歴史的名盤「アビイ・ロード」を全米チャートのトップから引きずり落ろし、7週連続1位に輝きます。全米でもこのアルバムは第1位となり、138週連続チャートインとなり300万枚を売り上げるメガヒットとなりました。(ちなみに「胸いっぱいの愛を」もまたバンド未承認のまま、かってにシングルカットされています)
 1970年9月に再び彼らは全米ツアーを行ない、ニューヨークのマジソン・スクウエァガーデンで10日連続のコンサートを行いました。この年、彼らは音楽雑誌「メロディ・メーカー」の人気投票でビートルズを上回る第1位となりました。10月にはアルバム「レッド・ツェッペリンV」を発表。彼らの代表曲となる「移民の歌」が収められているものの、このアルバムはトラッド・フォーク色の強いメロディアスな内容となる新たなスタイルが打ち出されていました。この後も、彼らは時代ごとに変化を遂げて行きますが、その変化は彼らの人気に影響を及ぼすことはありませんでした。「レッド・ツェッペリン」というブランド自体が、常に時代の最先端だったといえるかもしれません。
 1971年発表のアルバム「レッド・ツェッペリンW」は、彼らの最高傑作と呼ばれる傑作です。ヘヴィメタ的な「ブラック・ドッグ」、王道ロックンロール「ロックン・ロール」、トラッド・フォークの名曲「天国への階段」という歴史的な作品が収められたこのアルバムもまた、彼らの多様性を示す内容でした。
 1973年のアルバム「聖なる館」では、メロトロンの導入や凝ったエフェクト処理などによる実験的要素が強まりますが、それでも全英全米に1位に輝く大ヒットとなりました。
 1975年の2枚組大作アルバム「フィジカル・グラフィッティ」では、当時大人気だったウエストコースト・ロック的なサウンドや南部のスワンプ・ロック駅要素を取り入れ、2枚組でありながら全英全米で1位となる大ヒットになりました。「アキレス最後の戦い」や「カシミール」のようなスケールの大きな名曲のパワーは、誰にも真似できない高みに達しています。
 1976年発表のアルバム「プレゼンス」もまた全英全米でナンバー1となり、同年発売のライブ・アルバム「永遠の詩」(1973年のマジソン・スクウェア・ガーデンでの録音)も全英1位、全米2位の大ヒットなります。(この年は多くのバンドが競うようにライブ・アルバムを発表し、名盤が数多く世に出た記念すべき時期でもありました)

<「ヘヴィ・メタル」誕生秘話>
 「ヘヴィ・メタル」という言葉を最初に用いたのは、実はミュージシャンでも音楽評論家でもありませんでした。ビートニクの作家として多くのアーティストに影響を与えてきたウィリアム・バロウズの「柔らかいマシン」の中で使用されたのが原点と言われています。そのSF小説の中にこんな一節があります。

「重力の市民たちよ、われわれはみなヘヴィ・メタルに改造されるのだ!・・・われわれのメタルから副産物が派生し、この惑星を金属の屑でおおわれた塊に変えるなどという誹謗を信じてはならない…ヘヴィ・メタルはわれわれのプログラムされた未来であり、それに没入するのは時間の問題なのだ」
「柔らかいマシン」より
 この小説の登場人物の若い殺し屋がヘヴィ・メタル・キッズと呼ばれていて、そこから音楽評論家レスター・バングスがヤードバーズを「ヘヴィ・メタル・キッズ」と描写したのが最初だったようです。(そうなると元祖ヘヴィ・メタは、本当はヤードバーズことだったことになりますが・・・)

<悪魔のバンド>
 ジミー・ペイジがかつて悪魔崇拝にはまっていて、オカルト結社を率いて多くの作家やミュージシャンに影響を与えたアレスター・グロウリーがかつて住んでいた城を購入したことは有名です。悪魔とバンドの結びつきについては当時いろいろと話題になっていました。ロバート・プラントの子供が謎の病になって死んだり、ジョン・ボーナムが急性アルコール中毒によって突然死したりと、次々にバンドが悲劇に襲われたのは、彼らが悪魔に呪われていたからではないのか、とファンの間でも話題になっていました。かつて、ブルース界の巨人ロバート・ジョンソンが悪魔に魂を売ることで天才的なギター・テクニックを身につけたことを思い出させます。
(蛇足ですが、ホール&オーツの片割れ、ダリル・ホールも、ジミー・ペイジ以上にこの手の錬金術や魔術に関する研究で有名だそうです。それと元フリートウッド・マックのスティービー・ニックスも、魔術マニアだとか・・・)
 ただし、彼らの「悪魔的」な部分は、別の部分にもありました。大スターであるがゆえに彼らの素顔はあまり明かされることがなかったのですが、ライブ・ツアー先でのホテルでの破壊行為やグルーピー(その多くは未成年)への性的暴行、ライブ・プロモーターへの我がまま放題と金銭的な詐欺行為の数々、そして薬物の乱用によるトラブル・・・。レッド・ツェッペリンほど、ひどいバンドはいなかったと、語っているのは、当時アメリカにおけるナンバー1のプロモーターだったビル・グレアムです。
<殺人未遂事件>
 ビル・グレアムがプロモートしたライブの際、彼はスタッフの一人がジョン・ボーナムの子供の我がままをしかり、それをききつけた父親が激高し、バンドのマネージャーやガードマンらがそのスタッフに暴行を加え、あやうく殺しかけるという事件がありました。
 目の前でスタッフを殺されかけたビル・グレアムは激怒。ところが、ツェッペリン側は事件をなかったことにしなければ、ツアーを中止にするとグレアムを脅迫。仕方なく彼はバンドのマネージャーが持ってきた誓約書に署名し、その日のコンサートを開催します。しかし、その日の公演終了後、すぐにボーナムやマネージャーらを告訴します。当然、誓約書のサインは強要された、ものとして無効であるとされ、彼らは警察に逮捕されました。この事件をきっかけに他にも彼らが数多くの事件を起こしていたことが発覚。当時は、彼ら以外にもローリングストーンズやザ・フーなどのバンドも同様の事件を起こしていましたが、その原因には薬物の乱用がありました。
「あれは、わたしが生業としている仕事について、いろいろと真剣に悩まされた時期だった。わたしはああいった連中が気に入らなかった。連中の影響力も、連中の社会も、連中のパワーも気に入らなかった。悪魔的なパワーとまではいわないにしても、連中がどう考えてもクールじゃないことを、クールだと思っていたのはたしかだった。・・・」
ビル・グレアム

 ちなみに、ビル・グレアムによるとこうしたツェッペリンがらみの事件には、ロバート・プラントはほとんど関わっていなかったといいます。
「・・・ロバート・プラントはすばらしかったし、それはオフ・ステージでも同様だった。プラントと話をしていると、とてもこの男がレッド・ツェッペリンのメンバーとは思えなくなってくる。・・・」
ビル・グレアム

<バンド活動の休止と解散>
 1977年、前述のようにロバート・プラントの息子が珍しい感染症によってこの世を去り、ショックを受けた彼が歌えなくなり、バンドは活動休止状態となります。1979年にやっと久々のアルバム「イン・スルー・ジ・アウト・ドア In Through the Out Door」を発表し、活動を再開しますが、その直後1980年にジョン・ボーナムが休止。これにより、バンドは解散を決定します。1982年に未発表曲などを集めたラスト・アルバム「Coda 最終楽章」を発表して、その活動を終えました。
 ジミー・ペイジは、その後元バッドカンパニーのポール・ロジャースと新バンド、ファームを結成し、1985年に「ザ・ファーム」、1986年に「ミーン・ビジネス」を発表。
 ロバート・プラントは、ジミー・ペイジの協力を得て、「ザ・ハニー・ドリッパーズ Vol.1」(1984年)を発表。それぞれソロ活動を続けます。
 1988年、レッド・ツェッペリンは一度だけ再結成コンサートを行っていました。その時のドラムは、ジョン・ボーナムの息子。バンド結成40周年を記念したライブでした。この時点ではもうレッド・ツェッペリンは過去の存在になっていたといえます。しかし、1994年、ジミー・ペイジとロバート・プラントは、久々の傑作アルバムを世に送り出します。

<名盤「ノー・クォーター」誕生>
 1994年に行われたアレクシス・コーナーのトリビュート・ライブにジミー・ペイジとロバート・プラントがシークレット・ゲストとして登場。アコースティック・バージョンでツェッペリン時代の曲を披露。これを機に二人はモロッコのマラケシュやページの住む、ウェールズで新曲を録音。さらにMTVからの依頼で行われたアンプラグド・ライブの録音を加えて、アルバムを制作。こうして、ツェッペリン以降の最高傑作と言われる名盤「ノー・クォーター No Quater」が誕生しました。アコースティックでありながら、ツェッペリン時代に匹敵するパワフルさと繊細さを併せ持ったこのアルバムは全英7位全米4位の大ヒットとなり、音楽界からも高い評価を受けました。悪魔の呪いと言われた不幸の後、15年かけてやっと「鉛の飛行船」は悪魔の呪いから逃れ、再び天上界へと上昇を開始したのでした。

<「カシミール」について>
 僕がツェッペリンのナンバーの中で、一番好きなのは「カシミール」ですが、この曲はタイトルからして、中央アジアの高地「カシミール」のことをイメージして作られたものだと僕は思っていました。ところがそうではなく、モロッコの南にそびえ北アフリカの背骨とも言われるアトラス山脈をのぼる時のイメージをもとに作られたものだったということを、最近知りました。ツェッペリンのメンバーが「モロッコ」好きで、よく旅に出かけていたというのは有名ですから、それはなるほどと納得させる話しでした。さらに、僕にとってこの話しは、身近で直接的な旅の体験から、より納得できる話しでした。
 実は、僕も以前モロッコを一人旅したことがあり、マラケシュからフェズへバスの旅をしている時、「カシミール」的感覚を味わった覚えがあることを思い出したからです。
 「カシミール」は、クラシックにおける「ボレロ」に匹敵する存在だと僕は思うのですが、・・・いかがでしょう?
<モロッコの旅>
 モロッコの内陸に位置するマラケシュの街は、砂漠ではないのですが荒野と呼ぶに相応しい不毛の土地に城塞を築いて作られた街で、60年代末にはツェッペリンだけでなく、ブライアン・ジョーンズをはじめとするローリング・ストーンズのメンバーなど、多くのアーティストやヒッピーたちでにぎわった「サイケデリック文化の聖地」とも言えるところです。その街のホテルの屋上にあがると、真っ青な空とともに雪を頂いた雄大なアトラス山脈を望むことができます。この風景に出会った時の興奮は、今でも忘れることができません。それは、麻薬を必要としないまさにナチュラル・トリップ体験でした。
<モロッコからフェズへ>
 そこからモロッコの京都と呼ばれるフェズの街へと僕は向かったのですが、その旅はまさに「天国への階段」のような旅でした。僕が乗るバスは、少しずつ上へ上へと向かい、それにしたがってサハラ砂漠のそばにも関わらず、気温はどんどん低くなってゆきます。岩肌に掘られたような不思議な町並みは、まるでトールキンの「指輪物語」に出てきそうな雰囲気でしたし、ついには道のまわりに雪が現れ始めます。その時はわからなかったのですが、この時の上へ上へ登って行く感覚こそ「カシミール」のあの天にも昇れそうな「上昇感覚」の元だった気がするのです。そして、それはそのまま「ヘヴィ・メタルの元祖」とも言われるレッド・ツェッペリン・サウンドの本質だったのだと、僕は思うのです。

<締めのお言葉>
「最も高く飛ぶカモメは、最も遠くまで見通す」 
リチャード・バック著「かもめのジョナサン」より

小学生のマリンバ演奏によるツェッペリン・メドレー 


<参考資料>
「ロック伝説(上)」 ティモシー・ホワイト著(音楽之友社)
「レッド・ツェッペリン・ボックス・セット」のライナーより
「ビル・グレアム - ロックを創った男 -」
ビル・グレアム、ロバート・グリーンフィールド(著)
奥田祐士(訳)

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